奴豆腐にさも似たり 最初四角であとはぐずぐず
円生師匠の一人酒盛の枕に振る狂歌ではないでしょうか。
言い得て妙で、自分も全くその通りのことがよくあります。
酒の失敗は数知れず、楽しい酒と共に、苦い酒も随分飲んできました。
酒の無い 国へ行きたい 二日酔い
前の日調子が悪い日に限って、次の日ももっと飲みたくなったりします。
今まで一番飲んだのは、実はそんなに強くはないんですね、酔っ払うので。
おぼえているのは二人で二升空けたときでしょう。
そのころのバンドのベースののぶちゃんは強くて、おしゃべり好きで、芝居をやってて確かミュージカルとかも出ていた人です。二人で安い日本酒二本開けて、私は次の日土方のバイトでした。確か1月かなんかで相模原だかに行き、気持ち悪いし体温はどんどん取られていくし、立ってるのもやっとなのに親方に寒い、といったらぐるりを走って来いといわれ、気持ち悪さ倍増でした。
飲みすぎには、みなさん、気をつけましょうね!!
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東京漫才の系譜、その1
今の人たち、特に吉本の方々はよく分からないのですが、昭和40~50年ごろの記憶です。
どの漫才が一番売れたか、といわれれば春日三球・照代ということになると思います。地下鉄はどっから入れたか、というネタだけで天下を取ってしまった御両人、たけしのインタビュー番組に出て昔話をしていました。
春日三球はもとはクリトモ一休・三休という男性コンビ、たしか電車事故で相方を失い夫婦漫才になりました。
美人の奥様は照代・順子という姉妹漫才で少女時代からならし、もともとはギターを抱えていたと聞いたことがあります。
春日といえば今ではオードリーということになりますが。
その次に来るのはてんや・わんやかWけんじでしょうが、私の趣味からいえば Wけんじです。今の昭和のいる・こいるもくだらないが、勢いのあったときのWけんもくだらなくて面白かった。宮城けんじはもとは春日八郎の司会者、それ以前は子役で映画に出ていたという根っからの芸人、東けんじは栃木の東野鉄道(とうやと読む。鉄道はなくなったがバス会社としてそのままの名前で健在)からサーカスのピエロ、大阪でおとぼけガイズ(三波伸介・玉川良一)を経てコンビ結成、「おい、しかしけんちゃんよ」「何でしょう、宮城けんじさん」これだけで面白かった。
てんや・わんやは今でも漫才の定番である「ハゲ」「チビ」で徹底的にこき下ろす漫才でNHKはこの人たち好きだったという印象があります。よくたけしと鶴太郎でまねをしていましたが、「卵の親じゃ、ひよこちゃんじゃ、ピィ、ピィ、ピィよこちゃんじゃあひるじゃガァー、ガァー(だったかな?)」というネタをやっていた全盛期のころは知りません。NHKのビッグショウみたいな番組で再現したのは見ましたが。子供心にこの人たちは仲悪いんだろうな、と思わせるコンビでした。
その次は桂子・好江かコロムビアトップ・ライトでしょうがこの中で唯一の生き残りが内海桂子師匠。説教じみた漫才であんまり好きじゃなかったが今の若い人たち=好江をずーっと叱る漫才。後半好江師匠が力を付けてきてからはうまくいなしていましたが、それまではバランスの悪い漫才という印象でした。漫才コンテストに優勝できずお前のせいだと罵られ、自殺未遂をしたという話が痛々しく、長生きできなかった好江師匠を贔屓してしまいます。ただ色っぽさでは桂子師匠なのね、ここは。
青空一門を率いていたコロムビアトップ師匠もどうみても仲が悪いコンビで、そういうのは見事に弟子にも移るもので、球児好児以外は全てコンビ別れということになります。後半はトップ師匠は政治家、ライト師匠は漫談でやってましたが花王名人劇場などの大きい営業が入るとやるんだ漫才を。またこれが典型的に仲が悪いのが分かる漫才。それでも、それが分かっていても十分に面白い漫才でした。応援団のネタが好きでした。
東京の漫才の場合、青空とか大空とか晴乃とか高峰とか、誰が考えたのか空を眺めて大志を抱く立派な明るいイメージの名前が多いようです。芸の内容とは余り関係ないんだよなぁ。北島三郎、市川昭介先生なども漫才からのスタートだったと聞きます。大阪の漫才は昔は見る機会が少なかったので漫才といえば東京でした。
どの漫才が一番売れたか、といわれれば春日三球・照代ということになると思います。地下鉄はどっから入れたか、というネタだけで天下を取ってしまった御両人、たけしのインタビュー番組に出て昔話をしていました。
