明治30年6月24日、米沢新報という新聞にこのような記事が掲載された。
●小松米沢間の鉄道馬車
奥羽鉄道はまさに来春をもって米沢市に全通せんとして、羽越線一期繰り上げの請願は第十議会に於いて失敗したり。第十一議会を待って更に請願してその素志を貫くを得るとするも、羽越線の全通するに至るは四、五年後なるべし。この間の貨物運送はまた従来のごとく渋滞延留せば、西置賜一郡の貨物は充分に奥羽線を利用し能ざるべし。
東置賜郡小松の有志者はつとにここに見るものあり。小松町と米沢市の間に鉄道を敷設し、両郡の貨物はことごとく小松町に蒐集して鉄道馬車により敏活に速捷にし、もって大いに奥羽線を利用せんとの計画にて同町の有力者はことごとく賛成せられ、当市の有志者また大いにこれを賛し、まさに株式会社を設立せんとの運びに至りしをし。好い哉、この挙。
少々分かりにくいところを補足すると、奥羽鉄道というのは当初青森と福島双方から工事が始められ、福島から奥羽南線、青森のほうを奥羽北線と言い明治38年9月秋田県湯沢で全通している。また羽越線というのは現在の米坂線のことだが、明治30年現在で4、5年後の開業と言っているが、実際全通したのは昭和11年で、40年以上の時が過ぎている。
つまり西・東置賜郡に鉄道が来るのは当面先なので、米沢まで馬車鉄道という支線を敷設して物流体制を構築しようという計画なのだ。それはあくまで小松町有志の計画であり、タイトル通り「小松から米沢まで」の鉄道馬車計画であった。
この記事が掲載された後、ひと夏は何もないように新聞にはこのことは書かれてはいない。そして10月23日に突如このような記事が載った。
●豊川炭鉱会社起らんとす
少々長いので要約すると、
薪炭の需要増により燃料が著しく高騰している。それ救う方法は石炭を代替燃料とすることである。しかし置賜地区には有力な炭鉱がなかったのだが、今回地元有力者の発起により豊川炭鉱会社が組織されつつある。
その豊川炭鉱は先日馬場新八氏(海軍・造船少佐)帰省の折、同鉱石の検分を実施したところ、同所の石炭は品質はさほど良好ではないものの、磐城炭山ぐらいのもので、鉄道用には十分であるとのことだった。そして舘山製糸場(米沢製糸場)で火力の試験を実施したら、現在使用している薪よりも一日当たり3円70銭の利益があり一年にすれば2千余円の利益となることが試算された。
米沢市内でも酒造家、色染業者は大火力を使用するため、薪炭を石炭に代えれば一年間の利益は莫大である。まして市民もこれを利用すれば全市の大幸福となる。我々は早くこの会社の創立を希望しようではないか。
大体このような内容だが、豊川炭鉱の詳しい説明はない。この場所は現在の西置賜郡飯豊町高峰だが、当時は豊川村なので、豊川炭鉱という名称になったのだろう。
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