日本の珈琲店でかかっている音楽がどのようなものか?ちょっと判りませんがクラッシックであったり、またはジャズであったり、昔は歌謡曲というのもあったでしょう。
でも珈琲といえば、ラテンという時代もあったと思います。
最近は聞いていない森本毅郎の「日本全国8時です。」で随分前に、渋谷にあったパウリスタという喫茶店の話を荒川洋治先生がされたとき、森本氏が「パウリスタ!あぁ、ラテンのかかってたあの喫茶店」と懐かしそうに語ってました。
森本氏も慶応時代ハワイアンのバンドにいたと訊いたこともあるので。
このナイン・フラッグというアルバムはキューバ出身のアレンジャー、チコ・オファリルが1966年にコルトレーンで有名なインパルスレーベルに吹き込んだものです。
その当時、ニューヨークでラテン音楽のアレンジャーでは著名だった彼が、9カ国のイメージを曲にしたもので、そのジャケットとともにクラーク・テリー、セルダン・パウエル、ラリー・コリエルなどスタジオの先生方のかっこいい演奏を聴くことができます。
チコには、アルトゥーロ・オファリルという息子がおり、私は彼が率いるオルケスタを横浜まで見に行ったことがあります。2006年のことでしょう、多分。
みなと未来の劇場は、東横線で行けば近いのですが、諸般の事情により桜木町から大雨の中を会場に向った記憶があります。途中外を通ってビル伝いに行くのが大変で、結構濡れたりして。
私の席の右隣りは、今でも東京キューバンボーイズでご活躍のパーカッショニスト納見義徳さんでした。バンド編成の立ち位置をメモされたりしていて、、、
この演奏のあとわりとすぐに亡くなってしまったテナーサックス&フルートのマリオ・リベラというマエストロがジャズとは全く違うアドリブを延々展開して、それは素晴らしいものでした。
ということで、時にはラテンをかけたいと思います。
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今期2回目の花火大会。
米沢新聞社主催の東北花火大会を質実剛健な男とすれば、米沢日報社主宰の納涼水上花火大会はおきゃんな娘という感じの花火大会です。
このような小さい町に未だローカル紙が2社あって、新聞を出し花火大会を主催する、しかも双方ともスポンサーからの提供で賄っているのが素晴らしいです。
しかも段々力が拮抗してきているような感じがします。
山形県内の他の花火大会の主催者は、観光協会とか商工観光課、大会実行委員会とか金儲けとは程遠いところがやっていて、その辺も米沢いいぞっ!て感じが勝手にしています。
勿論規模は全然違いますが、お城の周りは河原とは違ってなにげに華やいでおります。
伝国山(と勝手に呼んでおりますが)は去年よりもかなり多くのギャラリーが陣取り、的屋の屋台も心なしか増加傾向にあるようです。
来年は50回大会とのことなので、是非見に行ってはいかがでしょう。
とにかく、一つの町でワンシーズンに2回別の場所で傾向の違う花火が見られるのは、全くもって幸せなことです。
このような小さい町に未だローカル紙が2社あって、新聞を出し花火大会を主催する、しかも双方ともスポンサーからの提供で賄っているのが素晴らしいです。
しかも段々力が拮抗してきているような感じがします。
山形県内の他の花火大会の主催者は、観光協会とか商工観光課、大会実行委員会とか金儲けとは程遠いところがやっていて、その辺も米沢いいぞっ!て感じが勝手にしています。
勿論規模は全然違いますが、お城の周りは河原とは違ってなにげに華やいでおります。
伝国山(と勝手に呼んでおりますが)は去年よりもかなり多くのギャラリーが陣取り、的屋の屋台も心なしか増加傾向にあるようです。
来年は50回大会とのことなので、是非見に行ってはいかがでしょう。
とにかく、一つの町でワンシーズンに2回別の場所で傾向の違う花火が見られるのは、全くもって幸せなことです。
暑さを乗り切るには、、、
もうこの暑さでは、大好きな熱い珈琲も少しお休みしたい!なんて気にもなるものです。
そんなときにお勧めなのが、豆いちのボトル入り無糖のアイスコーヒー3種です。
うまかアイスは、コクと苦味の調和がとれているがっつり型のアイス珈琲です。
ブルマンアイスは、ブルーマウンテンのまろやかな風味。柔らかな味わいと甘みのある珈琲です
特上アイスは、香り、苦味、コクを豊かに仕上げた味わい深い珈琲です。
3者3様の味わいを是非お楽しみください。
より美味しい珈琲を飲んでいただきたくて…という思いから豆いちではコーヒーを淹れる水にもこだわっております。
選び抜いたのが、北海道・羊蹄山の天然湧き水“名水きょうごく(”環境省選定・名水100選)。
なお、現在お店での試飲はアイス珈琲の豆から淹れてお出ししております。
是非ご賞味ください。
そんなときにお勧めなのが、豆いちのボトル入り無糖のアイスコーヒー3種です。
うまかアイスは、コクと苦味の調和がとれているがっつり型のアイス珈琲です。
ブルマンアイスは、ブルーマウンテンのまろやかな風味。柔らかな味わいと甘みのある珈琲です
特上アイスは、香り、苦味、コクを豊かに仕上げた味わい深い珈琲です。
3者3様の味わいを是非お楽しみください。
より美味しい珈琲を飲んでいただきたくて…という思いから豆いちではコーヒーを淹れる水にもこだわっております。
