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本日の絵葉書 6月10日 其ノ62

  • 本日の絵葉書 6月10日 其ノ62
米澤市春日神社  (米澤市盛文堂製)

これはまだ宛名の方に文章を書いてはいけない時代なので、写真面に書いているものです。
春日神社は今あるところと同じだと思われます。銃を持っている人が普通にいた時代なのでしょうか。
2009.06.10:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]

簡単カレーを作る。

  • 簡単カレーを作る。
子供が風邪をひいて具合が悪く、幼稚園を休んだので一緒に昼寝をしたら起きれなくなり、17時ごろまで寝てしまいました。
食べたいものを聞くと「カレー」というので、時間も無いため具材を細かく切った簡単カレーにしました。

勿論H社のVカレー甘口です。前に残っていた地中海トマトのハヤシライスソースというのも2片残っていたので混ぜてみました。
具合が悪いので余り食欲もないため、いろんなものを入れました。
ジャガイモ、人参、玉葱の定番にピーマン、パプリカ(赤)、葱(緑部分)、そして豚挽き肉、完璧です。
結果は!んまいに決まっていますが、息子は半分ぐらいしか食べられませんでした。早く元気になって欲しいと切に願います。
2009.06.09:mameichi:コメント(0):[食いしん坊万歳]

天地人の録画を見る。

  • 天地人の録画を見る。
どうも日曜の夜8時に大河ドラマを見る機会に恵まれないので、録画することになります。
かみさんは中々見る機会がないようで、まだ御館の乱あたりだそうです。

記憶にある大河ドラマといえば、1969年の「天と地と」でそのときも米沢は今回のようなフィーバー振りだったような気がします。お祭りの時石坂浩二氏が来たりして。あまりやってることは変わってませんね、四十年も経ってるのに。
それまでの上杉祭りのパレードはあくまでも「仮装行列」といわれており、町内単位とか商店会とか企業が車に山車を作って町回りをする、というスタイルだったように思います。
それが「天と地と」以降は上杉行列という感じの部分だけになり、子供的には非常につまらなく感じたものです。

私は子供の頃よく一人でどこかにいってしまう子供でした。息子が今4歳なのですが、私がそのくらいの頃は、勝手にいなくなることが頻発しました。そういえばあ奴もこの間一人で外に出ていったらしいです。
割と記憶がはっきりしているのは、この5月3日のパレードの日のことです。

今でも米沢駅で砲術隊の試技が行われるのですが、当時もそうだったのでだいたいその辺でお祭りを見ていました。
それから一旦家に帰り、母が用事があるので一緒に車で南部小学校のほうに向かいました。用足しをするまで車で待っているようにいわれたのですが、遠くから何気に楽しそうな音が聞こえてきます。
そうです、パレードが近くまでやってきたのです。ぼくは見たくて見たくてたまらず、初めて自分で車のドアを開けて音のするほうへ歩いていきました。
人がたくさんいます。場所はどの辺だったのでしょうか。
パレードがやってきました。一回見ているので大体何が来るのかは分かっていました。
好きだった電電公社の電話機の山車を見てからそーっと車の方に戻って、何事もなかったように待っていた振りをしていました。
そうしたら子供がいなくなったということで、母親は随分心配して探したそうです。自分では数分と思っていたのですが、多分かなりの時間がたっていたのだと思います。

その前かその後か、東京に行ったときも一人で浜町公園に再訪する、という迷子ではないのですが勝手にいなくなる子供という役どころをやった覚えがあります。やっぱりみんなで心配するわけで、、、。

上杉神社の毘と龍の軍旗は以前はなかったように思うのですが。多分天と地と以降ではないかと睨んでいるのですが。
子供心にこの旗を見て、無い方がいいのに変なことになったものだ、と思ったことを思い出す今日この頃です。
2009.06.09:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

本日の絵葉書 6月8日 其ノ61

  • 本日の絵葉書 6月8日 其ノ61
米澤 松岬公園

この東側の土手に桜がいつのころ植えられたのか、ということですが。

この写真は大火後に復興してからと思われます。黒い鳥居も同様に作られたのでしょう。
以前はお祭りの時、この御堀の上に足場を組んだ、京都の床みたいな、浜茶屋のような飲み屋がここに2軒、北堀端に2軒出ていましたがいつのころからかなくなりました。ここで大宴会をして堀に落ちるというのをやりたかったです。
2009.06.08:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]

本日の絵葉書 6月7日 其ノ60    

  • 本日の絵葉書 6月7日 其ノ60    
米澤市松ヶ岬公園

これは結構古い写真です。多分曦山公石碑から見た神社社務所だと思われます。なので御堀ではなく池ですね。今の池と同じなのかどうかは分かりませんが、中州がある感じは似ています。鯉供養塔が建っているはずですが。
うっすらとバックに斜面山が見えます。

その池の脇にも船宿のような茶店があります。こういう施設はどうやって潜り込んだのでしょうか。大火後は遊園地とレストハウスができるまでこういうのは入れなかったのでしょう。
建て替える前の臨泉閣というのは、二階の大広間では結婚式とかやっていた雰囲気はありますが。
そこの前には大きい藤棚があったと思いますが今もあるのでしょうか。
2009.06.07:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]