その昔やっていました。といってもバイトですが。といってもバイトがこんなものを作るお手伝いは出来ないのです。
何をやっていたかといえば、鉄塔には足が4本あり4箇所の基礎を打つわけですが、其の4箇所の地質調査の助手というのをやっていました。
国分寺に今もある珍屋という中古レコード屋が学校帰りに毎日寄るコースでした。そのころはレコード屋も小さくて、とにかくJAZZとBLUESとR&Bのコーナーを漁って金があれば買うし、買わなければいっぱい視聴させてもらい、勉強だけして帰るという都合のいい客でした。その後珍屋は2つの店に別れ、新潟出身の店員の方にかわいがって頂き、18時以降は一寸店内で酒をご馳走になり、セブンイレブンがやり始めたおでんをぱしりで買いに行ったりしてました。
とんかつ屋のバイトが続かず、水商売は合わないと思っていた矢先、この店に地質調査助手の張り紙が掲げられました。それを貼った親方は徳田さんといって京都拾徳などで活躍されたフォークシンガーでした。一日6000円だったと思います。
それから東京、或いは関八州の色々なところに行って作業をすることになるわけですが、結構きつかったのは山に鉄塔を建てるためのボーリング機械の搬入です。
山梨の中央線の藤野での作業ではなかったでしょうか。機械をばらして山の上に担いで上がるのです。機械は鉄でできていてかなり重く、予算のある現場だとヘリコプターでひとっ飛びなのですが、ヘリは一日百万かかるので、地元の手配師に頼んで、人足の親父と一緒に担ぎました。一つの部品を二人で丸多棒にワイヤーでぶら下げて担ぐという非常に伝統的且つ非効率な方法なのですが、確かにこの方法しかないのです。道も狭いし。
うだるような暑い日、体中の水分が全部汗になって出るのではないかというような状況でした。このときです。藤野の駅で財布を落としたのは。
それとボタンを押すと当るジュースの自販機があって、馬鹿になって当らなくてもどんどん出てきたこともありました。金を入れるといつもフィーバーの状態なのです。あれは何だったのでしょうか。
山岳部ということもあり、こういう作業には重宝されたようである意味担ぎ要員だったのかもしれません。発注元は東京電力で元受が関電工だったでしょうか。その下に国際航業という測量会社が入り、何社か入ってわれわれという形でした。まだ世の中の様子が全く分からず、小佐野賢治もいろいろやってるんだなあ、などと考えておりました。
そんなことで、鉄塔を見ると元気いっぱい、がむしゃらな自分を一寸思い出します。
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