春日三球はもとはクリトモ一休・三休という男性コンビ、たしか電車事故で相方を失い夫婦漫才になりました。
美人の奥様は照代・順子という姉妹漫才で少女時代からならし、もともとはギターを抱えていたと聞いたことがあります。
春日といえば今ではオードリーということになりますが。
その次に来るのはてんや・わんやかWけんじでしょうが、私の趣味からいえば Wけんじです。今の昭和のいる・こいるもくだらないが、勢いのあったときのWけんもくだらなくて面白かった。宮城けんじはもとは春日八郎の司会者、それ以前は子役で映画に出ていたという根っからの芸人、東けんじは栃木の東野鉄道(とうやと読む。鉄道はなくなったがバス会社としてそのままの名前で健在)からサーカスのピエロ、大阪でおとぼけガイズ(三波伸介・玉川良一)を経てコンビ結成、「おい、しかしけんちゃんよ」「何でしょう、宮城けんじさん」これだけで面白かった。
てんや・わんやは今でも漫才の定番である「ハゲ」「チビ」で徹底的にこき下ろす漫才でNHKはこの人たち好きだったという印象があります。よくたけしと鶴太郎でまねをしていましたが、「卵の親じゃ、ひよこちゃんじゃ、ピィ、ピィ、ピィよこちゃんじゃあひるじゃガァー、ガァー(だったかな?)」というネタをやっていた全盛期のころは知りません。NHKのビッグショウみたいな番組で再現したのは見ましたが。子供心にこの人たちは仲悪いんだろうな、と思わせるコンビでした。
その次は桂子・好江かコロムビアトップ・ライトでしょうがこの中で唯一の生き残りが内海桂子師匠。説教じみた漫才であんまり好きじゃなかったが今の若い人たち=好江をずーっと叱る漫才。後半好江師匠が力を付けてきてからはうまくいなしていましたが、それまではバランスの悪い漫才という印象でした。漫才コンテストに優勝できずお前のせいだと罵られ、自殺未遂をしたという話が痛々しく、長生きできなかった好江師匠を贔屓してしまいます。ただ色っぽさでは桂子師匠なのね、ここは。
青空一門を率いていたコロムビアトップ師匠もどうみても仲が悪いコンビで、そういうのは見事に弟子にも移るもので、球児好児以外は全てコンビ別れということになります。後半はトップ師匠は政治家、ライト師匠は漫談でやってましたが花王名人劇場などの大きい営業が入るとやるんだ漫才を。またこれが典型的に仲が悪いのが分かる漫才。それでも、それが分かっていても十分に面白い漫才でした。応援団のネタが好きでした。
東京の漫才の場合、青空とか大空とか晴乃とか高峰とか、誰が考えたのか空を眺めて大志を抱く立派な明るいイメージの名前が多いようです。芸の内容とは余り関係ないんだよなぁ。北島三郎、市川昭介先生なども漫才からのスタートだったと聞きます。大阪の漫才は昔は見る機会が少なかったので漫才といえば東京でした。
本日の絵葉書 6月14日 其の66
(米澤市) 上杉謙信公の廟
天気がよすぎてオーバー気味の写真です。
子供のころ、うちの祖父と祖母はプロレスが大好きでした。まだ日本プロレスしかない頃、山形放送しか民放がないころ、金曜夜8時は三菱電機一社提供の銀座5丁目のにある三愛ビルの空撮(?三越屋上からでしょうか??)から始まるオープニングに心躍らせたものでした。
じいさんの兄貴で横須賀のおじさんという港湾関係の役人で横須賀市の総務部長だかをした人がいるのですが、(米澤海軍の流れを感じさせます。)この人はブッチャーだかデストロイヤーだかの試合をカラーテレビでみて興奮して亡くなった、その人です。その家系なんです、うちは。
じいさんは昭和45年に亡くなっているので、タイガーマスクは知らないと思います。
天気がよすぎてオーバー気味の写真です。
子供のころ、うちの祖父と祖母はプロレスが大好きでした。まだ日本プロレスしかない頃、山形放送しか民放がないころ、金曜夜8時は三菱電機一社提供の銀座5丁目のにある三愛ビルの空撮(?三越屋上からでしょうか??)から始まるオープニングに心躍らせたものでした。
じいさんの兄貴で横須賀のおじさんという港湾関係の役人で横須賀市の総務部長だかをした人がいるのですが、(米澤海軍の流れを感じさせます。)この人はブッチャーだかデストロイヤーだかの試合をカラーテレビでみて興奮して亡くなった、その人です。その家系なんです、うちは。
じいさんは昭和45年に亡くなっているので、タイガーマスクは知らないと思います。