初天神なら凧揚げですが、米沢で冬に凧をあげている人はあまり見たことがありません。外遊びのほかは、何といってもカードゲームでしょう。
息子が幼稚園から食育かるたなるものを支給されてきました。何といっても形が丸いことに驚かされます。内容もなかなかいろいろ覚えられるようになっており此れさえできれば、何でも食べれるようになるという素晴らしいカルタとなっております。
そのほかNHK教育の「日本語であそぼ」のカルタを購入したのですが、古今東西の名文がカルタになっており、これは私も非常に気に入っております。「メロスは激怒した」とか「しらざぁ、いって聞かせやしょう」とか、いいフレーズがいっぱいです。
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今年は少ない「かなこおり」
子供の頃、自分の周りには「つらら」という言葉は存在しませんでした。周囲のみんながいってるのはすべて「かなこおり」だったと記憶します。
いつの頃からつららになったのでしょうか。
急激に「つらら」になったため、以前に言っていた「かなこおり」という言葉が思い出せなくて、前に何といってたんだろう、、、などと考えたこともありました。
ばあさんに聞いて一発で思い出しました。
小学生の頃は大きいのを取って学校帰りに剣にして遊んだりしましたが、そんなことをやっている子供はついぞ見ませんね。
あと、かんかん渡りというのでしょうか。なんか誰も行っていない雪の上をそっと歩いていき、ずぼっと抜けて、長靴に雪が入る。雪は大量に入っても、少量はいってもすごくやな気分になりますし、靴下はかなりぬれてしまいますね。
寒いながらも、ずっと外遊びをしていたあの頃の子供は、どこに行ってしまったのでしょうか。
今日は休みのため、実家に調べものにいって来ました。
直江兼続が亡くなってから、彼の菩提寺徳昌寺に葬られたのですが、その後謙信の修行の寺である林泉寺とのあいだに寺争いが起きて、徳昌寺が破却されてしまいます。それは草一本に至るまでの徹底したものだったらしく、徳昌寺は故郷新潟の与板に憤懣やるかたなく、帰っていったのです。そして今でも大きな寺として与板にあるのだそうです。その後兼続の遺骨と墓は東寺町真福寺(お船の方のほうの寺らしい)そこでもトラブって北寺町東源寺を兼続の重臣、平林の下屋敷に開山します。兼続の遺骨はいまだこの寺に眠っているらしいのです。
徳昌寺は現在の徳町長慶寺にあったとのことで、徳町=徳昌寺でこの町名だけがその名残をとどめています。町名だけでもよく残ったものと思いますし、それをよしとしない与板衆などが多く存在したのでしょうか。明治時代までは徳昌寺町と呼ばれていました。
まあそういう争いはどこにでもあるらしく、その後林泉寺は高玉瑞龍院とも大きい争いが起こっています。なぜ徳昌寺がそこまで滅茶苦茶に破却されたのかという理由が真福寺の建立したときの棟上札に書いてあったとこのことを米沢信用金庫叢書3 直江兼続伝に書かれており、その詳細が米沢市史に書かれているということだったのです。
実家にある米沢市史は昭和19年登坂又蔵(二代目)の復刻版で原本からそのままコピーして一冊にしたものです。通史にはそのことはやはり出てこなくて、各論の宗教というところに、真福寺の棟上札に徳昌寺破却の真相が書かれてあったが、大正6年の大火で焼失してしまい残念だということが書かれていたのみでした。詳細は分からないというか、もし分かったとしても上杉家にとって都合のいい話であったわけもなく、抹殺してしまったのでしょう。
お船の方が亡くなってからは兼続の法事は与板衆により細々と続けられて、それを聞いた鷹山公がそれはおかしいと法事を執り行ったことが書かれており、兼続亡き後は、不識庵謙信の派閥、上田長尾景勝の派閥、そして兼続の与板衆との争いが本格化したのではないでしょうか。なんつったって、みんな武闘派ですし、殿様だらけの藩ですからねぇ。
天地人は与六にノックアウトという感じでした。
これからの天地人の展開が楽しみです。
いつの頃からつららになったのでしょうか。
急激に「つらら」になったため、以前に言っていた「かなこおり」という言葉が思い出せなくて、前に何といってたんだろう、、、などと考えたこともありました。
ばあさんに聞いて一発で思い出しました。
小学生の頃は大きいのを取って学校帰りに剣にして遊んだりしましたが、そんなことをやっている子供はついぞ見ませんね。
