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公園のお祭り、昭和40年代。

  • 公園のお祭り、昭和40年代。
家の親あたりでも県社のお祭りといっていたそうですが、これは上杉神社が別格官幣社になってもそのまま県社といっていたということでしょう。

うんと小さいころも毎年行っていたのですが、どのようにしていっていたのでしょうか。まだ車はなかったしバスという感じもないし、辻タクシーのような気が、、、
小学校に入ると自転車で遠征していました。

今の城跡苑のところから縁日は始まります。それは今も同じです。そしてそこには今と同様植木などや山野草を売る店が軒を連ねます。ずっといって松ヶ岬神社の前にはいつも焼印屋が陣取っていました。堀端南側の県工(工業学校)よりは金魚屋がずらりと並びます。その反対のお堀の上には茶店が二軒ほど並んで、客引きをしています。橋の袂はわたあめ屋が右側に、橋を渡るとハッカパイプ屋が右側、左側にはお面屋でしょうか。
昔はお好み焼き屋などはなかったので、食べ物は茶店以外はお菓子が中心でした。べっこう飴、チョコバナナなどもあったかもしれません。
臨泉閣の前には射的屋が2軒並んでいます。左側の山側には生年月日の占いと手打ちのパチンコ台がずらりとあります。ここまでで、鳥居の中にはもうお店はありません。

上杉様にお参りをすると稽照殿の前を通り北側から鳩小屋のほうに抜ける道を行ってみましょう。ここにはベニヤ板の上で子供たちがなにやら作業をしています。そうです、型抜きです。3×2センチぐらいの干菓子の板に線でいろいろな形が書いてあり、それを針でトレースしてその形をうまく抜くとお金がもらえるのです。
あの頃一枚20円ぐらいだったでしょうか。多分小学1年ぐらいのときではなかったでしょうか。私は完全にこれにはまってしまい、お祭り小遣い岩倉具視五百円札一枚をすってしまったのです。ほかのものも買ったかもしれませんが、20枚ぐらいはやったのではないでしょうか。
勿論一枚も成功しませんでした。一年生ぐらいではそんなに細かい細工が出来るわけはないのです。帰る頃には薄暗くなり、付き合ってくれた友達がいたかどうかは憶えていませんが、寂しさと罪悪感でいっぱいになりその後賭け事に熱くなることはありません。
松ヶ岬神社からまいづる幼稚園の方にいくと神社側二軒目に大概ガラス切りの道具を売る親父がいます。今でいうサバイバルナイフ風のものの先端に回転するするガラスを切る歯が付いており実演をしています。これがすごく切れるのです。もちろんダイヤモンドが付いているのだという触れ込みです。一升瓶なども自由自在に波打ってすらすら切れるのです。
いくらだったでしょうか。安くはないが買ったことがあります。うちに帰ってちょっとガラスを切ってみます。なかなか快調に切れます。何回か切っていると何のためにガラスを切っているのか分からなくなり、飽きてしまいます。そしてお祭りが終りまたガラス切りで遊ぼうと思った頃には見事にガラスは切れないのです。ある意味見事なものでした。お祭りでこんなものを買っちゃ駄目だと親父に怒られたのですが、お祭り以外でこの道具は買いません。
その先はおもちゃやが何軒か並んでいました。そして一旦店が切れて北側の入口に茶屋が三軒あります。東側に一軒、西側に二軒あり、東側の茶屋の前にオレンジジュースの自動販売機が置かれています。一杯10円は当時でも安いもので、その辺にいると親父に水汲みを手伝わされて一杯只にしてもらったこともありました。一升瓶のコンクジュースを大量の水で割るもので、まだチクロなどが大手を振っていた時代です。
弓道場のところには見世物小屋が陣取り、怪しい看板と口上で客を引いています。ちょっとちら見が出来るんです。
まあ、こんな感じでした。現在も配置は大きくは変わらないようです。

親と行っていたときは、必ず東月で天丼を食べて帰りました。
一年の中でも特別な、かなり贅沢な時間だったように思います。
2009.04.16:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

東2丁目より福田町一丁目地内を臨む。

  • 東2丁目より福田町一丁目地内を臨む。
いないようでした、焼き鳥にしてはいけない鳥は。東京中央郵便局建替=トキの焼き鳥という例えは、ちょっとぴんときませんが。
このままあの鳥は単独国中を行脚して、祖国中国に帰っていくのでしょうか。

桜の花のつぼみもふくらんで、天気はいまいちでしたが一部開花したところもありました。

「サクラサク」や「イナホミノル」などの有名国立、私立を受験したことがないのでその事情は知れませんが、今でも合格通知電報というのはやっているのでしょうか。
私のときは首都圏私立という金のかかる大学で、受験の為に二回上京したと思います。そして、結局最初の上京で受けた大学は二回目の上京のとき自分で発表を見に行き、その後は先輩、知人(親戚のようなもの)に見に行ってもらいました。
大概「だめだった。」という電話が来るので、めったにいかない大学まで足を運んで不合格の通知をするのも面倒な作業だったことと思います。ただし御礼をしても電報を打ってもらうよりも安かったのでしょう。
一年後、浪人した友人の発表を見に行ったりして、滅多にくぐらない他の大学に足を踏み入れたりしていました。いまはどうやっているのでしょうか。結果ぐらい通知してくれてもよさそうなものですが。まあ、受かれば書類送ってきますけど、なかなか受からないもんだ。

米沢の桜では柳町妙円寺の桜がいつも一足先に花をつける感じなのですが、やはりもう満開に近くなっていました。
公園の桜を愛でながら、珈琲でもいかがですか。そういえば豆いち附近に天地人博の立派な看板が設置されました。

2009.04.14:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

米坂線はなぜ旧市内を半周してから、新潟に行くのか?

