堤義明氏の西武体制が崩壊したために、スケートというお金のかかるスポーツはいきなり劣勢に立たされてしまったのではないでしょうか。
むしろ、これはその中の一つの出来事で、事実スケートリンクは昔よりも少なくなったと思います。
私にとってのスケートリンクといえば、粡町のマルハでやっていたのを思い出します。小学校の頃にはリンクは廃業したかもしれません。夏はアイスクリームの工場で、冬はスケートリンクという非常に季節がコントロールされているワークシュアリンングです。二階は卓球場になっていました。この卓球場という商売ももはや見られないものとなってきています。山形の駅の近くに「ひよこの卓球場」というのがありますが、いったいこれは何のことでしょうか。
それから先輩に聴いた話では、上杉神社前の岩崎石材の近くにも屋内スケートリンクがあったとのことですが、未確認です。
山形は現在厚生年金(何か最近経営が替わったらしい)に屋内スケート場が、県体育館のところに屋外リンクがありますが、昔確かパレスグランでール附近に山形スケートリンクだかがあったと思います。汽車で行った記憶があります。
東京にいた時、スケートリンクといえば有名なのは後楽園か西武の東伏見のリンクですが、内幸町のNHK跡に建った日比谷シティのビルとビルの間にも屋外スケートリンクがありました。
ここのリンクももうないようですが、完全に暇なサラリーマンが遊ぶ施設で、東京にはそういうところが数多くあり、あちこちにサラリーマンが釣堀をしたりしていて、水道橋の辺はやっていると総武線からも見えるので、上司にばれた人もいるのではないでしょうか。
バブル前夜、ちょっとのんきな首都東京のひとコマです。
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米坂線はなぜ旧市内を半周してから、新潟に行くのか?
完全解決したわけではありませんが、思うことを二つほど。
米坂線は明治25年の鉄道敷設法から始まるため、計画自体は古く羽越横断線として私が所持している明治34年の地図には最早記入されています。但しルートは現在の置賜駅附近から六郷に向かい、小松も通らずに玉庭を通り、ずんずんまっすぐ新潟に向かっています。実際新潟まで通るのはずーっとあとの事ですが。
鉄道は現在でも当時でもお金のかかる国家事業です。1kmいくらという単価で計算するため、なるべく最短距離を通ることを考えるはずです。トンネルと橋梁は金がかかるため、なるべくならば最短で抑えたい、なるべくなら使いたくないわけです。
そのため、新潟に行くのに米沢の町をぐるりと回るのはセオリーではないはずです。しかも松川と鬼面川を渡らなければなりません、このルートは!
そうまでして市内をなぜ回らねばならなかったのか?
一つは帝人の存在です。あの大屋政子ちゃんのテイジンです。今の三中が建っているところに、帝人米沢工場が発足しました。かなり大きい工場になる計画であったらしく、鉄道の引込み線を計画しました。西米沢駅はそのための駅で、現在でも構内は広く取られています。その後パトロンである鈴木商店の倒産、米沢工場の狭小による岩国工場への移管が起こり引込み線の計画はなくなります。だがこのために米坂線のルートが変わったのではないでしょうか。
帝人の米沢撤退は諸説入り乱れてるので、もう少し検討してからにします。
もう一つは野岩羽線の存在です。これも明治25年には計画されていた線区で、栃木県今市から会津をぬけて米沢に至る路線です。現実には熱塩までは通ったが、残念ながら米沢までは敷設されませんでした。そのときの受け入れ駅が西米沢だったことを何かの資料で読んだことがあります。そのこともあり、西米沢構内を広くとっていたものと思われます。
米沢駅から直接西米沢方面に通すことは、町を通るため難しかったのかもしれません。
数日前、新型車両を初めて見ました。まだまだ走るんですね、米坂線。
米坂線は明治25年の鉄道敷設法から始まるため、計画自体は古く羽越横断線として私が所持している明治34年の地図には最早記入されています。但しルートは現在の置賜駅附近から六郷に向かい、小松も通らずに玉庭を通り、ずんずんまっすぐ新潟に向かっています。実際新潟まで通るのはずーっとあとの事ですが。
鉄道は現在でも当時でもお金のかかる国家事業です。1kmいくらという単価で計算するため、なるべく最短距離を通ることを考えるはずです。トンネルと橋梁は金がかかるため、なるべくならば最短で抑えたい、なるべくなら使いたくないわけです。
そのため、新潟に行くのに米沢の町をぐるりと回るのはセオリーではないはずです。しかも松川と鬼面川を渡らなければなりません、このルートは!
そうまでして市内をなぜ回らねばならなかったのか?
一つは帝人の存在です。あの大屋政子ちゃんのテイジンです。今の三中が建っているところに、帝人米沢工場が発足しました。かなり大きい工場になる計画であったらしく、鉄道の引込み線を計画しました。西米沢駅はそのための駅で、現在でも構内は広く取られています。その後パトロンである鈴木商店の倒産、米沢工場の狭小による岩国工場への移管が起こり引込み線の計画はなくなります。だがこのために米坂線のルートが変わったのではないでしょうか。
帝人の米沢撤退は諸説入り乱れてるので、もう少し検討してからにします。
もう一つは野岩羽線の存在です。これも明治25年には計画されていた線区で、栃木県今市から会津をぬけて米沢に至る路線です。現実には熱塩までは通ったが、残念ながら米沢までは敷設されませんでした。そのときの受け入れ駅が西米沢だったことを何かの資料で読んだことがあります。そのこともあり、西米沢構内を広くとっていたものと思われます。
米沢駅から直接西米沢方面に通すことは、町を通るため難しかったのかもしれません。
数日前、新型車両を初めて見ました。まだまだ走るんですね、米坂線。
天地人博に行ってきました。
幼稚園に渡す提出物を、諸般の事情により渡し忘れたため、届けに行きそのついでに息子と天地人博を観覧してきました。
常には大河ドラマは見ていないのですが、今回は≪愛珈琲≫でもお世話になっているので、一回目から大体は見てます。このようなことがなかったら米沢に住んでいても歴史のことって死ぬまで分からなかったかもしれないなぁ、などと思います。
息子が騒ぐので、天地人シアターは見れませんでしたが、豊臣秀吉の書状などが展示されていました。結構残っているものですね。
ストーブのトヨトミというのは関係あるんでしょうか。また今太閤と言われたのは故田中角栄だったでしょうか。
常には大河ドラマは見ていないのですが、今回は≪愛珈琲≫でもお世話になっているので、一回目から大体は見てます。このようなことがなかったら米沢に住んでいても歴史のことって死ぬまで分からなかったかもしれないなぁ、などと思います。
息子が騒ぐので、天地人シアターは見れませんでしたが、豊臣秀吉の書状などが展示されていました。結構残っているものですね。
ストーブのトヨトミというのは関係あるんでしょうか。また今太閤と言われたのは故田中角栄だったでしょうか。