写真はかなり樹勢が強い頃の満開の図で、明治後期か大正の初めころです。
よくは分かりませんが、多分現在も植えられているソメイヨシノという品種ではないでしょうか。
昭和5年に編纂された「上杉神社誌」のなかに明治10年ごろの上杉神社の鳥瞰図(畠山泰助筆)というのがあり、その中には桜が書かれていますが、まだそれほど大きく育っていないのでそのころうえられたのかもしれません。
ただそのころ米沢にソメイヨシノが入ってきたかどうかは定かではありませんが。
それでもお城の跡に植えられているのは大概ソメイヨシノなので、桜を植える運動でもあったのでしょうか。
大正8年の大火で上杉神社は類焼するのですが、樹木もかなり火災に見舞われたと見え、その後また桜を植え替えしたのだと思います。
現在も北側東側なんかは植え替えがところどころされていますね。
HOME > 米澤絵葉書繁盛記
川中島模擬戦はいつからやっているのか?
現在のものは年表によれば昭和48年から始まったということです。
ただし明治時代もやっていたことは、一部では知られており写真に残っています。
私が所蔵しているもので現在13枚ありますが、結構生々しい絵面なのです。
なにがといえば、武具が先祖伝来のもので、多分戊辰戦争などでも使われたのではないでしょうか。
ここに掲載しているものは画質を落としていますが、実際は随分細かいところまで写りこんでおり、右側の電柱がなかったら、実際戦国時代に撮った写真といわれても分からないクオリティの高さです。もちろんそんなものはこの世に存在しないのですが。
米沢の古写真は実際静寂のシーンが多いように思われるのですが、戦争ごっこしている時だけはざわめきを感じます。
さすが武闘派集団上杉の面目躍如なる原風景を感じざるを得ません。
ただし明治時代もやっていたことは、一部では知られており写真に残っています。
私が所蔵しているもので現在13枚ありますが、結構生々しい絵面なのです。
なにがといえば、武具が先祖伝来のもので、多分戊辰戦争などでも使われたのではないでしょうか。
ここに掲載しているものは画質を落としていますが、実際は随分細かいところまで写りこんでおり、右側の電柱がなかったら、実際戦国時代に撮った写真といわれても分からないクオリティの高さです。もちろんそんなものはこの世に存在しないのですが。
米沢の古写真は実際静寂のシーンが多いように思われるのですが、戦争ごっこしている時だけはざわめきを感じます。
さすが武闘派集団上杉の面目躍如なる原風景を感じざるを得ません。
先代の上杉伯爵邸は、
大正8年の大火で神社もろとも焼失してしまいました。
設計は伊東忠太、この写真を見ると全体的には黒なのでしょうか?
しかもちょっと寝殿造りのように感じます。
伯爵邸は明治27年に二の丸寺院跡(減上杉記念館から)児童会館にかけての6千坪)に着工、29年6月に竣工しました。
その名を鶴鳴館と称され、東京からの移住費を含めて3万7千円かかったとのことです。
建物も今の造作とは違っており、庭の感じも違うようです。
しかも手前が田圃で苗を植えたばかりの季節でしょうか。
町の真ん中で米を作ってたのは昭和の40年代まで続くと聞いています。
そういえば、大正8年の大火の時に、洛中洛外図屏風とか、愛の兜とかはどのようにして持ち出され、火難に遭わなかったのでしょうか。その辺ご存知の方がいれば危機管理に役立つ情報になるのではないでしょうか。
その後再建された現伯爵邸は、小説家宮本百合子のお父さん中条精一郎の設計です。伊東忠太はそのときは上杉神社の設計を担当していました。
設計は伊東忠太、この写真を見ると全体的には黒なのでしょうか?
しかもちょっと寝殿造りのように感じます。
伯爵邸は明治27年に二の丸寺院跡(減上杉記念館から)児童会館にかけての6千坪)に着工、29年6月に竣工しました。
その名を鶴鳴館と称され、東京からの移住費を含めて3万7千円かかったとのことです。
建物も今の造作とは違っており、庭の感じも違うようです。
しかも手前が田圃で苗を植えたばかりの季節でしょうか。
町の真ん中で米を作ってたのは昭和の40年代まで続くと聞いています。
そういえば、大正8年の大火の時に、洛中洛外図屏風とか、愛の兜とかはどのようにして持ち出され、火難に遭わなかったのでしょうか。その辺ご存知の方がいれば危機管理に役立つ情報になるのではないでしょうか。
その後再建された現伯爵邸は、小説家宮本百合子のお父さん中条精一郎の設計です。伊東忠太はそのときは上杉神社の設計を担当していました。
開明座発見!
米澤市 割出橋遠望 という絵葉書を手に入れた。ハガキの状況から明治30年から39年ごろのものと分かる。
最初気づかなかったのだが、鳥居の右の柱の後ろに白い大きな屋根を見つけた。
橋の向こう岸の建物だ。
これを見て、あっ、これが開明座だと気付いた。最初は橋の向こうが花沢なのかとも思ったのだが。
開明座は明治28年桶屋町に開場した芝居小屋で、政友会の星亨、浪花節の桃中軒雲右衛門が来場している。
立町から東にぶつかったところにあったということなので、現在相田建設さんがあるところと思われ、大正6年の大火には焼失している。
明治28年にはまだ米沢に電気は惹かれていないため、明り取りの櫓がみてとれる。但し芝居は昼のみの興行だったが。
私が住んでいるのはその開明座跡の近所だが、橋を渡って鳥居のあるあたりに行ってそれらしいものがあるか、探してみたが雪でまだ分からなかった。
雪が解けたら撮影場所を確定してみたい。
それにしても明治30年代の米沢はのどかだねー。
最初気づかなかったのだが、鳥居の右の柱の後ろに白い大きな屋根を見つけた。
橋の向こう岸の建物だ。
これを見て、あっ、これが開明座だと気付いた。最初は橋の向こうが花沢なのかとも思ったのだが。
開明座は明治28年桶屋町に開場した芝居小屋で、政友会の星亨、浪花節の桃中軒雲右衛門が来場している。
立町から東にぶつかったところにあったということなので、現在相田建設さんがあるところと思われ、大正6年の大火には焼失している。
明治28年にはまだ米沢に電気は惹かれていないため、明り取りの櫓がみてとれる。但し芝居は昼のみの興行だったが。
私が住んでいるのはその開明座跡の近所だが、橋を渡って鳥居のあるあたりに行ってそれらしいものがあるか、探してみたが雪でまだ分からなかった。
雪が解けたら撮影場所を確定してみたい。
それにしても明治30年代の米沢はのどかだねー。