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昭和40年代東部地区駄菓子屋事情

  • 昭和40年代東部地区駄菓子屋事情
私が子供の頃のテリトリーであった東部地区は北は八木橋という松川縁の集落から東は六部、片子、南は通町一丁目、日の出町国立療養所と広大な広さでした。現在は通町日の出町が松川地区となり、若干範囲が狭くはなりましたが。

私が行っていたのはなんといっても信濃町の大日堂前の吉野屋です。
おばあさんが一人でやっていて、東部保育園に孫を迎えに行くときは、店に白いカーテンがかかっており、そんなときは遊んでばあさんを待っていたものでした。
店に入ると壁には甘納豆の当て物がかかっており、くじで引いて何杯か決めるカレーせんべい(薄緑色のコップで袋に入れる)、ガムの当て物(トップサンガムだったと思います。)上のほうには細木と竹ひごで作る飛行機の紙袋が洗濯ばさみでぶら下がっていました。
あとは怪獣の写真が一枚五円で売られており、通常はウルトラ物なのですが、映画の公開に併せて、ゴジラ、ガメラ、ギララ、ガッパなどの映画物が販売されました。まだあったんですね、全ての封切館が=東宝(米劇)、大映(中央)、日活(丸の内)、松竹(遊楽館)。
花火の季節になると奥の部屋の入口に雑然と並べられ、その中からよく吟味してセレクトしたものでした。そのほか学習帳などの文具や小間物なども所狭しと並べられており、かなりのワンダーランドでした。

他に東部小学校近くの後藤店(多分八百屋が本業)の左側のコーナー、通町の田代店(洋品店とタバコ屋もしていた気がする)はちょっと珍しいぬりえを販売していたし、駅前の大島店(本業は雑穀か、卵なども売っていた気がする)も花火などはかなり充実していたような覚えがある。

その外の地区で記憶にあるのが、南部小前の種村店(たなむらみせ、と読みます。)東寺町善立寺脇の青柳店、上杉公園南堀端の神原店、幸町三の丸脇の角店
他の店に行くと、問屋が違うのか、店主のセレクトが違うのか、いつもとは違う商品が並んでいて、興味をそそられました。

かどみせはまだやっているんでしょうか。あとは壊滅状態ですね。
2009.04.06:mameichi:コメント(2):[そこいら辺を歩く]

川中島擬戦 其一の4

  • 川中島擬戦 其一の4
百年前之上杉軍団雄姿
明治四十一年東宮行啓記念川中島擬戦実況絵葉書其一

○川中島擬戦 相生橋行軍ノ景 明治41年9月16日
2009.04.06:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]

あけぼの小路慕情

  • あけぼの小路慕情
昨日通りかかったので、ちょっと写真だけとってみました。

昭和35年頃の地図には、興正市場となっているところでしょうか。
平成21年の今も見事に昭和で、映画やコントの舞台の雰囲気が横行しております。
若き日の故川谷拓三とか、朝丸といっていたころの桂ざこばがやくざにからまれて、看板とともにボコボコにされるシーンが目に浮かびます。

この近くに以前柳屋という酒屋さんがございました。最近まであったと思うのですが。
子供のころ図書館に通っていた頃のことかと思われます。図書館は現在の南堀端、上杉記念館(伯爵邸)の隣にありました。
暑い夏だったと思われます。帰りにのどが渇いたからファンタでもと思ったのでしょうか。この酒屋に寄りました。ファンタが50円ぐらいだったのでしょうか。だけど残念ながら10円足りませんでした。その時同じファンタの瓶に透明な液体が入っているものを見つけました。聞くとこれは炭酸水だとのことでした。価格は40円なので購入可能です。あくまでも焼酎とか、メロンソーダなどの希釈用として販売していたのでしょう。
これを下さい、といったらこれは甘くもなんともないのでおいしくないからやめておきなさい、とのことでした。シュワシュワするのに甘くない。子供心にどういうものか非常に興味がわき飲んでみたい衝動にかられました。
それでもいいのでください、というとおじさんは悪いことは言わないからやめた方がいいということを強くおっしゃり、ファンタグレープを10円負けてくれました。

その後ツアーでイタリアに行く機会があり、食事のとき好んでガス入りの水を飲む日本人親子がいました。
なんだ、飲んでもいいんじゃん、と思いました。
2009.04.05:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

臨時休業。

  • 臨時休業。
おはようございます。

本日は息子と二人で店番の予定だったのですが、彼が急に発熱してしまいました。
本日は臨時休業といたします。

申し訳ございませんが、明日以降のご来店を心よりお待ち申し上げます。
2009.04.05:mameichi:コメント(0):[家庭の事情は!]

伝国山より、吾妻山を望む。

  • 伝国山より、吾妻山を望む。
県工が上郷になぜか移動して、工事をしていたときになぜか土盛りをしているのであれはなんだろうと思っていたら、この山というか、丘ができました。
これがなかなかいい感じなんですね。夏の米沢日報の水上花火大会はこの山が出来たことにより、現在の隆盛を築いたといっても過言ではないでしょう。

昔米沢新聞の高原学校に対して米沢日報もハイランドスクールという同様の企画をやっていました。夏の林間学校です。
米新は天元台のロッヂで、日報は白布東屋東雲荘で行っていました。
私はどちらにも参加していますが、日報のマイナーな感じが好きでした。そしてそれが終わると水上花火大会をやるので○月○日に来てください、と召集がかかります。そうするとハイランドスクールで遊んだ人たちと再開できる仕組みになっていました。
そしてそのころこれを見に来るのは多くとも100人ぐらいだったと思います。
変わるものです、時代は。
2009.04.04:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]