ジャンプブルースというとっても狭い領域の音楽があった。それは1940年代アメリカの黒人が作ったもので、ジャズとブルースの間をいく、そう、初期のロックンロールだったのかもしれない。有名なのはワイノニー・ハリス、ロイ・ブラウン、アイヴォリー・ジョー・ハンター、エイモス・ミルバーン、ルイ・ジョーダン、エディ・クリーンヘッド・ ビンソンなどだが、知る人ぞ知るで見事に名前が残らなかった。
そんな音楽をやってみたいと思っていた俺はブルースのライブに足を運び友人を作り、最初に出来たバンドが「オールド・ディックス」。割と早くそれが潰れて「コールド・スェッツ」と云うバンドに拾われる。そこが「パナマ・ナイト・クラブ」と名を変えその間自己のバンド「スイート・ナイツ・トウキョウ」というバンドをやっていたころだと思う。
オールド・ディックスで一緒にテナーサックスを吹いていた佐藤尚行(後クールスへ)が、横浜のバンドに手伝いに行こうと声をかけてくれたのだ。そのバンドはチャーリー宮毛バンドと云い、チャーリーは奈良生まれで漫才唄子啓助の鳳啓助の弟子だと名乗った。その劇団で芝居をしていたらしく、関西のその筋の名刺をいっぱいファイルしており、それを見せてくれた時の印象は強烈だった。
その時ピアノで来ていたのが坂上暁生で、横浜の音楽シーンではいい顔だったようだ。確か山本リンダの録音に入っていたし、クールスなどにも手伝いに行っていたからだ。その後彼とは「楽団・魅惑の羽衣」を結成、それはそれは青春の日々だった。その後社会人になり世はバブル時代、毎日毎日楽しいことばかりだったが私は息切れを起こし田舎に引っ込んだ、また東京に出ることを期して。だが結局高畠の会社に就職、その後珈琲屋になったのはご存じの通りだが、坂上暁生は92年に急死を遂げる。その後彼の父母との付き合いが始まり程なくしてお母さんが亡くなり、今はお父さんとの連絡もとれなくなってしまった。
このCDには入っていないが、6月10日にライブをやるダイナマイトミキもこの楽団出身だ。その後ベースの中川清が亡くなり毎年追悼ライブが開催されるため、団員との交流は途切れ途切れだが続いている。
彼が何故あの時命を絶ったのかは分からないが、あのブギウギピアノを初めて聞いた時はほんとに驚いた。日本にもこんなピアノを弾ける奴がいるなんて、と。今年は27回忌ということになる。そうだ、新潟に墓参りに、彼に会いに行こう。
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