ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
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今年の4月から、22歳の息子が一緒に農業をやっている。うれしいような、切ないような複雑な気分だ。
 何故って?うーん、例えていえばこんな感じかな。

嵐の海。難破船から次々とボートに乗って脱出していく人びとがいる。ぼくはこの難破船に残ることを決めた。他にも残る人はいるが大半は高齢者だ。するとそこに一人の若い男がやってきた。「お父さん、俺も残るよ。」よく見たら息子だ。「えっ、お前も残るのかい?」
ま、息子の決めたこと、尊重しようと思っているけどね。

それにしても・・・と考え込んでしまうよ。
この国の食べものや農業の実情はどうみてもおかしい。そして、そのことに「こんなことじゃダメだ」という声は上がらない。このこともおかしい。

例えば「飢餓の国」とマスコミで報じられる北朝鮮。多くの人は「北朝鮮の人はかわいそう」とテレビを見ているけれど、その穀物自給率は53%。日本はその半分の27%。ひとたび天変地異が起きれば、かの国以上の惨状を呈するであろうことは、容易に想像できるのだけど、誰も不安に思ってはいないようだ。おかしい。

例えば、この国の農業に従事している者の平均年齢は60歳代後半で、最も多い年齢層は70歳から74歳だということ。おじいさんとおばあさんが支えているんだよな。これっておかしい。でも、それなのに人々が先ざきのことをまったく不安に思っていないみたいだ。これもおかしい。

あるいは、前回書いた「野菜の質の低下」(24回)。こんなものを国民は広く食わせられているのに、「これじゃ、寿命をまっとうできなし、子どもも育つことができないじゃないか。」とは誰もさわがない。これはおかしい。

ニワトリも牛も豚も狭いケージ(カゴ)に入れられて、身動きできない状態で飼われているのに「かわいそうだよ。彼らにも人生がある。もっと広い所に飼ってあげようよ。」という声は聞かない。ペットには向けることができる思いやりも、彼らには働かない。彼らの不幸は我らの不幸。いのちはみんなつながっているというのに。これもおかしい。

おかしいけれどそれが現実だ。そんな中に新しい農民として旅立っていく息子の人生を考えるとちょっと心配かな。

でもね、いのちの源である土を守り、その上に生命力あふれる作物をつくる。大地を踏んで飛び回るニワトリを楽しみ、コロンと産んだ玉子をいただく。それらを人々に分け与える。

このように、「土」と「いのち」と「食べもの」の健康な関係を何よりも大切にして、汗を流して働くかぎり、人々に必要と認められる生き方はできるだろう。決して贅沢はできないだろうが、それはそれでいい。

大丈夫だ。難破船にだって、必ず道はあるはずだ。信じている。



あなたは土を喰ったことがあるだろうか?あるわけがないって?いやいや、いつだって食べていると思うよ。茶化しているわけではなく。ぼくにはそう思える。というのは・・・

田んぼの刈り取りがすんだ今ごろになると、ときどきカドミウムに汚染されたお米が見つかって大量に焼却処分されたという話が報道される。当然のことながら、稲が重金属であるカドミウムを作ったわけではない。カドミウムに汚染された田んぼがあって、そこで育った稲がそのカドミウムを根から吸収して白いお米に蓄えたということだ。
一昨年、山形県では栽培されたきゅうりから40年前に使用禁止となった殺菌剤の成分が出て問題となったことがあった。これも、土の中に残っていた農薬を根が吸収してきゅうりに蓄えたというわけだ。
つまり、作物は土から養分や水分だけでなく、重金属から化学物質まで、いい物、悪い物を問わずさまざまなものを吸い込み、実や茎や葉に蓄えるということだ。土の現状がそのまま作物に反映されていく。

