「志ん朝しかいねぇな。」といったのは立川談志。
立川談志は、二つ目の名前で柳家小ゑんといったころ、朝太といった志ん朝、全生といった先代円楽、この後輩二人に真打になるのを抜かれてしまっている。
その時小ゑんは師匠小さんに「朝太は志ん生の息子、全生の師匠は円生(協会幹部)、師匠(小さん)の力がねえから抜かれたじゃあないか。」と泣きながら訴えたという。
真打問題はこの後もずっと尾を引き、円生師匠が落語協会を出たのも、談志が飛び出したのもこのことに起因する。
誰を師匠に選ぶかで、随分行き先が変わってしまうことがある。
談志は「うちの真打はそんじょそこらの真打と訳が違うんだ。おれが選んだ真打なんだ。」
寄席という修業の場なくして志の輔という落語家をこさえた自信から「もし金を払って~」という言葉、志ん朝へのエールを送ったのではなかったか。
談志が出て行ったあとの落語協会は、立川流を無視することにし、立川流の落語家と一緒の舞台に立つことを許さない一派もいたと聞く。
その後立川流は志の輔をはじめとして、談春、志らくといずれも独演会がsoldoutになるような落語家を育ててしまった。そのあとに続く談笑、笑志、こしら等々。
そして無視していた落語協会の師匠方の悔しさは如何ばかりか。
現在立川流だけで約50人いる。
師匠の小さんが亡くなる前で直弟子が37人という大所帯。
これらを食わせるだけのシステム作りをしていたということだ。
今の落語協会でも会長小三治をはじめとして、先代会長の馬風、入船亭扇橋、さん喬、権太楼、市馬、孫弟子の三三、喬太郎など重要な部分は柳家で占められているといっていい。
量は質を凌駕する、中内さんの売り上げは全てを癒すではないがその辺が自分の課題かなぁ。
談志が言った「もし金を払って聞きに行くとしたら~」には元ネタがあるのご存じだろうか。
よく落語本などにこのエピソードは書かれているが、出典を書いたのは見たことがないのでここに記す。
云ったのはフランク・シナトラ、そしてシナトラが金を払って聞きに行くのはビング・クロスビーでもペリー・コモでもなく「トニー・ベネット」なのだ!
トニー・ベネットとレディ・ガガの競演。中々ですよ!
http://www.youtube.com/watch?v=ITR2io6WZ7E
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