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牧野 要二
昔は音曲漫才・歌謡漫才師が沢山いました。
長谷川町子先生のマンガに同じスタイルの漫才師が登場しているのは知っていましたが、はたして当人かどうかはわかりません。<br />こういうスタイルの漫才師さんは、昔はたくさんいました。<br />こんな人たちもと書こうとして名前を忘れてしまいました。<br />実は芸能人名鑑のような本もたくさんありましたが、それらもお出での噺家さんに差し上げてしまったので、今となっては不明です。<br />が、いわゆる関西のかしまし娘のように、ギター・アコーディオン・三味線などの楽器を持つスタイルは、戦後の漫才師の一つの基本スタイルでした。<br />おしゃべりだけのトップ・ライト師匠、獅子てんや・瀬戸わんや師匠、東けんじ・宮城けんじ師匠さんたちのようなスタイルか、楽器を持つかだったのです。<br />そのいずれのスタイルも抜け出してデビューしたのがコント55号です。<br />初めのころは、両親もあきれていましたが、たちまち売りだしてスターになりました。<br />楽器を持つ古いタイプの漫才の人気が、下降しだしたわけです。<br />それでも自分たちでやめると言いだすまで、国立演芸場などへも出演で来ていたのは、内海桂子・好恵師匠のひきのおかげです。このおふたりが、両親の漫才をとても大切にしていただいて、いろいろな舞台を紹介してくれていたようです。<br />つまりクラシック・アンティークになりつつあった芸でしたが、逆にそこに価値を見出してくれていたのだろうと思います。<br /><br />お話を拝見して「スター東京」とか、子どものころから見ていた看板名が沢山出てきて、懐かしいです。<br />三年前まで東京に住んでいた両親が亡くなってからは、もう東京へ行く用事もほとんど無く、スカイツリーが建設されているとかも、新聞で見るだけ。<br />今、住んでいる新白岡という土地は、埼玉の在で、20年前は一面の田畑だったそうです。<br />なんでこんな場所に越してきたのかと言いますと、父親・マキノ洋一が老衰でぼけてしまい、一緒に暮らしていた母・初枝も、面倒を見切れないというので老人病院を探したら、白岡に空きがあって入院させ、そこで亡くなりました。<br />つまり、終焉の地、というわけです。<br />その頃、私は埼玉大学から県立特別支援学校の校長になっていて、激務と両親の介護で体調を崩し、主治医から「もう1~2年で、あなたも倒れますよ。」と言われ、みなさんに迷惑をかけたくないので退職いたしました。<br />退職してから専門の栄養学と運動で、どうにか生命が長らえそうになってきたところで、前から考えていた「障害者のための気軽な食事の店」を開こうと、不動産屋に相談したら、なんと、まさに父親の終焉の地の白岡を紹介されました。<br />それもなにかの縁と思って、昨年末に店を開いたというわけです。<br />円佐衛門師匠が出入りしていただけるようになったのは、実は谷中亭ふすま丸という噺家の卵の奥様が、私の妻の同僚(特別支援学校の先生)という間柄のためです。<br /><br />もともとは、港区芝という、それこそまもなく代替わりしてしまう東京タワーのあたり、増上寺という大きな寺の門前町が本籍でしたが、幼稚園から小学校時代まで住んでいた処は、いわゆる東京の下町。<br />家の裏が芸者さんの置き屋だったり、寄席の楽屋で見かける噺家さんが浴衣姿で歩いていたり、先代の林家三平師匠がジョギングしていたりと言う、まさしく下町情緒あふれる界隈でした。
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