ぼく達は、かぼちゃやスイカやブロッコリーを食べるけれども、それはそれぞれの作物の味と香りにのせて、育ったところの土を食べているのと同じだ。言い過ぎだって?いやいや、ぼくにはそうとしか思えない。
 以前、農薬が心配だからと、トマトの皮を厚くむく友人がいたけれど、もし土が汚れていれば皮をむいたところでどうなるものではない。身ぐるみ汚れているのだから。そう、洗っても洗っても決して落ちることがないのが土の汚れから来る作物汚染だ。それと分かれば捨てることもできるが、これも他の農薬汚染と同じく、見ても食べても決してわからないから始末が悪い。

さて、アジア各国やアメリカ、南米各地の作物が大量に出回っている。安い。国内産の何分の一かの価格だ。でも、だからといって買って食べてみたいとはとうてい思えない。いま見たように、ぼく達はそれらの作物を食べながら、中国やアメリカやアルゼンチンの土を食べることになると思うからだ。それらの土が食べてもいいほどに安全かどうかは誰も知らない。
土の汚れは作物の汚れ、作物の汚れはそれを食べる人間の身体の汚れにつながっていく。
「身土不二」という言葉がある。身体と土は一つであり、両者を分かつことはできないという意味合いをもつ言葉だ。前回、土の弱りは身体の弱りを引き起こすと書いたが、そのこととあわせて考えれば、全く土と身体は不可分であることが実感できる。

食を問うなら土から問おう。健康を築くなら土から築こう。いのちを語るなら土から語ろう。どうせ喰うならいい土を喰おう。切実にそう思うがどうだろうか。





我が家の家族は野菜が好きだ。80代後半になる両親、われわれ夫婦、それに一緒に農業している20代の息子も食事のたびに山盛りの野菜料理をせっせと口に運ぶ。今朝の食卓も野菜づくしだ。大きな器にだいこん葉やかぼちゃの煮物、春菊とくきたちのおひたしなどの野菜料理が盛られ、テーブルいっぱいに並ぶ(写真)。いつか、東京から来た友人が「毎日この量をスーパーから買い込んだとしたらすぐに家経費が底をついてしまうな。」と笑っていた。

しかし、こんな野菜好きのぼくでも、東京で食べる野菜を一度もうまいと思ったことがない。食堂に入っても、飲み屋に入ってもそう思う。出てくるもののほとんどが、ぺらぺらしていて味がなく、紙を食べているような感じなのだ。さらにいえば、野菜の中にパワーが感じられない。

東京で暮らしている人たちはいつもこんな野菜を食べているのだろうか。それとも、ぼくが行くところがそんなところなのか。その点はよく分からないが、もしこんなものをいつも食卓にあげているとしたら大変だ。子どもたちが野菜好きになるわけがないし、そもそも体がもたない。病気になってしまうだろう。それにしても、この野菜はいったい何なんだ。

なるほど、原因はこれか。そう気付くことがあった。まず、「食品成分表」に基づいて作成されたこの表を見てほしい(表参照)。

ビタミンAでみれば、1954年のピーマン一個が今の約10個分に匹敵するのだ。他のビタミンも全て半分か、1/3に減っている。この表にはないがミネラルもことごとく半分か1/3に減っている。この傾向はピーマンに限ったことではなく、全ての野菜にあてはまることだ。原因は何か。それは「土」の疲弊にある。

1954年まではほぼ堆肥だけで作物を作っていた。だが、60年代に入って軒並み、化学肥料と農薬を中心とした栽培方法に転換していく。これによって急激に土が変わり、作物の質が落ちて言った。紙を喰うような味気なさの原因は土の力の凋落にある。ぼくはそう確信した。

弱った土からは弱った作物が育つ。これは間違いない。その弱った作物を食べ続けることで生命力、免疫力が低下する。集中力も続かない。たぶんこれも間違いのないことだ。

大人達も心配だが、問題は子ども達だ。1/3や1/10になったからといって、今の子ども達に昔の3倍、10倍の野菜を食わせることは困難だ。脆弱な食材から身体を組み立てていくしかない。「アトピー」、「落ち着かない」、「すぐに切れる」などの子ども達の「症状」の背景には作物の質の低下があると思われる。大丈夫なのかい,東京の家族は。

