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雪がない!

  • 雪がない!
土曜日から雪灯篭祭りなのですが、例年にもまして雪がない。
スターダスターズが2年連続で出場したときは、まだありましたね、スイングガールズのメンバーにも会えたし。

何とかもう少し冬らしくなった方が、いいかもしれません。
写真は燈籠準備中の火曜日の上杉神社です。またそっから暖かくなってるからねぇ。
2009.02.12:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

柳町界隈を歩く。

  • 柳町界隈を歩く。
寒い日が多いので、車で通勤することも多くなりました。
通町から万里橋を渡って福田町へ、それから柳町に右折します。

特徴としては、この右折から豆いちに至るまで信号がひとつもないことと、交差点がすべて優先となっています。

東光の酒蔵は以前は芳賀長内といって酒造家で白梅という銘柄でした。なかも立派なつくりの建物で、現在直江兼続の企画展も開催されています。

その昔は松川の一部がこの辺まで来ていて、川筋に柳の木がありそれで柳町になったといいます。その川筋を現在の場所に定めたのが兼続だという話もあります。
歩道も取っていないので、道幅も十分、道筋の雪もいつも丁寧に除雪されている落ち着いた通りです。
2009.02.09:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

ちゃらちゃら流れる御茶ノ水。

  • ちゃらちゃら流れる御茶ノ水。
東京日帰りめぐりの続きです。

水道橋から総武線に乗り御茶ノ水で中央線に乗り換えるわけですが、ここで電車を待っていると思い出す話があります。

もう随分昔のことでしょう。
ホームから見える神田川に足場を作って工事関係者が地質調査を行っていました。親方と助手で掘り進めて行くわけですが、足場は狭くちょっとしたことで工具箱を神田川に落としてしまいました。工具がないと勿論仕事になりません。

ここは当然助手の出番です。
いまはかなりしゅんせつも進み以前よりはきれいになっていますが、その頃はどう見てもヘドロの川だったそうです。しかも冬、パンツ一丁で飛び込んだのをホームにいる人たちと写真に写っている橋を渡っている人たちがが興味深々で見ていたそうです。

話を聞くだに身震いのするお粗末でした。匂いは3日間は取れなかったということです。

ホームにこれから入らんとしているのは中央線快速、E233系です。吊革が黒くてびっくりでした。

2009.02.05:mameichi:コメント(1):[そこいら辺を歩く]

東町に雲ひとつ。石田三成を思う。

  • 東町に雲ひとつ。石田三成を思う。
上杉入府以前から存在する町に東町があります。
蕎麦屋が二軒、洋品屋、乾物屋、布団屋、薬屋、銀行、酒屋、皇太神社、豆腐油揚、自転車屋、
しっかりとした町です。

昨年市役所に行った時、直江兼続のキャラクターイラストの公募があり、10点ほど展示されおりそこからセレクトすることになっていました。
そして「かねたん」になったわけですが、すべてゆるキャラで私にはあまり違いがないように思われました。
ただし、うちの子供はかねたんが大好きなようです。かねたんは犬らしいです。そしてお友達の「みつにゃん」がきたとき幼稚園のみんなで伝国の杜に見に行き、会ってきたことを教えてくれました。そういうものの運営母体(?)はコスプレ系の人らしいです。

まあ、それはそれとして「みつにゃん」は石田三成なのですが、(多分猫キャラか?)江戸時代、東町の検断(町役人)は石田名助という人で、石田三成系統の人らしいです。多分かねたんを頼って落ち延びてきたのでしょうか。

最初、中郡の堀金に住み堀金姓を名乗り、時代が落ち着いてから石田姓に戻り東町に落ち着いたのだそうです。

結局、武田の一部も石田の一部も兼続頼って来ちゃったんですね。
例の決め台詞『わしはこんなところに来とうはなかった』と言ったのでしょうか。

多分云ったと思います。
わしももう少し雪の少ない暖かなところに生まれたかった!
2009.01.25:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

鉄塔を建てるお手伝いを、、、

  • 鉄塔を建てるお手伝いを、、、
その昔やっていました。といってもバイトですが。といってもバイトがこんなものを作るお手伝いは出来ないのです。

何をやっていたかといえば、鉄塔には足が4本あり4箇所の基礎を打つわけですが、其の4箇所の地質調査の助手というのをやっていました。

国分寺に今もある珍屋という中古レコード屋が学校帰りに毎日寄るコースでした。そのころはレコード屋も小さくて、とにかくJAZZとBLUESとR&Bのコーナーを漁って金があれば買うし、買わなければいっぱい視聴させてもらい、勉強だけして帰るという都合のいい客でした。その後珍屋は2つの店に別れ、新潟出身の店員の方にかわいがって頂き、18時以降は一寸店内で酒をご馳走になり、セブンイレブンがやり始めたおでんをぱしりで買いに行ったりしてました。

とんかつ屋のバイトが続かず、水商売は合わないと思っていた矢先、この店に地質調査助手の張り紙が掲げられました。それを貼った親方は徳田さんといって京都拾徳などで活躍されたフォークシンガーでした。一日6000円だったと思います。

それから東京、或いは関八州の色々なところに行って作業をすることになるわけですが、結構きつかったのは山に鉄塔を建てるためのボーリング機械の搬入です。
山梨の中央線の藤野での作業ではなかったでしょうか。機械をばらして山の上に担いで上がるのです。機械は鉄でできていてかなり重く、予算のある現場だとヘリコプターでひとっ飛びなのですが、ヘリは一日百万かかるので、地元の手配師に頼んで、人足の親父と一緒に担ぎました。一つの部品を二人で丸多棒にワイヤーでぶら下げて担ぐという非常に伝統的且つ非効率な方法なのですが、確かにこの方法しかないのです。道も狭いし。

うだるような暑い日、体中の水分が全部汗になって出るのではないかというような状況でした。このときです。藤野の駅で財布を落としたのは。
それとボタンを押すと当るジュースの自販機があって、馬鹿になって当らなくてもどんどん出てきたこともありました。金を入れるといつもフィーバーの状態なのです。あれは何だったのでしょうか。

山岳部ということもあり、こういう作業には重宝されたようである意味担ぎ要員だったのかもしれません。発注元は東京電力で元受が関電工だったでしょうか。その下に国際航業という測量会社が入り、何社か入ってわれわれという形でした。まだ世の中の様子が全く分からず、小佐野賢治もいろいろやってるんだなあ、などと考えておりました。

そんなことで、鉄塔を見ると元気いっぱい、がむしゃらな自分を一寸思い出します。


2009.01.21:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]