あと、かんかん渡りというのでしょうか。なんか誰も行っていない雪の上をそっと歩いていき、ずぼっと抜けて、長靴に雪が入る。雪は大量に入っても、少量はいってもすごくやな気分になりますし、靴下はかなりぬれてしまいますね。
寒いながらも、ずっと外遊びをしていたあの頃の子供は、どこに行ってしまったのでしょうか。
今日は休みのため、実家に調べものにいって来ました。
直江兼続が亡くなってから、彼の菩提寺徳昌寺に葬られたのですが、その後謙信の修行の寺である林泉寺とのあいだに寺争いが起きて、徳昌寺が破却されてしまいます。それは草一本に至るまでの徹底したものだったらしく、徳昌寺は故郷新潟の与板に憤懣やるかたなく、帰っていったのです。そして今でも大きな寺として与板にあるのだそうです。その後兼続の遺骨と墓は東寺町真福寺(お船の方のほうの寺らしい)そこでもトラブって北寺町東源寺を兼続の重臣、平林の下屋敷に開山します。兼続の遺骨はいまだこの寺に眠っているらしいのです。
徳昌寺は現在の徳町長慶寺にあったとのことで、徳町=徳昌寺でこの町名だけがその名残をとどめています。町名だけでもよく残ったものと思いますし、それをよしとしない与板衆などが多く存在したのでしょうか。明治時代までは徳昌寺町と呼ばれていました。
まあそういう争いはどこにでもあるらしく、その後林泉寺は高玉瑞龍院とも大きい争いが起こっています。なぜ徳昌寺がそこまで滅茶苦茶に破却されたのかという理由が真福寺の建立したときの棟上札に書いてあったとこのことを米沢信用金庫叢書3 直江兼続伝に書かれており、その詳細が米沢市史に書かれているということだったのです。
実家にある米沢市史は昭和19年登坂又蔵(二代目)の復刻版で原本からそのままコピーして一冊にしたものです。通史にはそのことはやはり出てこなくて、各論の宗教というところに、真福寺の棟上札に徳昌寺破却の真相が書かれてあったが、大正6年の大火で焼失してしまい残念だということが書かれていたのみでした。詳細は分からないというか、もし分かったとしても上杉家にとって都合のいい話であったわけもなく、抹殺してしまったのでしょう。
お船の方が亡くなってからは兼続の法事は与板衆により細々と続けられて、それを聞いた鷹山公がそれはおかしいと法事を執り行ったことが書かれており、兼続亡き後は、不識庵謙信の派閥、上田長尾景勝の派閥、そして兼続の与板衆との争いが本格化したのではないでしょうか。なんつったって、みんな武闘派ですし、殿様だらけの藩ですからねぇ。
天地人は与六にノックアウトという感じでした。
これからの天地人の展開が楽しみです。
月がとっても青いから、、、
菅原都々子という歌手を直接ご存知ない方でも、物真似では聞いたことのあるフレーズだと思います。
月がとっても青いから、遠回りして帰ろう
独特なビブラートとともに凄く情景のうかぶ歌唱でした。2006年に歌手としては引退されていますが、ボランティアなどでは歌われているそうです。
今日の月は、美しく、寂しく寒いので遠回りは出来ませんでしたが、心に残るような月夜です。
今年の冬は、月がきれいに見えます。米沢で冬に月を見るのは、昔はそうはなかったような気がします。関東にいたとき、冬でもきれいに見えるもんだ、と思ったものでした。
確かに青く見えるときってありますよね。
月がとっても青いから、遠回りして帰ろう
独特なビブラートとともに凄く情景のうかぶ歌唱でした。2006年に歌手としては引退されていますが、ボランティアなどでは歌われているそうです。
今日の月は、美しく、寂しく寒いので遠回りは出来ませんでしたが、心に残るような月夜です。
今年の冬は、月がきれいに見えます。米沢で冬に月を見るのは、昔はそうはなかったような気がします。関東にいたとき、冬でもきれいに見えるもんだ、と思ったものでした。
確かに青く見えるときってありますよね。
息子、水疱瘡(みずぼうそう)を患う。
昨日の午前中は息子と二人で店番をしていました。朝、着替えたときは分からなかったのですが、何か顔にぷつぷつが、、、
店を閉めて、近くの小児科へ。
やはり水疱瘡でした。その後結構ぶつぶつが増えてきました。子供の頃私もやったはずなんですが、何となくかゆい感じなのです。何でしょうか。
また水疱瘡は帯状疱疹とおなじ菌なのだそうです。帯状疱疹はこの辺ではつづらごと呼ばれています。だが、鶴岡の辺では白蛇(はくじゃ)、九州ではへびたんというとのことです。