我が家の作物は長年にわたって堆肥を投入した土で育っている。ニワトリたちのフンも一役かっている。そうしてできた1954年の野菜たちだ。うまさのもとはここにあった。

さて、だからといってあなたも農民になろうと呼びかけたりはしないぞ。やりたい人はやればいいが、もっと、違うやり方があるように思えるんだ。それは何かって?それはな・・・自分で考えなさい。



悲しい物語を中心にオンドリの話が続いた。これだけで彼らの話を終わりにしたとすれば、きっとオンドリたちの中から抗議の声が上がるに違いない。
「俺を説明するのに交尾の話だけで終わりなのかい?水臭いじゃないか。」と。

 そうなのだ。彼らと長年付き合ってきたぼくは、折にふれて示す彼らの魅力ある行動をたくさん見てきたし、ほとほと感心させられたことも一度や二度ではなかったのだから。確かにそれを書かなければ片手落ちになってしまう。

なかでも鶏舎から外界に出たときの「危機管理」は見事なものだ。

ニワトリたちは午後になるとローテーションにしたがって鶏舎の外にでる。お日様の暖かい陽射しのもと、草をついばんだり、砂浴びしたりしながらのんびりと過ごす様子は、見ている僕にとっても気持ちがいい。そんなのどかな光景を壊すのは野良猫などの闖入者だ。

 たとえば猫が来たとする。危険が近付いたと判断したオンドリは大きな声を出し、あたりに散らばっているメンドリたちに警告を発する。メンドリたちは一斉にオンドリの周りに駆け寄る。彼は彼女たちをかばうようにして、外敵をにらみつける。両者の間にしばし張り詰めた緊張が続いた後、ほとんどの場合、猫は手出しできずに退散してしまうのだ。オンドリは再び悠然と草をついばみ始める。それを見てメンドリたちも安心したようにまた周辺に散らばっていくのだ。この「危機管理」の見事さよ。

こんなこともあった。ぼくの子ども達が小学1,2年生のころのことだ。働いているぼくの傍で、子ども達は棒切れを持ってニワトリを追いかけ回して遊んでいた。のどかなひととき。「ヒエーッ」突然あがった子どもの悲鳴にあわてて振り向くと、オンドリが子どもめがけて強烈なとび蹴りを食わしている。一度、二度、三度・・。ぼくは思い切り駆けていって子どもを抱きかかえた。すでに身体のあちこちが傷ついていた。

子どもばかりではない。慣れない者が鶏舎の中に入り、それがオンドリにとって「危機」と受け取られれば、大人でさえもキックの洗礼を受け、逃げ出すこともある。

オンドリと比べれば、人間の大人ならおよそ20倍、子どもだって10倍やそこらの体重差がある。彼らから見たら、我々はほとんど恐竜のように大きいはずだ。にもかかわらず、その格差をものともせずに、身を挺してメンドリたちを守ろうとするこの勇気。この責任感。

さらに、夕方、薄暗くなるまで鶏舎に帰らないメンドリを案じて、入り口付近でいつまでも待っている姿や、メンドリ同士の喧嘩に割って入って、争いを止めさせようとしている様子などを見ていると、人間の男の方が彼らよりも「上」だなどとはとても思えなくなってしまう。

そしてね。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、見ているぼくの方が、彼らから「しっかりしろよ。」といわれているようで、いささか神妙な気持ちになってしまうのだ。




今回は、前回のオンドリの話で多くの方々の涙を誘った「もてすぎるのも困りもの」の前史にあたるものだ。
オンドリの悲哀に満ちた物語はなぜ始まったのか?たくさんの方々から問い合わせが寄せられた。

