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赤レンガの建物

  • 赤レンガの建物
ちょっと時間があったので、所はヴェネツィアの修道院の中庭。うだるような湿っぽいアドリア海の潮風を感じながら、トスカーナ産の完熟したホワイトピーチと、ヴェネト州はトレヴィーゾのスプマンテ、プロセッコを使ったベリー二をぐいっと飲み干しました。。。。んまいっ!


実は旧県庁、現在の文翔館の中庭です。

そこで明治の山形と題する写真展が開かれています。
撮影したのは商売のかたわら道楽で写真を撮っていた岩松吉蔵氏の作品で、明治30年代のものが殆んどです。

今日20日までの開催ですので、興味のある方は是非どうぞ。入場無料です。
2009.08.20:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

米沢で花火大会が2回あるのは、、、

  • 米沢で花火大会が2回あるのは、、、
明治時代の二大政党制の賜物ということが出来ましょう。
地方紙で同一エリアに二社あるのは、明治時代の政友会と憲政党の流れを汲む新聞社といえます。
通常は戦時中の各県一紙の統合後はそのままのところが多いのですが、隣町の福島市にも東北の天皇、故小針暦二が率いた旧自由党機関紙の福島民報(毎日系)と、第十代衆議院議長河野広中創設の福島民友(読売系)が並立しています。

私の住んでいる米沢市にも新聞社は二つあり、タイトルも華々しい『東北花火大会』(7/30)の米澤新聞社と『水上花火大会』(8/7)の米沢日報社です。

新聞社主催の花火大会というのも各地から姿を消しており、ちょっとした事故が起きたりすると撤退を余儀なくされるようです。
十勝毎日新聞社は今でも継続しているのでしょうか。
それから見ると水上花火大会は事故後にかなり盛大になっている印象を受けます。焼け誇るというのでしょうか。

今年の場合、東北花火大会が3000発、水上花火大会が6500発ということでした。
双方とも特徴のある花火を上げており、米沢のような小さな町で二回花火を楽しめるのはありがたきかな、と思いました。

特に子供や中高生のオネエサンは2回浴衣が着れたりして、それだけでもいいじゃあないですか。
私も二つともビール片手にかなり楽しませていただきました。



平成の二大政党制は、、、

そういえば今日11日のYBCラジオ、日本全国ホット通信という帯番組に『愛珈琲』で出させていただきます。一応TBSラジオ全国ネットでカミかみでお届けします。
16時台だったと思います。
2009.08.11:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

街道を行く。

  • 街道を行く。
先週のことですが、会津西街道を南へ南へ、喜多方、会津若松、鬼怒川、日光を抜けて足尾、大間々、前橋、そして高崎に行ってきました。遠かったー。
会津西街道は関東側からの呼称で、会津側から言うと南山通り、或いは下野街道といいました。

この街道は会津藩の参勤交代のルートであったわけですが、他にも新発田、村上、庄内、米沢の各藩が利用していたと書かれています。

米沢藩に関しては通常板谷峠を越えて奥州街道から江戸に向かうのがセオリーなのでしょうが、羽州街道(多分高畠、二井宿周り)から行ったという記録もあり、いろいろな事情により使い分けていたのかもしれません。

うちのご先祖様は奴さんの前に立って「下にぃー、下にぃー」という役だったと聞いたことがあります。小屋に武鑑(大名・旗本などの詳細な情報本)もあったので江戸詰めの時もあったらしいのです。
あの武鑑どこにいったかなぁ。。。

写真は若松城。
幕末上杉は義の精神を発揮できませんでした。
2009.07.15:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

天地人の録画を見る。

  • 天地人の録画を見る。
どうも日曜の夜8時に大河ドラマを見る機会に恵まれないので、録画することになります。
かみさんは中々見る機会がないようで、まだ御館の乱あたりだそうです。

記憶にある大河ドラマといえば、1969年の「天と地と」でそのときも米沢は今回のようなフィーバー振りだったような気がします。お祭りの時石坂浩二氏が来たりして。あまりやってることは変わってませんね、四十年も経ってるのに。
それまでの上杉祭りのパレードはあくまでも「仮装行列」といわれており、町内単位とか商店会とか企業が車に山車を作って町回りをする、というスタイルだったように思います。
それが「天と地と」以降は上杉行列という感じの部分だけになり、子供的には非常につまらなく感じたものです。

私は子供の頃よく一人でどこかにいってしまう子供でした。息子が今4歳なのですが、私がそのくらいの頃は、勝手にいなくなることが頻発しました。そういえばあ奴もこの間一人で外に出ていったらしいです。
割と記憶がはっきりしているのは、この5月3日のパレードの日のことです。

今でも米沢駅で砲術隊の試技が行われるのですが、当時もそうだったのでだいたいその辺でお祭りを見ていました。
それから一旦家に帰り、母が用事があるので一緒に車で南部小学校のほうに向かいました。用足しをするまで車で待っているようにいわれたのですが、遠くから何気に楽しそうな音が聞こえてきます。
そうです、パレードが近くまでやってきたのです。ぼくは見たくて見たくてたまらず、初めて自分で車のドアを開けて音のするほうへ歩いていきました。
人がたくさんいます。場所はどの辺だったのでしょうか。
パレードがやってきました。一回見ているので大体何が来るのかは分かっていました。
好きだった電電公社の電話機の山車を見てからそーっと車の方に戻って、何事もなかったように待っていた振りをしていました。
そうしたら子供がいなくなったということで、母親は随分心配して探したそうです。自分では数分と思っていたのですが、多分かなりの時間がたっていたのだと思います。

その前かその後か、東京に行ったときも一人で浜町公園に再訪する、という迷子ではないのですが勝手にいなくなる子供という役どころをやった覚えがあります。やっぱりみんなで心配するわけで、、、。

上杉神社の毘と龍の軍旗は以前はなかったように思うのですが。多分天と地と以降ではないかと睨んでいるのですが。
子供心にこの旗を見て、無い方がいいのに変なことになったものだ、と思ったことを思い出す今日この頃です。
2009.06.09:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

朝の米澤料亭界隈。

  • 朝の米澤料亭界隈。
まだ昔の風情が残ってるところ、この通りでしょう。極楽寺から一直線にお城に向かっています。今はなくなりましたが、菅野牛肉屋やおかめという大きな料理屋もあったそうです。
今も盛業中の共楽堂では、私の米沢予備校時代の恩師の菊池先生が米商時代、太宰治が亡くなった時に二階を借りて追悼の会を開いた場所だそうです。

写真は反対にお城から極楽寺方面を望みます。
2009.06.05:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]