HOME > 記事一覧

講師の先生をご紹介します。

  • 講師の先生をご紹介します。
という前ふりがあって大概始まるわけですが。
この「講師の先生」とやらを何回かやらせてもらっていますが、うーむ先生と言われると、うーん、いや他にも適任者が一杯いらっしゃるのでなどと少し後ずさりをしたくなる今日この頃です。
でも、とてもありがたく思う訳のものであります。

昨日は食生活改善推進協議会の伊東会長から要請をいただき、80名ほどの方の前で「おいしいコーヒーの淹れ方」をやってきました。
以前は結構あがり症というか、カァーとなったりしたものですが、いつしかそういうこともなくなり、取りあえず順調に2回講演を終えることが出来ました。
明日も会場を移してやってきます。

さて9月になりますので、豆いちでもコーヒーの淹れ方教室を再開したいと思います。
今のところ9月14日11時から約1時間を予定しております。
コーヒー器具(やかん、ドリッパー、サーバー)はご持参ください。まだ持っていない方は用意いたします。
ケーキつきで1,000円で美味しいコーヒーが貴方のものに!!

メール、或いはお電話でお問い合わせください。


2010.08.31:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

♪嗚呼玉杯に花うけて

  • ♪嗚呼玉杯に花うけて
というのは旧制一校の寮歌(明治35年)ですが、その5番目の歌詞の最後の最後に
♪魑魅魍魎も蔭ひそめ   金波銀波の海静か
というのが出てきます。

米沢の遊郭、新築には西側の端にその名も「銀波楼」という店がありました。
その写真が手に入りました。
多分明治30年代から40年ごろのものと思われます。
明治30年10月8日の米澤新聞には下記の通りが掲載されています。

●揚州の腰纏
米の高いのと世の不景気とは揚州まで響きて、遊客の腰纏まで軽くなりしとは左もあるべきことなり今、その先月中の景況をに記せば無事に苦しむ粋士連は矢倉炬燵温もりて雪見の暇にも見たまえかし。
○揚き(日偏に軍)楼3名、武蔵楼6名、松鶴楼5名、梅林楼10名、竹川楼5名、有明楼8名、銀波楼8名、小金楼3名、品川楼7名、、、

昭和に入ると、だいぶ名前が代わって金沢、昌平、甘水、朝日、住之江、新芳、丸喜、武蔵、東陽で戦前には大体廃業になったようです。
大正6年の大火で全て焼失していますが、自分が子供のころ残っていた建物も、この写真と大差ない感じがします。
こういったところは、だいたい造るパターンがあったんでしょう。

中野に住んでいた友人のふ付きの下宿は、どう見てももとはそういうところで、部屋のところに定員2名と書いてありましたっけ。
通常は2名でしょう。
2010.08.30:mameichi:コメント(0):[米澤絵葉書繁盛記]

豆いち、本日(29日)の営業時間について

  • 豆いち、本日(29日)の営業時間について
今日は先日亡くなった、妻の祖父の四拾九日法要なので15時ごろから18時までの営業となります。
ご迷惑をおかけしますが何卒宜しくお願いします。
8月限定の葉月、夏限定の夏珈琲はあと2日で終了となります。


閑話休題、
米沢市で出している年表には、米沢で映画が上映されたのは明治32年7月15日立町米沢座というふうに掲載されています。

私がマイクロフィルムでみた米澤新聞によると、最早明治30年9月20日より米沢座にて上映しているようです。
なぜ32年というふうになったのでしょうか。

映画の始まりは、1891年かの有名なエジソンが覗いてみる方式の機械を発明したことに始まります。1894年(明治27年)にニューヨークに世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)が登場、ただしスクリーンに投影される方式は1895年(明治28年)にフランスのリュミエール兄弟によって発明され、多くの人が同時に映像を見ることが出来るようになりました。

