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ハンク・ジョーンズの逝去とスイング・ジャーナルの休刊。

  • ハンク・ジョーンズの逝去とスイング・ジャーナルの休刊。
まだ東京にいたときだから、20年も前の話でしょう。
私は名人ハンク・ジョーンズのピアノを聞きました。
その名もグレイト・ジャズ・トリオ、ドラムはルイス・ナッシュだったと思います。一寸調べたら1989年なので、21年前のことですよ。

富士通コンコードジャズは今まで何回か、聞きに行く機会がありましたがこのときほど、ゴージャスなステージはありませんでした。
ピアノだけでもトニー・ベネットの伴奏がラルフ・シャロン、ベィシー楽団がロンネル・ブライトですから。

その中で、ハンク・ジョーンズとラルフ・シャロンのフルコン2台でのDuoを一曲。
素晴らしかったですね。音楽を隅々まで知り尽くしているプロの会話。
その後元気なのは知っていて、90歳を超えてからも飛行機に乗って、毎年青山のブルー・ノートにやってきました。

ニュー・ヨークのスタジオ・ミュージシャンとして、多分一番忙しいピアノだった時代の録音がいっぱいあります。
あるクラブにレギュラーで仕事が決まって、初日からもっと高い仕事が入ったのでしょう、いきなりトラ(代演)で、ずーっと本人が来なくて、ニューヨーク中のうまいピアノが毎日弾いていたなんてこともあったようです。トラの場合は自分と同等か、もっとうまい人を呼ぶのが慣わしなので。

オスカー・ピーターソンとか、ジョージ・シアリングとか、エロール・ガーナーのような強烈な個性は持ち合わせていませんが、いつも適切に、それほど熱くはならないが、彼のソロの後は次の奏者がちゃんと乗れるようなアシストをしつつ、それでもあっ、これはハンク・ジョーンズと判るような演奏です。

オスカー・ピーターソンはジャムセッションでのバラードメドレーのやり方を、ハンクに教えてもらったそうです。尾田悟さんもかなり吹き方を教わったと読んだことがあります。
そういうふうにトレーニングしていくんですね、名人が次の名人を育てていくのでしょうか。ピーターソンは先に逝ってしまいましたが。

ご冥福をお祈りします。

そして高校、大学、その後の社会人になってからもスイング・ジャーナルにはかなりお世話になりました。
非常に判りやすい編集方針で、広告を出してくれるところは十分持ち上げるが、それ以外のものはほぼ扱わない。
趣味誌でありながら、それほどJAZZにのめりこんでいない感じが、あくまでも商売で蒸気機関車と向きあっている、静岡の大井川鉄道となんとなくかぶって見えていました。
その感じは最初は不思議でいやでしたが、こうやって商売をやってみると分かってきて、、、嫌いではなくなっていました。

広告を出せる状況じゃない業界の現状をみれば、こういう御用紙は淘汰されても仕方がないかもしれません。
ただしこの雑誌でしか知りえなかった情報は、田舎でジャズを聞き始めた頃の私にとっては、東京への憧憬とともに、すべてが光彩を放つ、魔法の雑誌でした。

こちらも、ご冥福を!
2010.05.18:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

十田木松さんて、いったい

  • 十田木松さんて、いったい
誰なのかと思い、これを書いた息子に昨日問うてみました。
「いや、もうそれは終わったことだから」とつれないこと、この上ありません。

それで、一人で調べることにしました。
まず、十田という苗字です。読みは「じゅうだ」と書いてあります。

これを「とだ」とよませれば十田敬三という歌い手さんが検索できます。
♪今日もどこかでデビルマン~を歌った方で、ポス宮崎とコニーアイランダーズとか、ダニー飯田とパラダイスキング、高橋圭三事務所に入り根市タカオカルテットと、古い洋楽業界を渡り歩いてこられた方のようです。
敬三という名前も本名は「山崎 皓」なので、高橋圭三さんから頂いたものでしょう。
中西圭三との関係も気になりますが、とにかくこの人ではないので、先を急ぎます。

他に「チンしてこんがり魚焼きパック」を開発した小林製薬の十田哲郎さん、行政書士の方(この人の読みはじゅうだです。)、ジャッキー吉川とニューブルーコメッツのヴォーカル十田一平さんなどが検索できますが、この方も誕生日が1月23日なので別人です。
一平さんと前述の敬三さんの関係も気になりますが(業界がかぶってるような気が)、先を急ぎます。

