小沢昭一が亡くなった。
私がまだサラリーマンで営業をやっていた頃、車で会社に帰る道すがら「小沢昭一の小沢昭一的こころ」に大笑いし、いろいろなことを教えられ、時には涙したものだ。
TOYOTA一社提供から、自動車産業がふらつき出すと各社提供に変更になったころ、放送時間帯もふらつき出した。
ラジオ福島だったか秋田放送では午前中やっていたと記憶する。
この番組はねぇ、そんなにお天道様が高いときに聞くもんじゃあないんだ。
トワイライトがよかったんです。
それほど映画好きではないので、小沢昭一がスクリーンで大活躍していた頃のことはあまり知らないが、インチキ中国人みたいな怪しげな役が多かったと記憶する。
私の最初の小沢昭一は、NHK教育で日曜の10時ごろだったかやっていた「趣味とあなたと」というマニアックな番組だった。
お相手は東経大の大先輩相川浩アナウンサーで、何かにはまってしまった人たち、簡単にいえば今でいう「オタク訪問」であった。
そのときの小沢昭一はあくまでも優しく、その人が大好きなことを聞き出し、そのツボを捉えて、みんなに分かりやすく伝えていた。
はっきり覚えているのは自分の庭にOゲージの線路を幾重にも走らせて、ちっちゃい蒸気機関車を走らせている人で、これはやってみたいと思ったなぁ。
「私は河原乞食考」「日本の放浪芸」という本も面白く、子供の頃に何度も読み返した。
失われていくものへのオマージュと郷愁だけにとどまらず、自分で三河万歳の格好をして角付け(一軒一軒家を周り、芸を見せてお金をもらうこと)をしたりするところも、研究家と演者のキワで、いろいろ考えていたのではなかったか。
経歴に旧制麻布中学を経て、海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。早稲田大学文学部仏文科卒、とある。
小説家で、演芸評論浪花節の台本を書いていた正岡容に私淑し、桂米朝、加藤武、大西信行らともども弟子になり寄席通いが止まず、落語家に憧れるようになる。
なぜ落語家にならなかったのかはわからないが、「もしあの時私が落語家になりおおせば、あの談志が、志ん朝が、円楽が私のことを兄(あに)さんと呼んでいたはずだ。」というフレーズは有名だ。
麻布中学の時はハーモニカ部で、「あなたのメロディー」などでその腕前も披露、懐かしもメロディーをうたったCDもあるはずだ。
横須賀さいかやに催事に行ったとき、小沢昭一の一人芝居「唐来参和」のポスターが貼ってあった。日付を見ると明日、行けないこともなかったのだが、いかなかったところを見るとまた飲んでたんだろうなぁ。
そういえば、横須賀には自動焼き鳥器で焼いている焼き鳥屋があった。
まあ、それはいい。
やるきなさげな宮坂お父さん、大好きでした。小沢さんが80歳過ぎてもやってる意味不明のコギャルも大好きでした。
私と趣味が非常に似ていた小沢昭一大兄に乾杯( ^^)/▽▽\(^^ )
大好きでした。
写真は12月8日のスターダスターズのコンサート、mojoも入ってフィナーレの模様です
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