江戸時代は足軽だったのでしょう。あの場所に昔から住んでいるので。(東原方です。)
参勤交代の時に奴さんの前で「下にー、下にー」という役目だったことが口伝として残っています。大正時代の大火で古いものは焼けている筈なのに、小屋に武鑑(江戸時代、諸大名・旗本の氏名・禄高・系図・居城・家紋や主な臣下の氏名などを記した本。)があったので、江戸に行ってたりしたのでしょう。
そういう意味では米沢だけの人ではなかったということになります。
明治維新の時に、退職金代わりに刀を一抱え貰ってきたという、不思議な話も残っています。上杉家って一体???みたいな感じです。
私のひいじいさんになる七郎という方は運送会社の事務長をしていたらしいし、米沢有為会の東部地区の役員などもしていたのでそれなりの人物だったのかもしれません。
ただ早世したので、それからは切り売りで食いつないでいたとか、鳥捕りをやっていたとか怪しげな感じです。結核の家系だったらしいです。あまり広がりはなく同姓の親戚は米沢にありません。
私のおじいちゃんは明治32年の生まれ(米沢に鉄道が開通した年)、尋常小学校の後種村商店に丁稚入りして、今の信用金庫の前身の東京出張所長の後独立、織物買継商として名をなしました。長井紬はかなり売ったらしく、表彰状なども貰ったらしいのですがそういうものには固執しない人でした。亡くなるまで東京に行ったり来たりの生活でした。
そのじいちゃんには兄貴が二人いて、二人とも今の工学部を出て長兄は福井の松文(白生地屋だと思います。)の工場長、その弟は港湾関係の役人(その辺にも上杉家の流れを感じますが、、、)から横須賀市の総務部長をしていたということで、みなさんひとかどの人物だったらしいです。
そのお二人には法事などでお会いしました。子供から見てもこの爺さん方はみんなお武家さんでした。堅苦しくてねぇ。
ただ横須賀のおじさんは話の分かるじいさんで、じいさんの葬式のときに私の相手をしてくれるような方でした。
なんといってもこの人がカラーテレビでプロレス見て興奮して亡くなった方ですから。
今気づいたのですが、この写真の石塚の塚という字の下の二つ払ったところに点がありますが、これは戸籍上正しい塚です。
これで姓名判断などの占いは随分変わります。
ただし通常はその点は自分で書くことはありません。戸籍と免許証はこれになっています。
これを書いた泉崎清恐るべしです。
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