というグループ名を初めて見た時、何が何だか分かりませんでした。
で、最初はこう、道路とか鉄道とかのカーブかなぁ、なんて思っていました。
そして「イナゴライダー」という読みを聞いた時、何といういいセンスなんだ!と思いました。
そして仮面ライダー自体がバッタだということに初めて気付きました。
いつの間にかライダー=イケメンの構図ですが、、、
明日はお休みになります。一寸長距離日帰りになります。
金曜日のお越しをお待ちしています。
HOME > 記事一覧
下から読んでも、、、
初めてのプランター栽培は、かみさんが世話をしてくれており、私は子供と水やり、収穫、消費を担当しています。
韓国では今も砂糖をかけて食べているらしいのですが、うちでも子供のころはその方法で、最後の汁をだれが飲むのかという時代でした。
元々は南米が発祥で、ヨーロッパでは長く鑑賞用とされていたとあります。
前の会社の時、東京のあるお客様から聞いた話です。
その方のおじいさんは米沢の出身で、随分昔の話でしょう。朝学校に行く途中「赤茄子」という新種が八百屋に売られていました。真っ赤でおいしそうでたまりません。但し一個か二個しか置いていないため、帰りは無くなっているかもしれません。そこで一個買って、お城の石垣の間に隠して登校したそうです。
学校が終わり、急いで石垣の赤茄子を食べてみました。日中の暑さで暖かくなったそれは、想像とは違ってまずかったそうです。多分果物の甘さを求めていたのでしょう。興譲館時代の話ということでしたので、南の方から通っていた人だと思います。どこの八百屋に売っていたのでしょうか。
以前はトマト属というグループでしたが、1990年代ごろからはナス属になってきているとのことなので、赤茄子という名前は当たり!かもしれません。
私が中学校の頃の同級生の話です。専業農家の人が米沢の或る種屋でトマトの種を買ったところ、見事な茄子がなったということを聞いたこともあります。
やはり親戚なのでしょう、いや間違っただけかもしれません。
まだ当分は新鮮なトマトが食べられそうです。
韓国では今も砂糖をかけて食べているらしいのですが、うちでも子供のころはその方法で、最後の汁をだれが飲むのかという時代でした。
元々は南米が発祥で、ヨーロッパでは長く鑑賞用とされていたとあります。
前の会社の時、東京のあるお客様から聞いた話です。
その方のおじいさんは米沢の出身で、随分昔の話でしょう。朝学校に行く途中「赤茄子」という新種が八百屋に売られていました。真っ赤でおいしそうでたまりません。但し一個か二個しか置いていないため、帰りは無くなっているかもしれません。そこで一個買って、お城の石垣の間に隠して登校したそうです。
学校が終わり、急いで石垣の赤茄子を食べてみました。日中の暑さで暖かくなったそれは、想像とは違ってまずかったそうです。多分果物の甘さを求めていたのでしょう。興譲館時代の話ということでしたので、南の方から通っていた人だと思います。どこの八百屋に売っていたのでしょうか。
以前はトマト属というグループでしたが、1990年代ごろからはナス属になってきているとのことなので、赤茄子という名前は当たり!かもしれません。
私が中学校の頃の同級生の話です。専業農家の人が米沢の或る種屋でトマトの種を買ったところ、見事な茄子がなったということを聞いたこともあります。
やはり親戚なのでしょう、いや間違っただけかもしれません。
まだ当分は新鮮なトマトが食べられそうです。
ラジオは楽し!
