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札の辻に高札場復活!

  • 札の辻に高札場復活!
豆いちから歩いて40秒ぐらいのところ、大町通りと極楽寺からお城に向かう小関洋服店の角がその昔札の辻と呼ばれて、高札場がありました。そこに高札が立てられました。

もとは粡町にあったが、往来が烈しくなり元和年間に奉行郡代平林正恒がその場所に移したものです。写真で見るとおりかなり大きくて立派なものです。

私が知っている札の辻といえば、東京の田町にあるものと、京都の南区東九条西明田町という南なのか東なのか西なのか分からないところにあったのを思いだします。

札の辻は高札場であると同時に、里程および宿駅の基点になっていたということで、豆いちの場所は元々米沢のへそにあるといえましょう。

本日の絵葉書 4月15日 

  • 本日の絵葉書 4月15日 
百年前之米澤

明治後期米澤文明乃曙華哉時代乃名所絵葉書
米澤停車場前 発行元不明

2009.04.15:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]

東2丁目より福田町一丁目地内を臨む。

  • 東2丁目より福田町一丁目地内を臨む。
いないようでした、焼き鳥にしてはいけない鳥は。東京中央郵便局建替=トキの焼き鳥という例えは、ちょっとぴんときませんが。
このままあの鳥は単独国中を行脚して、祖国中国に帰っていくのでしょうか。

桜の花のつぼみもふくらんで、天気はいまいちでしたが一部開花したところもありました。

「サクラサク」や「イナホミノル」などの有名国立、私立を受験したことがないのでその事情は知れませんが、今でも合格通知電報というのはやっているのでしょうか。
私のときは首都圏私立という金のかかる大学で、受験の為に二回上京したと思います。そして、結局最初の上京で受けた大学は二回目の上京のとき自分で発表を見に行き、その後は先輩、知人(親戚のようなもの)に見に行ってもらいました。
大概「だめだった。」という電話が来るので、めったにいかない大学まで足を運んで不合格の通知をするのも面倒な作業だったことと思います。ただし御礼をしても電報を打ってもらうよりも安かったのでしょう。
一年後、浪人した友人の発表を見に行ったりして、滅多にくぐらない他の大学に足を踏み入れたりしていました。いまはどうやっているのでしょうか。結果ぐらい通知してくれてもよさそうなものですが。まあ、受かれば書類送ってきますけど、なかなか受からないもんだ。

米沢の桜では柳町妙円寺の桜がいつも一足先に花をつける感じなのですが、やはりもう満開に近くなっていました。
公園の桜を愛でながら、珈琲でもいかがですか。そういえば豆いち附近に天地人博の立派な看板が設置されました。

2009.04.14:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

本日の絵葉書 4月14日

  • 本日の絵葉書 4月14日
百年前之米澤

明治後期米澤文明乃曙華哉時代乃名所絵葉書
米澤市南方遠景 米澤盛文堂発行
2009.04.14:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]

浪花節だよ人生は!

  • 浪花節だよ人生は!
えー、皆さん(これじゃ人生幸朗ですよ!)浪曲を聴いたことはありますか?これがなかなかいいんですよ。
今のところTVで常時聞けるのは、NHKの子供番組でうなりやベベンという名前でやっている国本武春という人のみでしょう。

戦後昭和40年ごろまでは、間違いなく娯楽の一翼を担っていた芸です。私が中学生だった昭和50年代でもまだ浪曲大会のポスターが床屋に貼ってありました。ノルマがあるようなことをおばちゃんから聞きました。
今ではこういうことは少なくなりましたが、床屋と浪曲、蕎麦屋と相撲というふうに、どういうわけか組合がかぶって連携していた時代がありました。今でも蕎麦屋に相撲番付が張ってあることがあります。

またCMの「クリスタルでんなぁー。」(いやぁ、田中康夫氏が小説書いてた頃のねたですね。)といった故廣澤瓢右エ門師が床屋の小僧からプロへの転向でした。当時かなりの大御所でも鋏はもう駄目だが剃刀はまだ扱えるよ、などということもあったぐらいで、根深いものがあります。
アメリカでも男性白人コーラスカルテットはバーバーコーラスといい、これまた床屋の裏稼業なのです。ペリー・コモもイタリア系で床屋出身というところが、洋の東西を問わず、不思議に似通ってしまうところです。
但し蕎麦屋から相撲取りになった人がいるかどうかは定かでありません。
プロレスとパスタ屋は関係ないでしょう。

私が最初に注目したのは、先代廣澤虎造です。森の石松の「寿司くいねぇ。」「神田の生まれよ。」のあれです。
浪曲というのは大きな会場で沸かせる声のいい方と、啖呵(たんか)=会話の内容で聞かせる寄席芸のほうと大きく分かれるわけですが、虎造は声量に乏しいので啖呵に頼った。でも話がべらぼうに面白い。そしてマイクが発達します。

それまでの浪花節は一声二節、三啖呵といわれていました。一枚看板がずらりと並ぶオールスターの浪曲大会のメインステージはその頃の両国国技館でした。
大きなPAがない時代、生声で全ての会場に声は響きません。そこでどうしたでしょうか?
答えは本人が唸っている場所から放射状にピアノ線を張り巡らしたといいます。それで会場いっぱいに声を送ったのです。
水を打ったようにしんとした会場にピアノ線を通して響き渡る浪花節、一度聞いてみたいものです。これが十分響いたらしいんですよ。

写真は冬でも強かった、パキーラです。

2009.04.13:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]