それじゃ、あまりにもオンドリがあわれだよ、もっとオンドリを増やせばいいではないかと。ぼくもここのところに関しては、ぜひとも書いておかなければと思ってはいたんだ。

さて我が家のニワトリたちは一群が100羽以内で暮らしており、その中に一羽ずつのオンドリがいる。有精卵にするには10羽から20羽に一羽の割合でオンドリを入れなければならないという。ぼくはそのために一つの群れに3〜4羽の割合で飼ったことがあった。

しかし、やがてぼくはそのオンドリを減らさざるをえなくなってしまったのだ。それというのも・・・。

まだ、ニワトリを飼ってまもない頃のことだ。当時導入した15羽ほどのオンドリたちはやがて成長し、トキの声を放ち始めた。朝ならまだいい。彼らは夜中の2時ごろに鳴きだす。それもひんぱんに。鳴き声は夜の静寂を破り、ゆうに2km先までもとどくだろうというほどの大きさ。一羽が鳴き始めると他の者たちも負けずに大声を出す。オンドリたちの夜中の大合唱。
鶏舎の両隣がすぐに民家なのだからたまらない。それが始まると近所に申し訳なくて、申し訳なくて寝てなどいられなかった。

「シーッ静かにしてくれ!頼むからよ。ぼくを困らさないでくれ。」

必死で夜中の鶏舎を走りまわった。こんなことが続くと、小さな物音にも「またか!」と過敏に反応するようになる。寝不足の毎日が続いた。

昼には昼で・・・。
「よしひでー!また騒いでいるぞー。行って見てこい。」両親がたまらずに声を出す。
突然始まる数百羽のメンドリたちのけたたましい鳴き声。何事かと駆けつけてみると原因はオンドリ同士の喧嘩だ。一羽のオンドリが鶏舎の中を逃げ回っている。彼らの中に序列が決まるまで、あるいはメンドリのとりあいなど、争いがたえない。巻き込まれてメンドリたちが騒ぎ出し、鶏舎から鶏舎への大騒ぎとなって伝播していく。こんなことがしょっちゅうだった。これでは玉子を産むメンドリたちの環境にも悪い。

「申し訳ない。何とかしますから」

ぼくは、近所の人たちに頭を下げてまわった。「いいよ。ニワトリのことだもの。」と、みんな笑って許してくれたが、申し訳なさでいっぱいで、ほとほとまいってしまったのだった。
全てを有精卵にするのをあきらめよう。オンドリを減らそう。そうしなければ養鶏は続けられない。そう考え、一群に一羽のオンドリの組み合わせに変えていった。ぼくのニワトリたちが産む有精卵の割合は半分ぐらいだろうか。彼らの騒ぎはずいぶん減って、ぼくや、近所の人はようやく安心できたんだ。

だけどね、ここからオンドリの悲哀に満ちた「人生」が始まったというわけさ。





...もっと詳しく
 


「赤く肌がでていて、羽がないトリがいるけど、どうしたんですか?病気ですか?」
指差す方向を見ると、そこには鳥肌むきだしのオンドリがいた。
「あれはね。病気じゃないんですよ。どういったらいいのかな・・。メンドリに求愛されてね・・。」
そうなんです。ぼくの見るところ、もてもての結果なんですね。でもそれがオスドリにはつらい。
さて、もともとオンドリは、メンドリと比べて身体が一回り大きく、羽も輝いていて、見るからに立派だ。トキの声を上げながらまわりを睥睨(へいげい)する勇壮な姿は、ニワトリたちとの長い付き合いがあるこのぼくでさえ惚れ惚れするほどだ。それがどうして・・・。

その辺の話をする前に、たくさんのメンドリのなかのオンドリの環境について説明しなければなるまい。この話を品よくまとめるのはとても難しい。下品になったとしても、それがニワトリ達の現実の世界なのであって、書き手のせいではないことをあらかじめお断りする。

そのオンドリ。ヒヨコのうちは色の違いがあるぐらいでかわいいかぎりだが、それがやがてたくましく成長し、トキの声をあげる頃になると、盛んにメンドリを追いまわすようになる。交尾を迫るためだ。その性欲の旺盛さには驚かされる。ぼくの知る限り、季節に関係なく交尾を行うことができるのは、ニワトリと人間だけだが、我々のとてもかなうところではない。計ったわけではないが、10分に一回ぐらいの割合でメンドリに挑んでいくのだから。