選び抜いたのが、北海道・羊蹄山の天然湧き水“名水きょうごく(”環境省選定・名水100選)。
なお、現在お店での試飲はアイス珈琲の豆から淹れてお出ししております。
是非ご賞味ください。
最後の即身仏は、
3日に家族で海に行ってきました。なるべく近くがいいということで瀬波にしました。
温泉の中心に位置する観光案内所で、海水浴場の情報を得て外に出ると「村上市観光案内地図」という看板を見つけました。
その中に本邦だったか日本最後だったかの即身仏というのが書いてあります。村上駅に近い観音寺に安置されている仏海というお坊さんです。
世はやはり即身仏ブームなのかなどと思いつつ、かみさんに見に行かないかと相談してみたのですが、それはいいだろうということで対面には至りませんでした。
それにしても日本最後というのが気になります。
明治の世になり、墓を掘ってはいけないので実際入滅しても即身仏としてこの世に表れることはない、というような感じだと思いますが。入定自体が自殺ということで、仏海さんは残念ながら入定塚での即身仏化は出来なかったようです。
それでは、どのようにして即身仏になったのか、気になるところです。
今回の足立区の111歳の方の一件ではホットカーペット云々と書いてありましたが、その当時(明治36年)は無かったしなぁ。
兎に角欲得の無い清らかな、子供に人気のある生き仏さんだったとのことです。
温泉の中心に位置する観光案内所で、海水浴場の情報を得て外に出ると「村上市観光案内地図」という看板を見つけました。
その中に本邦だったか日本最後だったかの即身仏というのが書いてあります。村上駅に近い観音寺に安置されている仏海というお坊さんです。
世はやはり即身仏ブームなのかなどと思いつつ、かみさんに見に行かないかと相談してみたのですが、それはいいだろうということで対面には至りませんでした。
それにしても日本最後というのが気になります。
明治の世になり、墓を掘ってはいけないので実際入滅しても即身仏としてこの世に表れることはない、というような感じだと思いますが。入定自体が自殺ということで、仏海さんは残念ながら入定塚での即身仏化は出来なかったようです。
それでは、どのようにして即身仏になったのか、気になるところです。
今回の足立区の111歳の方の一件ではホットカーペット云々と書いてありましたが、その当時(明治36年)は無かったしなぁ。
兎に角欲得の無い清らかな、子供に人気のある生き仏さんだったとのことです。
今夜はなまらナイト!!
この間テレビの取材を受けて、自分の喋っているのを聞くと、随分訛っているのが判ります。
自分としては一応標準語っぽいものを話しているつもりなのですが。
高校の頃、南海ホークスを引退して朝日放送の解説をしていた時の皆川睦男氏が講演にいらっしゃいました。
米沢からいきなり大阪に行った時、先輩から「おい皆川、なにか話してみろ。」と言われるのだそうです。もちろん関西弁で。
そしてその言葉をみんなから笑われる、こんなに悔しいことはなく、私は寡黙な人間になってしまったと話していました。
うちのじいさんも半分は東京の生活でしたが、言葉は昔の米沢のお侍さんの言葉でしたね。
よく機屋などに連れて行かれると、幼稚園の頃だったのですが、シーンとして子供が行ってもつまらない家が多く、江戸時代の空気を感じました。
米沢海軍などという言葉があり、幕末に勝海舟とのコネクションを持った旧米沢藩は、優秀な人材を海軍に送り込んでいきます。
但し南雲忠一(中将、戦死後大将)などは訓示などは、何を言っているのかわからなかったそうです。
日銀総裁から大蔵大臣を務めた池田成彬も寡黙で有名でしたが、方言が出ると困ると言う理由だったそうです。
一時全国知事会の8人ぐらいが米沢出身を占めたという時代があったと何かで読んだのですが、ちゃんと意思の疎通が出来る会議になっていたものでしょうか
自分としては一応標準語っぽいものを話しているつもりなのですが。
高校の頃、南海ホークスを引退して朝日放送の解説をしていた時の皆川睦男氏が講演にいらっしゃいました。
米沢からいきなり大阪に行った時、先輩から「おい皆川、なにか話してみろ。」と言われるのだそうです。もちろん関西弁で。
そしてその言葉をみんなから笑われる、こんなに悔しいことはなく、私は寡黙な人間になってしまったと話していました。
うちのじいさんも半分は東京の生活でしたが、言葉は昔の米沢のお侍さんの言葉でしたね。
よく機屋などに連れて行かれると、幼稚園の頃だったのですが、シーンとして子供が行ってもつまらない家が多く、江戸時代の空気を感じました。
米沢海軍などという言葉があり、幕末に勝海舟とのコネクションを持った旧米沢藩は、優秀な人材を海軍に送り込んでいきます。
但し南雲忠一(中将、戦死後大将)などは訓示などは、何を言っているのかわからなかったそうです。
日銀総裁から大蔵大臣を務めた池田成彬も寡黙で有名でしたが、方言が出ると困ると言う理由だったそうです。
一時全国知事会の8人ぐらいが米沢出身を占めたという時代があったと何かで読んだのですが、ちゃんと意思の疎通が出来る会議になっていたものでしょうか
2010.08.03:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]