本邦では、明治29年11月17日神戸の高橋新治が輸入したエジソンのキネトスコープを小松宮彰仁親王にお見せしたことから始まります。
そして明治30年2月15日、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映し、好評を博しました。
日本初の「映画興行」である。3月6日には、東京市の「新居商会」によって、神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる興行も行われました。

それから半年後に米沢で映画が上映されたことになります。
まあ、早いと言えば早いと言えますが、明治31年には駒田好洋が北海道の利尻・礼文島まで巡業していたことを考えると、めちゃくちゃ早かったとも言えないと思います。

リュミエール(=リシエルと新聞には書いてあるが、)の有名な映像、汽車が駅に着くシーンはテレビでも何回も見ていますが、まだ汽車も来ていない米沢でこれを見た観客はどう思ったのでしょうか。
やっぱり舞台に上がり、スクリーンをめくって「どういう仕掛けになってんなだー!」と叫ぶような人がいたのでしょうか。
2010.08.29:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

29日(日曜日)の営業時間と9月のお休み。

  • 29日(日曜日)の営業時間と9月のお休み。
豆いちです。
今週の日曜日29日は、都合により15時~18時の3時間のみの営業となります。
ご迷惑をおかけいたしますが、何卒宜しくお願いいたします。

またお休み、営業時間の変更は以下の通りです。

お休み
8月31日(火)
9月7日(火)
9月14日(火)
9月21日(火)
9月28日(火)

営業時間の変更
9月2日(木)10:00~17:00

なお1月に始めたコーヒー教室ですが、諸般の事情により開催できなかったのですが、9月から再開したいと思います。日程につきましてはまたご連絡いたしますので、電話・メールなどでお問い合わせください。
2010.08.26:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

明治32年7月26日の

  • 明治32年7月26日の
米澤新聞に「米澤料理店案内」(いろは順)というのが載っています。それによると、
水田蒼茫 涼風颯々 花澤佐氏泉公園 花都
和洋御料理 高等旅館 米澤市あら町 鳳鳴楼
舊北堤上 眺望佳絶 越後番匠町 小川楼
御料理 大勉強 越後番匠町 若村楼
会席料理 大勉強の親玉 立町 よか楼
寒碧楼  今町 南部屋
清泉混々 冷風陳々 花澤佐氏泉公園 松川楼
幽鬱閑雅 雨に晴に四時佳絶 松ヶ岬公園 舞鶴楼
眺望勝絶 松涛琴の如し 立町浦舊東堤上 新鳳鳴楼
一望の青田 東風薫る 門東町 新小川楼
松川名産 鰻大蒲焼 立町神明社内 政養亭
三層楼上 眺望佳絶なり 川井小路 愛鶴亭

都合12軒リストアップされています。現在料理屋として続いているのは政養亭が可奈免として、松川楼が現在の松川弁当店でべこ屋として盛業中です。
眺望云々と言っているのは、三の丸の土手の上に料理屋が多かったことを示しています。まあやっぱり殿様気分を味わえる場所だったのでしょう。

多分この頃には先年まで営業していた東陽館、竹盛軒などもあったと思いますが、このリストには出ていません。名前が違ったりするのでしょうか。
また松岬公園内にはもう一軒招僊閣もあったはずですが、ここも載っていません。

東京庵、東家、秀の家あたりはいつからどういうことになっているのでしょう。
しかし見事になくなってますね、料理屋。
そうすると東家はかなり貴重です。

このほかに福田遊廓(通称新築)というのがあり、まあこっちはあっちのほうですが、、、
揚揮楼、武蔵楼、松鶴楼、梅林楼、竹川楼、有明楼、銀波楼、小金楼、品川楼(明治30年12月現在)となかなか賑やかだったのだと思います。

写真はこのリストには載っていない萬景楼、でも写真も古いので、時期的にはそれほど違わないと思います。
これは場所が今のポポロの北東ということなので、新鳳鳴楼の後なのでしょうか。大正6年の大火で焼失しています。
2010.08.25:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]