HOME > 記事一覧

もう一人のウルトラマン

  • もう一人のウルトラマン
今から44年前の今日、ウルトラマンが放映されたそうです。
好きでしたねぇ、私も。今の子供たちが集めているカードと同様、怪獣写真というキャビネ版ぐらいの写真が駄菓子屋で売られていて、随分集めました。

そのコレクションは最近まで実家にありましたが、円谷プロになりたい!(勤めたいではない!!)という甥っ子にあげました。次期天皇も欲しがった大伴昌司の「ウルトラ怪獣図鑑」とともに。

実は今日はもう一人のウルトラマンが誕生した日なのです。
そ・れ・は、
うちのかみさんのじいちゃん、うちの息子からみれば「おじんちゃ」になるわけですが、何と102歳の誕生日なのです。

明治41年生まれ、戦前からバスの運転手として、戦後はタクシーの運転手として、昭和25年には昭和天皇の母、貞明皇后を上山村尾旅館から高畠長谷川製糸工場、米沢猪俣工場にお連れしたと話してくれたこともあります。
「俺は、意外と車を奇麗にしてだったがらよお」といって嬉しそうに。

現在は入院中ですが、私が出会った人の中では、かなりウルトラマンな感じです。

じいちゃん、おめでとう!
写真はその曾孫が作った迷路ですが、、、


2010.07.10:mameichi:コメント(0):[家庭の事情は!]

手拭いの思い出

  • 手拭いの思い出
近頃は、それほど見ることもなくなった手拭いですが、お祭りや花火大会で浴衣を着た時には是非一枚持っていたいアイテムです。

子供のころは腰に手拭いぶら下げている人は、まだおりました。ベルトのところにね。
スイングガールズのロケに行った時も(皆川球場)豆しぼりの手拭いを貰いました。

何といっても手拭いの思い出は、、、ある日のことです。
何か探し物をしていた親父が、こんなものが出てきたと言って箱を持ってきました。
その中には、市内の商店で配ったオリジナル手拭いが熨斗紙も取らずにいっぱい入っていたのです。
母が嫁入りするときに婆さんが持たせてくれたのだろうということでした。
座頭町、粡町、立町の店舗が中心だったかもしれません。何回か探そうと試みましたが、どこに行ったものか、分かりません。

写真の手拭いは、珈琲好き向けのものです。限定3本、豆いちの珈琲瓶もデザインされております。
2010.07.09:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

俳句で「あさがお」といえば、

  • 俳句で「あさがお」といえば、
初秋の季語なのだそうです。
NHKラジオ第一のシブマガZっていうのでそんなことを話していました。

で、最近かまわぬの手拭いを少しだけ仕入れてみたんです。
こう長押の部分から竿を吊ってその手拭いを飾ってみました。その釣ってある紐のところが寂しいので、あさがおを作ってみたんです。

思い立ったが吉日、でも朝顔を作るときは、ちょっとぼかしが入っているおりがみがいいじゃあありませんか。
でも買いに行くのも面倒なので、一寸検索したらダウンロード出来ちゃうんですよ、そういう折り紙が!すごい時代だ!

つるは珈琲の袋を結んでいる紙ひもを息子のクレヨンで染めて、葉っぱは絵葉書用の袋、つるのクルクルも針金で作ってみました。
ちょっと涼しげな感じもしますか?
本物はもうすぐ咲くのでしょうか。
それも今年は少し遅いのかもしれませんねぇ。
 
2010.07.07:mameichi:コメント(0):[動植物奇想天外]

冷たい麺類を食らふ。

  • 冷たい麺類を食らふ。
昨日は朝がパン、昼が冷し中華(城北麺工○!)、夜が冷たい野菜うどんで、おまんまはお休みしました。

子供のころは冷麦か素麺で主に日清製粉のナンバーワンという赤いのが1本だけ入っている奴を食べていましたが、最近はどうなっているのでしょう?

野菜は友人よりラディッシュ、京水菜、胡瓜、大葉、茄子、トマトなどを戴いたので、気に入っている7&iの黒胡麻を振りかけて大量にいただきました。

それにしても、お蒸れますな!
2010.07.07:mameichi:コメント(0):[食いしん坊万歳]

jazz喫茶育ち

  • jazz喫茶育ち
青蛙房という版元で出した本の中に六代目三遊亭円生の「寄席育ち」というのがありました。
多分図書館にあったのでしょう、買った覚えはないので。
貪るように明治の噺を読みましたっけ。

故あって円生師匠は最後は寄席から離れることになります。本人は本意ではなかったでしょうが、席亭(寄席の経営者)から肘鉄を食らわれます。
私はといえば、題名の通りjazz喫茶で音楽が好きになった人間です。

東京に行く時、今まで世話になったマイルスというジャズ喫茶のマスターから、自分の一番好きになった音源をテープに採ってもらって上京しました。
それから東京のジャズ喫茶をさ迷い歩きましたが、マイルスのような身の置き所を感じる場所はごく僅かでした。

学生が終わって就職すると、ジャズ喫茶は私の睡眠の場所へと変化していきました。
大音量が結構心地よく、よく会社をサボって昼寝に興じました。意外と眠れるのです。
気持ちよく寝かせてくれたのは渋谷と水道橋(後に飯田橋)のどちらもスイングという店でした。
店主はどちらもおじいさんで、声をかけることもなく気持ちよく寝かせていて呉れました。

もうその頃には、いわゆるモダンジャズ(マイルス、コルトレーン他)はきかなくなっていて、レスター・ヤングやベン・ウエブスターなどをリクエストするもんなら、神保町響なんかはずらっと10人以上客が帰りましたから。
ほんとにちゃんとがっかりした顔をしてレジに立つのですよ、これが。

このジャズ喫茶論には睡眠の場所という項がありませんでしたが、随分寝ている人も多くいたと思います、あのころの東京は。
2010.07.06:mameichi:コメント(0):[あの頃]