今から40年以上前の話だ。ある冬のこと私は山交のバスに乗って丸の内日活の所で降りた。目的は南堀端にある図書館に行くためだ。
その図書館は城下町米沢には似つかわしくないギリシャ様式の神殿風のファザードで、正面には桜井佑一のレリーフが掲げられ、それはそれは眩しかった。昭和29年に建てられたものだが、右の写真には「繊維館」という説明が付いてるので、図書館として建設されたのは奥の方だけかもしれない。
昭和50年には現在の置賜総合文化センターに移転しているので、僅か20年余りでお役御免となったのも奇異な感じがする。こんなに立派なものを造ったのに。
それはとも角、地元の歴史に興味のあった小学3年生は、増補訂正米沢大年表(再販 中村忠雄編 昭和40年12月1日発行)から非常に興味深い一行を発見する。それは、
明治三十二、立町郵便局前を起点とし(当時の局舎は現在場所の西方)小松、赤湯に至る馬車鉄道開通、二ヶ年にして廃止。
という記述だ。米沢にも鉄道馬車が走っていたのだなあということが心に何となく記憶された。
その後は一時鉄道ファンでもあったため、いろいろな資料にもあたってみたのだが、全国の鉄道がまとめられた資料にはどこにも載っておらず、その鉄道の行方は要として知れなかった。
店を始める前だから、今から9年ほど前のことだろう。小学校の時に目撃した年表の記述が急に気になり始めた。あれは本当に書いてあったのだろうか。もしかしたら自分の思い違いとか、夢ではなかったのだろうか。相当記憶もあいまいになっていたのだ。
久しぶりに図書館に向かい、年表を確かめると、間違いなく前記の記述が確認できた。それが書いてある前のページにもう一つ大切な記述が発見された。
明治三十二、一、一一
豊川炭鉱馬車鉄道株式会社創立、
取締役 蔵田国治、高野義雄等。
会社の名前が判明した。豊川炭鉱って一体どこにあった炭鉱なのだろう。立町から小松、赤湯を結んでいたと書いてあるのに豊川って一体どこ?そして蔵田国治、高野義雄は何者なのだろう。疑問は次々に浮かんでは消えていく。
よし、もう少し性根を据えて調べてみよう。40年ぶりの図書館通いが始まった。そして、調べれば調べるほど疑問は深まるばかりであった。
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