親戚の人がつづらごになったとき、ある神様にみてもらったら、蛇が巻き付いているので、蛇の神様に御参りするようにといわれた話を聞いたことがあります。
「みずぼうそう」という音を聞くと、昔作業に行った千葉の誕生寺やら小湊の竹林やら、九十九里(随分工事で歩いているのです。)やらを思い出します。ぼうそう=房総です。
この辺は浜幸氏の地盤ではなかったでしょうか。気性の荒い土地柄でしたが、小湊の竹林の地滑り調査に行ったときは、その土地のおばあさんが弁当のとき縁側を使わしてくれ、わざわざ思いブラウン管のテレビを持ってきてくれて、親方とおばあさんと3人でのど自慢を見た覚えがあります。
日曜も仕事してたんだなぁ。バブル前でしたが、地上げの空気が漂いだした頃でもありました。
店を閉めて、近くの小児科へ。
やはり水疱瘡でした。その後結構ぶつぶつが増えてきました。子供の頃私もやったはずなんですが、何となくかゆい感じなのです。何でしょうか。
また水疱瘡は帯状疱疹とおなじ菌なのだそうです。帯状疱疹はこの辺ではつづらごと呼ばれています。だが、鶴岡の辺では白蛇(はくじゃ)、九州ではへびたんというとのことです。
親戚の人がつづらごになったとき、ある神様にみてもらったら、蛇が巻き付いているので、蛇の神様に御参りするようにといわれた話を聞いたことがあります。
「みずぼうそう」という音を聞くと、昔作業に行った千葉の誕生寺やら小湊の竹林やら、九十九里(随分工事で歩いているのです。)やらを思い出します。ぼうそう=房総です。
この辺は浜幸氏の地盤ではなかったでしょうか。気性の荒い土地柄でしたが、小湊の竹林の地滑り調査に行ったときは、その土地のおばあさんが弁当のとき縁側を使わしてくれ、わざわざ思いブラウン管のテレビを持ってきてくれて、親方とおばあさんと3人でのど自慢を見た覚えがあります。
日曜も仕事してたんだなぁ。バブル前でしたが、地上げの空気が漂いだした頃でもありました。
耐熱ガラス食器です。
コーヒー関連のいろいろな道具を作っているHARIOは、もともとは試験管などの実験器具のメーカーです。だから製品も確かだし、なかなかおしゃれなものが多いのです。
リサとガスパールはゲオルグ・ハレンスレーベンとアン・グットマンの共作の絵本の登場人物。日本ではペネロペのほうが有名かもしれません、教育TVでやってるので。うちの息子も大好きですが。
素敵なガラス製品です。ぜひ手にとってご覧ください。
PS 今年になってすぐ、先輩の訃報が届きました。
女子高(今は九里)の北側にある喫茶ガロのみっちゃんが亡くなりました。みっちゃんは私よりずっと年上なのに私はみっちゃんと呼んでいました。
彼女は喫茶店をやっているにも関わらず、毎晩、毎晩マイルスやキッチン・バンにやってきて一緒に楽しく飲んだものでした。とにかく飲みました。何といっても毎晩飲んでいたんですから。
みっちゃんが東京から米沢に戻るとき、勤務先の人に東京でどこに行ってみたいかを問われ「キャバレーに行ってみたい!」
といい連れて行かれたのが今は無き鶯谷の名門「スター東京」
その10数年後、その舞台で偶然私がサックスを吹いた話をして大受けしましたね。楽しかったです。
あっちに行ったら又毎晩飲みたいと思いますので、よろしくお願いします。合掌。
リサとガスパールはゲオルグ・ハレンスレーベンとアン・グットマンの共作の絵本の登場人物。日本ではペネロペのほうが有名かもしれません、教育TVでやってるので。うちの息子も大好きですが。
素敵なガラス製品です。ぜひ手にとってご覧ください。
PS 今年になってすぐ、先輩の訃報が届きました。
女子高(今は九里)の北側にある喫茶ガロのみっちゃんが亡くなりました。みっちゃんは私よりずっと年上なのに私はみっちゃんと呼んでいました。
彼女は喫茶店をやっているにも関わらず、毎晩、毎晩マイルスやキッチン・バンにやってきて一緒に楽しく飲んだものでした。とにかく飲みました。何といっても毎晩飲んでいたんですから。
みっちゃんが東京から米沢に戻るとき、勤務先の人に東京でどこに行ってみたいかを問われ「キャバレーに行ってみたい!」
といい連れて行かれたのが今は無き鶯谷の名門「スター東京」
その10数年後、その舞台で偶然私がサックスを吹いた話をして大受けしましたね。楽しかったです。
あっちに行ったら又毎晩飲みたいと思いますので、よろしくお願いします。合掌。