「王さんが総理になればいいのにっ!」といったのは吉田照美さんです。
この間、自動車での通勤途中YBCラジオを聴いていたら、「グッドモーニング」の中の「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」の前に「吉田照美のソコダイジナトコ」が挟み込まれていました。たまたまだったのか、常にやっているのかわかりません。YBCの番組表には掲載されていないようです。
その時の話が、王さんがまだ現役で800本のホームランを打っていたころ、まだぺいぺいで文化放送の局アナだった吉田照美が、なんと王さんのお宅にお邪魔してインタビューしたというシチュエーションです。
でその時、王さんの家には誰もいなかったのか、出迎えてくれたのも王さん、珈琲を入れてくれたのも王さん、見送りに出たのも王さんで、本当にあんないい人はいないと思ったという内容でした。こんなぺいぺいにも分け隔てなく接してくれて、今まではどちらかというと長島ファンだったのが、同じくらい或いはそれ以上のファンになってしまったと語っていました。
そして冒頭の「総理になればいいのに、、、」という発言に繋がります。
そうか、その手があったかと思いました。
王さんは不慣れな福岡で、力及ばないダイエーを率いてファンに卵をぶつけられながらも頑張りました。この間の博多山笠の山車に招待され、やっと博多っ子になれたといった王さんです。
たまに出されるコメントで、「野球界の発展」とか「子供たちの未来」とか「世界の平和」とかそういう言葉が決して上滑りでなく、心から発せられているのを感じることが出来ます。
多分台湾から日本に来てラーメン屋「五十番」をしながら人の役に立つ人間にというお父さんの影響なのでしょうか。その当時日本人でないという理由で国体に出れなかったことなどが何となく伝わっています。
その番組の最後にかかった王さんが初期の現役時代に歌ったオリジナル曲「白いボール」(1965年、冨田勲曲)の歌の下手さ加減も野球一筋の王さんを逆に増幅するものであり、もはや生きているだけでありがたい存在なのだなぁ、子供の時からの王ファンは思うのでした。
写真はハナミズキさん手製の珈琲フィルター入れが再入荷しました。初回よりもよりポップな水玉の柄が2つあります。なかなかかわいらしいので、お手にとってご覧ください。レジの横の壁にぶら下げております。
この間、自動車での通勤途中YBCラジオを聴いていたら、「グッドモーニング」の中の「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」の前に「吉田照美のソコダイジナトコ」が挟み込まれていました。たまたまだったのか、常にやっているのかわかりません。YBCの番組表には掲載されていないようです。
その時の話が、王さんがまだ現役で800本のホームランを打っていたころ、まだぺいぺいで文化放送の局アナだった吉田照美が、なんと王さんのお宅にお邪魔してインタビューしたというシチュエーションです。
でその時、王さんの家には誰もいなかったのか、出迎えてくれたのも王さん、珈琲を入れてくれたのも王さん、見送りに出たのも王さんで、本当にあんないい人はいないと思ったという内容でした。こんなぺいぺいにも分け隔てなく接してくれて、今まではどちらかというと長島ファンだったのが、同じくらい或いはそれ以上のファンになってしまったと語っていました。
そして冒頭の「総理になればいいのに、、、」という発言に繋がります。
そうか、その手があったかと思いました。
王さんは不慣れな福岡で、力及ばないダイエーを率いてファンに卵をぶつけられながらも頑張りました。この間の博多山笠の山車に招待され、やっと博多っ子になれたといった王さんです。
たまに出されるコメントで、「野球界の発展」とか「子供たちの未来」とか「世界の平和」とかそういう言葉が決して上滑りでなく、心から発せられているのを感じることが出来ます。
多分台湾から日本に来てラーメン屋「五十番」をしながら人の役に立つ人間にというお父さんの影響なのでしょうか。その当時日本人でないという理由で国体に出れなかったことなどが何となく伝わっています。
