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門松は冥土の旅の、、、

  • 門松は冥土の旅の、、、
一里塚 めでたくもありめでたくもなし
などという狂歌が残っていますが。

朝子供をばあちゃんの家に送るとき、相生橋のたもとで門松を積んでいる軽トラックと行き会いました。
もうそういう季節なのだなぁ、などと思いながら豆いちに来てみると近くにそのトラックが止まっているではありませんか。

大将にお話をして写真を撮らせていただきました。
下世話ながら対でいかほどでしょう?と伺うと
「ホームセンター○○○では5尺で○万○千円で売っていたが、うちではその半額ほどだよ。」とのことでした。
うーん、あと何年かしたらお願いします、と言い残してその場を去りました。
2009.12.27:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

日光駅、未明。

  • 日光駅、未明。
事情により夜4時ごろ日光を通過しました。道路から駅が見えたのでUターンして撮影しました。

大正元年の建物は瀟洒で品があり落ち着いた逸品です。

昭和43年まではここから馬返まで東武鉄道日光軌道線が発着していました。
古川電工の貨物も運送されていたため、道路の上を電気機関車が走っていました。
古川電工の親会社古川鉱業は山一つ隔てた足尾銅山を操業していた会社で、足尾鉱山事件の原因企業です。

2009.12.02:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

雨中、大檀葬場を訪ねる。

  • 雨中、大檀葬場を訪ねる。
現興譲館の西側に上杉家葬場跡という小さな看板が立っています。
小さな看板の割には結構目立っていて、通るたんびに気になっていました。
一寸時間が合ったので、一昨日の休みの日、セブンイレブンに行く途中立ち寄りました。

万治元(1658)年綱勝夫人(媛姫)の死去に際し、江戸から遺骸を林泉寺に移送して塵焼(火葬)した後、大檀原で葬儀をしたのが最初だそうです。
寛文4(1664)年第三代綱勝が江戸麻布邸で死去すると廟所敷地内で塵焼を行い、笹野村大檀原で葬儀が執行され、それが藩主葬送の慣例となりました。
しかし九代治憲(鷹山)の時代に葬法が土葬に転換すると葬儀は廟所で行うようになり、大檀葬場での葬儀はなくなりました。よって本史跡は、上杉家に係る江戸時代の藩主葬送の歴史を示す貴重な存在であります。

という懇切丁寧な説明文がありました。そのほかになぜこの場所が大檀にえらばれたか、どのような位置で葬儀が執り行われたのか、三枚に渡る充実した説明文がうこぎ垣根に包まれてあります。

この流れからすると(初代謙信)漆瓶=土葬みたいな→(二代景勝)遺骨を高野山とあるので火葬かな?→(三代~八代)火葬→(十代以降)土葬となるようです。
そういえば家老竹俣美作も甲冑を着けて謙信同様瓶に収めて漆で固めたらしいです。
この方法はほかの藩でもあるのでしょうか?

まずは、是非お訪ねください。
2009.11.19:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

米沢グルメ旅。

  • 米沢グルメ旅。
店をやっているとなかなか外食の機会に恵まれません。
そこで昨日はたまにはいいじゃないか!ということで最近豆いちを訪れていただいた方々のお店に伺いました。

お昼は粡町の「らぁじゃ」さんにてスープカレーを頂戴しました。挽肉のものでとってもおいしく頂戴しました。
なんといっても部屋の中の立派な神棚がかっこよかったです。

その後大沼に行き、豆いちのお隣で織絵夢人館をやっていらっしゃる鈴木貴子さんの個展を拝見しました、米沢への熱き思いをお聞かせいただきながら。
特招会だったので豆いちのお客様にも何人かご挨拶させていただきました。

その後幼稚園に子供を迎えに行きインフルがかなり増えてきていることを確認、 その足で古志田の「うふカフェ」に伺いました。
落ち着いた店内と米沢全体を眺められる眺望、そしておいしい栗のパフェとかぼちゃとサラミのクレープ、珈琲をいただきました。ここは豊かな時間ですね。
かかっていた音楽はモーリス・シュバリエでしょうか?いい感じでした。
もう少しゆっくりしたいのですが、相棒が途中セブンイレブンで購入したハンバーガーの折り紙を早く家に帰ってやりたい!やりたいっ!となってしまったのであえなく退散。

その外三友堂リハビリセンターであった珈琲の自動販売機とか、南原の大檀葬場跡、掘立川に架かる日中橋、羽陽書房で購入した高野義雄小伝、、、など気になるものは数知れず。

いろいろな米沢を実感した幸せな一日となりました。
2009.11.18:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

大橋界隈を歩く。

  • 大橋界隈を歩く。
火曜日の午前中、大橋(南陽市)附近を探索?しました。

ちょっと気になったのが畿内神社です。道路から参道があり、奥に神社がありました。後ろには八百万の神々が集められていました。
境内は小さいけれど、なかなかのスポットです。

畿内とは都や皇居に近い地域を指す呼称とのことです。ここはそういうところなのでしょうか。少し行った所にある川は天王川ですね、そういえば。
山形神社というサイトで調べてみると畿内神社は下記の2つが出てきます。

山形県東置賜郡高畠町大橋字町浦999番ノ1
山形県南陽市鍋田字堂前261番の1

私が行ったのは多分南陽市大橋だと思うのですがそれは出てきません。鍋田は天王川を渡った違う場所なので高畠町大橋の方なのでしょうか。
飛び地などがかなり詳しく載っている昭文社の地図を見ても高畠町にはなっていません。
詳しい方、ご教示お願いします。
2009.11.01:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]