木松というのも32歳にしてはかなり古臭い名前です。
宮城県登米市迫町佐沼の木松酒店(いつのまにか市に!)、広島市西区己斐本町の木松旅館が検索できますが、多分木村松蔵とか木島松三郎とかの省略ではないでしょうか。まあどうでもいいことなので、先を急ぎます。

では32年前は、、、
12月28日、田宮二郎自殺とあります。
この日のことは憶えていて、中学3年だったと思います。
毎日放送のスタジオ2時というワイドショウを、ばあちゃんと見ていました。
大阪のワイドショウをなぜ山形で中継していたのか分かりませんが、もう落語漫才のファンになっていた私は、努めてこういう番組を見ていました。


原稿をもらった司会の故森乃福郎の顔が急に青白くなり、田宮の死を伝えました。多分そのときは亡くなったというコールだったと思いますが、最早その時点で自殺と分かっているような雰囲気だった気がします。
私は京都府立鴨沂高等学校の後輩になるんです、と田宮との関係を森乃福郎は言っていました。
ちなみにこの高校からは山本富士子、団玲子、加茂さくら、大信田礼子、森光子、沢田研二、山崎正和を輩出しており、いわゆる名門校です。

随分先を急ぎましたが十田木松さんにはぜんぜん近づきませんねぇ、森乃福郎の師匠は笑福亭福松ですが。

ちなみに松の字は本人が書けなかったので、私が代筆しております。
代書屋は桂米朝の師匠、4代目桂米團治の作で当代は米朝の息子、、、

こんなんいうてたら、きりがありませんなぁ。







2010.05.18:mameichi:コメント(0):[家庭の事情は!]

土曜日、朝の松岬公園

  • 土曜日、朝の松岬公園
息子を幼稚園に送りに、ほぼ毎日この風景を見ています。
そういえば、私は子供の頃上杉公園と呼んでいました。

松岬公園というふうに地図とか、文章には出てきますが、実際「まつがさきこうえん」と話しているのを聞いたことがありません。

松岬氏という人の居城だったという説がありますが、お城の名前は舞鶴城、でまいづる幼稚園というわけです。

ただし公園の説明には、松岬氏のことは書いてありません。長井氏から始まっています。伊達、蒲生とね。
2010.05.17:mameichi:コメント(2):[そこいら辺を歩く]

スイングガールズという映画。

  • スイングガールズという映画。
珍しく朝早く起きたので、松川橋界隈を散歩してきました。歩いて3分です。
考えてみると2003年のある日、貫地谷しほり嬢はここでラッパを吹いてたんですねぇー。
もう7年になるわけで。もう大女優さんって感じです。

ビッグバンドをやっているものとして、この映画が残したものはかなり大きいものとなりました。
まず、ビッグバンドという形態の演奏を一般の方に認知させたのは、大きかったと思います。
私たちのように、歌番組をゲップが出るほど見せられて、バンドも腐るほどあったときとは違い、あの演奏形態自体が最早珍しくなっていました。

この映画が公開された頃は、スターダスターズも随分演奏の依頼があり、いつも〆にはsing-sing-singを演っていました。
この映画でバンドに入ったのもいて、楽器も随分売れたらしいのです。

それはともかく、6月20日に長井あやめ公園百周年記念事業にスターダスターズを呼んでいただいております。
夜7時からの公園の水上ステージでやる予定です。久々の野外の演奏で楽しみにしております。



2010.05.15:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

遺影を飾る。

  • 遺影を飾る。
この間の法事は祖母の17回忌も同時に行ったので、そのくらいの時間が経っている訳です、前回の遺影を設置してから。
すべて親父がやっていたので、こうやって本人の仕事を見ることが出来ます。

仏間は大正年間の古い部屋なので、天井から長押の部分までかなり距離があります。そこに紐を通し斜めに吊るします。
曾祖母、祖父、祖母の順に並んでいますが額の大きさは同じです。
今回の親父のやつは一回り小さくなっていました。但し写真は祖母のやつも小さくなっていて、周囲に縁をつけて前の大きさと同じにしてあります。そういう風に細工したのでしょうか。

額を支える扇形の治具(何というのでしょうか?)を長押の部分に引っ掛けるわけですが、現代の厚みよりも断然長押の厚みが厚いのでペンチで直しました。
2010.05.14:mameichi:コメント(0):[家庭の事情は!]