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伝国山より、吾妻山を望む。

  • 伝国山より、吾妻山を望む。
県工が上郷になぜか移動して、工事をしていたときになぜか土盛りをしているのであれはなんだろうと思っていたら、この山というか、丘ができました。
これがなかなかいい感じなんですね。夏の米沢日報の水上花火大会はこの山が出来たことにより、現在の隆盛を築いたといっても過言ではないでしょう。

昔米沢新聞の高原学校に対して米沢日報もハイランドスクールという同様の企画をやっていました。夏の林間学校です。
米新は天元台のロッヂで、日報は白布東屋東雲荘で行っていました。
私はどちらにも参加していますが、日報のマイナーな感じが好きでした。そしてそれが終わると水上花火大会をやるので○月○日に来てください、と召集がかかります。そうするとハイランドスクールで遊んだ人たちと再開できる仕組みになっていました。
そしてそのころこれを見に来るのは多くとも100人ぐらいだったと思います。
変わるものです、時代は。
2009.04.04:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

以前は肌色じゃなかったでしょうか。

  • 以前は肌色じゃなかったでしょうか。
栗子トンネルの入口(出口)です。
いつの間にか白になっておりますが、前は違う色だったのではなかったのでしょうか。肌色のイメージがありますが、自信はありません。

その昔、なぜか古い鉄筋コンクリートの建物は肌色ではなかったでしょうか。
一中は肌色だったっでしょうか。白だったかなぁーー。屋根の色がいきなり変わったときがありました。多分赤から緑とかそんな感じだったと思います。かなり印象が替わりました。丁度その時米沢駅も屋根の色が変わり、同じペンキの色だったことがあったと思います。何かあったのでしょうか。風水とかでしょうか。

駅前にあった日通(昔は丸通といったと思いますが)の倉庫は肌色というよりも薄いオレンジ色で、それが汚れてかなりいい感じでしたが、2年ほど前ほごされてしまいました。(ほごす=建物などをばらすこと)
今、肌色の建物はあまり見当たりません。なぜ肌色だったのか、ちょっと不思議な感じがいたします。

明日は休みです。水曜日新しい陶器が入ったので、陳列してお待ちしております。
肌色のものはないですかね。
2009.03.23:mameichi:コメント(2):[そこいら辺を歩く]

百貨店での修行。

  • 百貨店での修行。
子供の頃、うちのおじいちゃんは、高級品は必ず日本橋の三越から買ってきました。
商売上、東京にいることが多く、70歳で亡くなる一寸前まで東京と米沢を往復していました。帰ってくるとそのまま小野川温泉の登府屋に湯治です。ちょっと優雅ですね。よく一緒に行きました。

縁あって、前職の会社は三越ではなく、高島屋との取引が強く、何度となくこの東京店(高島屋ではとうきょうみせと発音します。)に足を運び、色々なことを学びました。

催しではそれこそ日本橋三越、銀座三越、千葉三越、新宿伊勢丹、京都伊勢丹、千葉そごう、川口そごう、大宮そごう、多摩そごう、奈良そごう、船橋東武、宇都宮東武、新宿小田急、上野松坂屋、川崎さいか屋、横須賀さいか屋、藤沢さいか屋、大井阪急、梅田阪急、千里阪急、天王寺近鉄、京都近鉄、心斎橋大丸、博多大丸、札幌五番館西武、遠鉄百貨店、藤崎、新潟大和、廣島駅前福屋、山形大沼、米沢サティ、ヨークベニマル米沢駅前と随分お世話になりました。

高島屋は東京店の他に、よこはまみせ、たまがわみせ、かしわみせ、しんじゅくみせ、たちかわみせ、なんばみせといったところでしょうか。

まあ、随分回りましたし、随分いろいろありましたが、私としては高島屋が大好きでした。
相性もあるのでしょうが。
2009.03.22:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

亀岡文殊で合格祈願。

  • 亀岡文殊で合格祈願。
弟の娘が高校受験なので、亀岡文殊に行ってきました。丁度雪が降っており、私のほかには誰もいませんでした。

そして境内のお堂の周りにはクラス単位の寄せ書きの合格祈願がいっぱいです。お文殊様も大変です。なぜか東根の中学校と米沢4中が目立ちました。

そして、上の詰め所でその昔亀岡文殊で開かれた歌会の短冊の写真展が開かれていました。直江兼続や前田慶次のものもありました。

亀岡文殊は一時かなり風俗が乱れてしまい、米沢からも若者が大挙して押し寄せた時期があったそうです。つまりそういうことでしょう。そこで米沢藩は亀岡詣で禁止令を出して、その代わり法泉寺に文殊堂を建てた経緯があったと読んだことがあります。
2009.02.17:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

上杉曦山公って?

  • 上杉曦山公って?
上杉曦山とは米沢藩12代目上杉斉憲の事で、この小山に碑が立っています。夏に行ったら倒壊の危険ありということで、縄が巡らされていました。結構大きな碑で石は南原大平から冬にそりで運んだらしいです。人望も厚く鷹山以来の人物ということで、3万石の加増受けたのは、会津から米沢に転封になって以来初めてのことです。

斉憲(なりのり)は上杉家12代藩主、幼名を鶴千代。喜平次。この人も喜平次だったようです。上杉家には珍しく子供の多い方で13男までおり、お姫様も山内、池田、細川、小笠原と、名門上杉たるところにみなさん嫁いでらっしゃいます。子息も小藩の殿様になった方が多く、幕末の波に巻き込まれ兄弟様々な人生になったようです。


この碑は題字が有栖川熾仁親王、石碑裏の文は勝海舟によるもので、明治24年に斉憲を慕う旧藩士の手によって建立されたものです。
有栖川といえば、あの詐欺師どうしているのでしょうか。確か八百屋だったと思います。
そういえば昨日のことですが実家の母から、私を名乗る男から電話があったがお前電話してきた?と連絡がありました。声質が全く違ったらしくすぐに分かったようです。
そういえば家の母の家業も八百屋でした。関係ないか、、、

あと曦山公の曦は日に義ではないので大きくしてみてください。
古い写真をみるとここの山は昔とあまり代わりがないように見えます。
桜のつぼみもふくらんで、春は早くやってきそうです。

状況によりますが(この雨なので)今日はお祭りなので、夜は少し長めに延長営業してみようと思っています。是非お立ち寄りください。目標は21時です。
2009.02.14:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]