以前ご紹介した黒田岳さんの鬼萩の汲み出しを販売したあと、今度は枇杷萩(びわはぎ)という汲み出し茶碗が入ってまいりました。
柔らかな色にお茶の緑がとても合うのではないでしょうか。柔らかい土が陶工の技術と根性で一つの焼き物になっている様を、ぜひ手にとってご覧ください。
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米沢お魚事情(昭和40年代編)
写真は今日夜のつまみ、サーモンの刺身です。朱色がきれいです。昔はこのような刺身はありませんでしたね。
地元の方はご存知でしょうが、米沢には「塩引き寿司」というものがあります。つまり塩引きにした鮭を薄く切って、酢に浸し押し寿司にしたもので、お祝いの席には必ず付いていたものです。
米沢は海からは非常に隔離された場所に位置しています。子供の頃、夏休みに海に行くというと、太平洋と日本海に別れました。うちではいつも宮城県の亘理の荒浜というところで、その前は一回松川浦にいった事もあります。
友達は汽車で瀬波にいって来た、笹川流れにいって来たなどといい、一泊で民宿に泊まってきたというのがうらやましかったものでした、うちは日帰りだったので。
さあ、そのころの刺身というと、なんといっても鮪です。そして鰹もありました。白身魚はなく、あとは鯉の洗いがたまにお盆のとき親戚に行くとありました。そのころあちらこちらに鱒釣り場があり(小野川と梓川とか)そこでも釣った魚を洗いにしてくれました。
はじめてハマチというものを生で食べたときはこの世にこんなうまいものがあるのか、という味でした。勿論天然ですしね。冷蔵事情と輸送事情が改善されると、色々なものが入ってくるようになりましたが、時を同じくして鮪の味が落ちていきました。以前は刺身で食べて一番おいしいところを食べていたのが、鮮度がいいため、どこでも生で食べるようになってしまったためではないでしょうか。
そのころ親父が飲みに行くと、帰りはすし屋によって来るらしく、(儲かっていたのでしょうか?)いつもお土産は寿司折りでした。(多分儲かったのでしょう、、、)
折りに対して掛け紙が菱形上にはすに掛けてあり、茶色と緑色の紙紐でしっかりと結びちゃんと手でつまむワッカのある、よくコントに出てくる寿司折りが朝の台所にありました。そしてその中はかっぱ巻きと筋子(というより鱒子)の巻物が半々に詰まっていました。一晩たった寿司は、酢飯が鱒子の血で染まっておりかなりワイルドでした。折りからも血で固まって容易にはがれませんでした。その寿司を口にもぐもぐ言わせながら学校に向かう私でした。
今考えるとかなり贅沢ですね。お土産に寿司を買うことは先ずないし、帰りに寿司屋にひっかかることもありえないので、、、
地元の方はご存知でしょうが、米沢には「塩引き寿司」というものがあります。つまり塩引きにした鮭を薄く切って、酢に浸し押し寿司にしたもので、お祝いの席には必ず付いていたものです。
米沢は海からは非常に隔離された場所に位置しています。子供の頃、夏休みに海に行くというと、太平洋と日本海に別れました。うちではいつも宮城県の亘理の荒浜というところで、その前は一回松川浦にいった事もあります。
友達は汽車で瀬波にいって来た、笹川流れにいって来たなどといい、一泊で民宿に泊まってきたというのがうらやましかったものでした、うちは日帰りだったので。
さあ、そのころの刺身というと、なんといっても鮪です。そして鰹もありました。白身魚はなく、あとは鯉の洗いがたまにお盆のとき親戚に行くとありました。そのころあちらこちらに鱒釣り場があり(小野川と梓川とか)そこでも釣った魚を洗いにしてくれました。
はじめてハマチというものを生で食べたときはこの世にこんなうまいものがあるのか、という味でした。勿論天然ですしね。冷蔵事情と輸送事情が改善されると、色々なものが入ってくるようになりましたが、時を同じくして鮪の味が落ちていきました。以前は刺身で食べて一番おいしいところを食べていたのが、鮮度がいいため、どこでも生で食べるようになってしまったためではないでしょうか。
そのころ親父が飲みに行くと、帰りはすし屋によって来るらしく、(儲かっていたのでしょうか?)いつもお土産は寿司折りでした。(多分儲かったのでしょう、、、)
折りに対して掛け紙が菱形上にはすに掛けてあり、茶色と緑色の紙紐でしっかりと結びちゃんと手でつまむワッカのある、よくコントに出てくる寿司折りが朝の台所にありました。そしてその中はかっぱ巻きと筋子(というより鱒子)の巻物が半々に詰まっていました。一晩たった寿司は、酢飯が鱒子の血で染まっておりかなりワイルドでした。折りからも血で固まって容易にはがれませんでした。その寿司を口にもぐもぐ言わせながら学校に向かう私でした。
今考えるとかなり贅沢ですね。お土産に寿司を買うことは先ずないし、帰りに寿司屋にひっかかることもありえないので、、、