22時ごろに寝たので、5時ごろに起きてしまったのですが、実際は寒くて目が覚めました。窓の外は天気はいいのですが、吾妻には黒い雲が立ち込めています。
少ししてまた外に目をやると雲はすっかりどこかへいってしまい、なんと雪の吾妻が広がりました。
外へ出て写真を撮りに出かけました。山上と南原を結ぶ新大橋からの眺望です。ちょうど吾妻が全部入りました。この橋は羽越水害(昭和43年)で流され、水防団の方が犠牲になられた場所です。
そのころはまだ木の橋で、壊れた橋の欄干が土砂に埋まっていたのを記憶しています。
この橋はうちの親父が実家に行く道筋で、何度も車に乗せられて通った道です。あのころ通町からこの橋まで抜けるところは鬱蒼としていて、昼でも暗く仁科工務店のところにその面影が残ります。
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地蔵川は
豆いちの後ろを通っています。多分元々上水ではないと思います。その昔川の中から小さなお地蔵さんが出てきたという伝説があるのです。
豆いちの後ろを抜けて、その後大沼の裏から東に曲がり、柳町に出て鍛治町の高国寺を抜けていくコースをたどります。
この写真は柳町から金子紋章所の右を北に流れている地点なのですが、ほぼ江戸時代そのままというか、荒れ放題の感じがなんともいえません。
豆いちの後ろを抜けて、その後大沼の裏から東に曲がり、柳町に出て鍛治町の高国寺を抜けていくコースをたどります。
この写真は柳町から金子紋章所の右を北に流れている地点なのですが、ほぼ江戸時代そのままというか、荒れ放題の感じがなんともいえません。
2009.05.14:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
通町にもこんな素敵な、、、
ビューポイントがあるのです。
ちょっと路地を入ったら、そこから貴方にとっての旅が始まります、的なことを若き日の永六輔が龍覚散だか浅田飴だかのCMで言っていましたが、現実にそういうこともあるものです。
原方衆が達三開きと称して、自分の間口の広さで、ずっーと奥に開墾していった畠がこの辺にはまだまだ残っておりいろいろな野菜を作っています。
達三とは兼継の法名から来ているということなので、17世紀からの畑ということになります。昔は桑、煙草が多かったのですが、ここは素晴らしい菜種畑になっていました。
奥には兜山が望めます。右の大きな屋根は龍覚院です。喉の薬との関係はいかに!!
ちょっと路地を入ったら、そこから貴方にとっての旅が始まります、的なことを若き日の永六輔が龍覚散だか浅田飴だかのCMで言っていましたが、現実にそういうこともあるものです。
原方衆が達三開きと称して、自分の間口の広さで、ずっーと奥に開墾していった畠がこの辺にはまだまだ残っておりいろいろな野菜を作っています。
達三とは兼継の法名から来ているということなので、17世紀からの畑ということになります。昔は桑、煙草が多かったのですが、ここは素晴らしい菜種畑になっていました。
奥には兜山が望めます。右の大きな屋根は龍覚院です。喉の薬との関係はいかに!!
2009.05.12:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]