◎三沢薪炭会社というライバルの出現
明治30年12月1日の米澤新聞に「三沢の薪炭会社」という記事が掲載されている。
それによれば現在木流しによって薪を運搬しているが、同会社創立者の伊藤新助宅(三沢)より御膳部町までの6マイルに軌道を敷設して田沢、簗沢ないし綱木などより伐り出す薪及び同地方より産する炭を運搬することを企画している。現在は木場に滞在費と遊蕩費と寒凛を凌いで裸体凍水に投じるの報酬となおかつ悪路運搬の費用とを引き去りたる安価薪炭を購求しようではないか。一日も早い成立を希望する、とある。
その他、三沢の薪炭のみならず、関村、片子、二井宿より産する薪炭をことごとくこの会社に集めて、宛然一大市場を現出せしめ、しかして花沢の停車場近傍に大支社を設立してここに直ちに片子二井宿方面より来るものを集め、且つ春日山神社跡より運送すれば、その利益は莫大なものになるだろう、
と話はどんどん膨らんでいく。
また、田沢炭鉱が発見されたことも同時に報じている。
創立者の伊藤新助は明治22年県議会発会時からの県会議員で大峠が主要道であったころからの名家である。慶長年間直江兼継が鬼面川の水を引き、田沢、簗沢の燃料の木材を流木として流すために木場川を作った。この木流しは昭和10年まで続きその役割をトラックに譲ったのだが、木材がそのまま下流に流れてしまったり、川底に埋もれてしまったりと相当のロスがあったという。また肉体的にもハードな作業で、一日中川面に入っていたため若い男しかこの仕事が出来なかったとのことだ。
その時計画した軌道は新聞では軽便木道となっている。鉄道ではなく木道なのだ。木道とは木に鉄板を張った線路で、イギリスで鉄道以前に使われていた代物である。日本でも国内最初の軌道と言われる茅沼炭鉱鉄道(北海道、明治2年開業)、木道社(宮城県、明治15年開業)、藤枝焼津間軌道(静岡県、明治24年開業)などは木道を使って営業をしていた。
この時点で三沢薪炭会社の軌道の測量を終了していると報じている。その道筋は三沢から御膳部町まで舘山の街道を真っ直ぐに下りてくるものである。
この計画は燃料の供給、そして配送が鉄道を利用することなど豊川炭鉱馬車鉄道と事業内容が酷似しており、市議会を巻き込んで対決の様相を呈してくるのだ。
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