その番組の最後にかかった王さんが初期の現役時代に歌ったオリジナル曲「白いボール」(1965年、冨田勲曲)の歌の下手さ加減も野球一筋の王さんを逆に増幅するものであり、もはや生きているだけでありがたい存在なのだなぁ、子供の時からの王ファンは思うのでした。
写真はハナミズキさん手製の珈琲フィルター入れが再入荷しました。初回よりもよりポップな水玉の柄が2つあります。なかなかかわいらしいので、お手にとってご覧ください。レジの横の壁にぶら下げております。
この缶を見ていたら、、、
なぜか金粉ショウという言葉が浮かんできました。
私にとって金粉ショウの体験は都合二回です。
一回目は磐光パラダイスです。ご承知の方も多いと思いますが、このショウの人の松明(たいまつ)の火がベンジンに引火、30余名の死者を出した未曾有のホテル火災になってしまったのですが、その後ホテルは名古屋鉄道が買い取り、またもや同じショウで誘客していたのですねぇ。
昭和48年ごろでしょうか。親父がやっていた会社の社員旅行でした。
前座の漫才師(コントか?)が多分日光のいろは坂の映像に合わせておもちゃの車に乗りドライブをするというネタを見たあと問題の金粉ショウです。
内容は詳しくは覚えていないのですが、ユル・ブリンナーの「王様と私」のイメージのスキンヘッドの男が主役(全身金粉)で、女性の何人かの金粉ダンサーが踊るような異様なものだったと思われます。
なぜこんなショウが人気を取ったのか分かりませんが、時代、ということではないでしょうか。
そのときは磐光ホテル(併設の)には泊まれず、他の団地みたいなところからショウを見に行った記憶があります。歯ブラシもなかった記憶があります。
そのころの磐梯熱海温泉は、そのショウ以外はかなりいなたい温泉宿が多く、確か磐光ホテルの前の宿は玄関が土間で、素ガラスで覆われたいつの時代のものか分からないものでした。子供にとってはろくろっ首が三味線を弾く興行でもやっていそうな雰囲気でした。どう見ても江戸の佇まいでした。
二回目の金粉ショウは、高円寺ジロキチであった新宿センター街の飲み屋バルボラの記念パーティーでした。
お客さんが踊っているなおちゃんというストリッパーに金粉を塗るという独特なものでした。当然お客さんは金粉まみれになるわけです。あういうのは今でもあるのでしょうか。昭和の終わりごろか平成のはじめ頃の話です。
バルボラという屋号は、新宿で全く違う形態の店になっているようですが、関係あるのでしょうか?
私にとって金粉ショウの体験は都合二回です。
一回目は磐光パラダイスです。ご承知の方も多いと思いますが、このショウの人の松明(たいまつ)の火がベンジンに引火、30余名の死者を出した未曾有のホテル火災になってしまったのですが、その後ホテルは名古屋鉄道が買い取り、またもや同じショウで誘客していたのですねぇ。
昭和48年ごろでしょうか。親父がやっていた会社の社員旅行でした。
前座の漫才師(コントか?)が多分日光のいろは坂の映像に合わせておもちゃの車に乗りドライブをするというネタを見たあと問題の金粉ショウです。
内容は詳しくは覚えていないのですが、ユル・ブリンナーの「王様と私」のイメージのスキンヘッドの男が主役(全身金粉)で、女性の何人かの金粉ダンサーが踊るような異様なものだったと思われます。
なぜこんなショウが人気を取ったのか分かりませんが、時代、ということではないでしょうか。
そのときは磐光ホテル(併設の)には泊まれず、他の団地みたいなところからショウを見に行った記憶があります。歯ブラシもなかった記憶があります。
そのころの磐梯熱海温泉は、そのショウ以外はかなりいなたい温泉宿が多く、確か磐光ホテルの前の宿は玄関が土間で、素ガラスで覆われたいつの時代のものか分からないものでした。子供にとってはろくろっ首が三味線を弾く興行でもやっていそうな雰囲気でした。どう見ても江戸の佇まいでした。
二回目の金粉ショウは、高円寺ジロキチであった新宿センター街の飲み屋バルボラの記念パーティーでした。
お客さんが踊っているなおちゃんというストリッパーに金粉を塗るという独特なものでした。当然お客さんは金粉まみれになるわけです。あういうのは今でもあるのでしょうか。昭和の終わりごろか平成のはじめ頃の話です。
バルボラという屋号は、新宿で全く違う形態の店になっているようですが、関係あるのでしょうか?