  • 米坂線はなぜ旧市内を半周してから、新潟に行くのか?
完全解決したわけではありませんが、思うことを二つほど。

米坂線は明治25年の鉄道敷設法から始まるため、計画自体は古く羽越横断線として私が所持している明治34年の地図には最早記入されています。但しルートは現在の置賜駅附近から六郷に向かい、小松も通らずに玉庭を通り、ずんずんまっすぐ新潟に向かっています。実際新潟まで通るのはずーっとあとの事ですが。

鉄道は現在でも当時でもお金のかかる国家事業です。1kmいくらという単価で計算するため、なるべく最短距離を通ることを考えるはずです。トンネルと橋梁は金がかかるため、なるべくならば最短で抑えたい、なるべくなら使いたくないわけです。

そのため、新潟に行くのに米沢の町をぐるりと回るのはセオリーではないはずです。しかも松川と鬼面川を渡らなければなりません、このルートは!
そうまでして市内をなぜ回らねばならなかったのか?

一つは帝人の存在です。あの大屋政子ちゃんのテイジンです。今の三中が建っているところに、帝人米沢工場が発足しました。かなり大きい工場になる計画であったらしく、鉄道の引込み線を計画しました。西米沢駅はそのための駅で、現在でも構内は広く取られています。その後パトロンである鈴木商店の倒産、米沢工場の狭小による岩国工場への移管が起こり引込み線の計画はなくなります。だがこのために米坂線のルートが変わったのではないでしょうか。
帝人の米沢撤退は諸説入り乱れてるので、もう少し検討してからにします。

もう一つは野岩羽線の存在です。これも明治25年には計画されていた線区で、栃木県今市から会津をぬけて米沢に至る路線です。現実には熱塩までは通ったが、残念ながら米沢までは敷設されませんでした。そのときの受け入れ駅が西米沢だったことを何かの資料で読んだことがあります。そのこともあり、西米沢構内を広くとっていたものと思われます。

米沢駅から直接西米沢方面に通すことは、町を通るため難しかったのかもしれません。
数日前、新型車両を初めて見ました。まだまだ走るんですね、米坂線。




2009.04.08:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

天地人博に行ってきました。

  • 天地人博に行ってきました。
幼稚園に渡す提出物を、諸般の事情により渡し忘れたため、届けに行きそのついでに息子と天地人博を観覧してきました。

常には大河ドラマは見ていないのですが、今回は≪愛珈琲≫でもお世話になっているので、一回目から大体は見てます。このようなことがなかったら米沢に住んでいても歴史のことって死ぬまで分からなかったかもしれないなぁ、などと思います。

息子が騒ぐので、天地人シアターは見れませんでしたが、豊臣秀吉の書状などが展示されていました。結構残っているものですね。
ストーブのトヨトミというのは関係あるんでしょうか。また今太閤と言われたのは故田中角栄だったでしょうか。
2009.04.07:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

昭和40年代東部地区駄菓子屋事情

  • 昭和40年代東部地区駄菓子屋事情
私が子供の頃のテリトリーであった東部地区は北は八木橋という松川縁の集落から東は六部、片子、南は通町一丁目、日の出町国立療養所と広大な広さでした。現在は通町日の出町が松川地区となり、若干範囲が狭くはなりましたが。

私が行っていたのはなんといっても信濃町の大日堂前の吉野屋です。
おばあさんが一人でやっていて、東部保育園に孫を迎えに行くときは、店に白いカーテンがかかっており、そんなときは遊んでばあさんを待っていたものでした。
店に入ると壁には甘納豆の当て物がかかっており、くじで引いて何杯か決めるカレーせんべい(薄緑色のコップで袋に入れる)、ガムの当て物(トップサンガムだったと思います。)上のほうには細木と竹ひごで作る飛行機の紙袋が洗濯ばさみでぶら下がっていました。
あとは怪獣の写真が一枚五円で売られており、通常はウルトラ物なのですが、映画の公開に併せて、ゴジラ、ガメラ、ギララ、ガッパなどの映画物が販売されました。まだあったんですね、全ての封切館が=東宝(米劇)、大映(中央)、日活(丸の内)、松竹(遊楽館)。
花火の季節になると奥の部屋の入口に雑然と並べられ、その中からよく吟味してセレクトしたものでした。そのほか学習帳などの文具や小間物なども所狭しと並べられており、かなりのワンダーランドでした。

他に東部小学校近くの後藤店(多分八百屋が本業)の左側のコーナー、通町の田代店(洋品店とタバコ屋もしていた気がする)はちょっと珍しいぬりえを販売していたし、駅前の大島店(本業は雑穀か、卵なども売っていた気がする)も花火などはかなり充実していたような覚えがある。

その外の地区で記憶にあるのが、南部小前の種村店(たなむらみせ、と読みます。)東寺町善立寺脇の青柳店、上杉公園南堀端の神原店、幸町三の丸脇の角店
他の店に行くと、問屋が違うのか、店主のセレクトが違うのか、いつもとは違う商品が並んでいて、興味をそそられました。

かどみせはまだやっているんでしょうか。あとは壊滅状態ですね。
2009.04.06:mameichi:コメント(2):[そこいら辺を歩く]