今日はちょっと寒いので、、、
自転車ではなく車で出勤してきました。運転に自信がないので車は嫌いなのですが、ラジオを聴けるのがありがたいです。
国営放送のラジオビタミン(村上信夫アナ、神崎裕子唄おね)で松田聖子の「風立ちぬ」がかかっており、それがなかなかいいのです。
店に着いて急いで探したんですが、残念ながらそれはありませんでした。
3枚目までは買ったのですが、風立ちぬは4枚目のLPで、もうそのころにはJAZZ一辺倒となり聖子のLPを買う余裕はなかったと思われます。
高校3年の夏、母校の野球の応援で中山の県営球場に行っていました。3年生も動員されたので、力が入っていたのでしょうか。
その途中、私は友人とそこを抜け出して蔵王へと向かいました。
そのころ蔵王音楽祭というイベントがあり、ジャズ喫茶マイルスのマスターからタダ券を入手していたのです。多分YBC文化事業部とかそういうルートだったのではないでしょうか。
出演はなんと、松田聖子、そして早見優、渋谷哲平とか今話題のサンミュージック総出演でした。バンドも数原晋さん(tp)も入っておられる多分レコーディングに近いオールスターズで、数原さんは風立ちぬ一曲のためにユーフォニュームを持ってこられ、演奏しました。
それにしても中山の球場からどうやって蔵王に登って行ったのでしょう。
左沢線で山形まで行き、バスで上がっていったんでしょうが、まったく記憶にありません。
記憶にあるのは聖子のステージ捌きとMCのうまさでした。
唄はまあ、あれです。でも全盛期の聖子ちゃんを見れたのはありがたかったと今でも思います。
27年前のガキの頃の夏です。
まだ岡田由希子とかのりぴーが出てくる少し前の、、、
この8月に松田聖子の全アルバム(?)が再発されたとのことです。そして近くマネージメントをサンミュージックに戻すという話になっているようです。
国営放送のラジオビタミン(村上信夫アナ、神崎裕子唄おね)で松田聖子の「風立ちぬ」がかかっており、それがなかなかいいのです。
店に着いて急いで探したんですが、残念ながらそれはありませんでした。
3枚目までは買ったのですが、風立ちぬは4枚目のLPで、もうそのころにはJAZZ一辺倒となり聖子のLPを買う余裕はなかったと思われます。
高校3年の夏、母校の野球の応援で中山の県営球場に行っていました。3年生も動員されたので、力が入っていたのでしょうか。
その途中、私は友人とそこを抜け出して蔵王へと向かいました。
そのころ蔵王音楽祭というイベントがあり、ジャズ喫茶マイルスのマスターからタダ券を入手していたのです。多分YBC文化事業部とかそういうルートだったのではないでしょうか。
出演はなんと、松田聖子、そして早見優、渋谷哲平とか今話題のサンミュージック総出演でした。バンドも数原晋さん(tp)も入っておられる多分レコーディングに近いオールスターズで、数原さんは風立ちぬ一曲のためにユーフォニュームを持ってこられ、演奏しました。
それにしても中山の球場からどうやって蔵王に登って行ったのでしょう。
左沢線で山形まで行き、バスで上がっていったんでしょうが、まったく記憶にありません。
記憶にあるのは聖子のステージ捌きとMCのうまさでした。
唄はまあ、あれです。でも全盛期の聖子ちゃんを見れたのはありがたかったと今でも思います。
27年前のガキの頃の夏です。
まだ岡田由希子とかのりぴーが出てくる少し前の、、、
この8月に松田聖子の全アルバム(?)が再発されたとのことです。そして近くマネージメントをサンミュージックに戻すという話になっているようです。