ぼくの鶏舎にはオンドリ一羽に対してメンドリが40から80羽ぐらいの割合でいる。その彼女たちを次から次と追いかけまわす。
メンドリたちは当初、そんなオンドリについて行けず、逃げ惑う。それを追いかけるオンドリ。
その求愛は相手かまわず、所かまわず、リアルで、露骨で、性急で・・・。

このような光景がしばらく続くのだが、それがやがて月日が経つと、彼女たちは逃げずに自分の方から積極的にオンドリのそばにやってくるようになるのだからおもしろい。一羽の上に乗っかって交尾しているそのすぐそばにやってきて、次は私に・・・という体勢をつくるのだ。

そして更に時は経ち、人間で言えば「中年」となったとき、主客は逆転する。自分たちの要望に応えることができなくなったオンドリに向かって、ツン、ツンと軽く突っつくようになる。それを避けようとするが、そこにまた別のメンドリがやってきてはツン、ツンと。

「しっかりしてよ。逃げないでこっちを向いて!」言葉にすればこんな感じなのだろうか。

オンドリ一羽にメンドリが大勢。かつて、彼にとっての歓迎すべき環境は、まったく違ったものとなって、オンドリに向かってくる。その結果、羽が一枚、また一枚と落ちていくというわけだ。

さて、これで羽を失い、貧相になってしまったオンドリの話は終わりだけれど、ここから私たちは何を学ぶべきだろうか。

ぼくにはとっても難し過ぎて分からない。



4月生まれの若鶏を始めて鶏舎の外に出すことにした。あまり早くに出しすぎるとカラスの標的になる。生後3・5ヶ月。もう大丈夫だろう。

 さぁ、外に出てこいよ!明るい陽射しのもと、草や虫たちがお前達を待っているぞ。戸を思い切り開け放つ。先輩の鶏たちなら、待ってましたとばかりに一気に出てしまうのだが、そこは初めてのこと。若鶏たちはなかなか出ない。外への一歩一歩がドキドキものなのだろう。

 「分かる、分かるぞ。俺もそうだったよ。」新しい世界にとまどうニワトリ達を見ていたら、ふるさとを離れ、東京に出て行った18歳のころのことを思い出した。
 東京とはどんなものか、テレビや話で知ってはいた。でも、それはニワトリたちが、鶏舎の中から金網越しに外の世界を眺めていたのとあまり変わりはなかったと思う。そこは田舎出の青年にとって、理解しがたいことの多い世界だった。

ぼくの忘れもしないカルチャーショックの第一は、団地に住む知人の住宅だった。なんと、お風呂と便所が一緒になっているではないか。こんな組み合わせって有りか?ここは東京。山形の我が家は別々だけどそれはきっと「遅れている」からに違いない。そう思った。想像を超えた世界だった。

第二のショックは食堂でのこと。いくつかのおかずが見本となって並んでいた。その中の一つに目がいった。小鉢の中にお刺身が入っていて、その上にとろろがかかっている。当時我が家には冷蔵庫というものがなかったから、お刺身などという生の魚は食べたことがない。うまそう。食べてみたい。お金はなんぼ?食堂の中にべたべたと貼られている品書きの短冊をみた。名前が見当たらない。きっとお刺身は「とろ」というものに違いない。とろととろろで「とろとろろ」か。あたりを付けて見渡すが、やっぱりない。結局食べずに帰った。
ようやく後でその名は「やまかけ」という、全く実態からかけ離れた名をもつおかずであることを知った。そんなの分かるわけがないよ。

 同じようなことがもう一つあった。ぼくが住み込みで働いていた新聞販売店の隣にラーメン屋さんがあった。食べたことのないさまざまなメニュー。お金がなかったが、ぼくは思い切ってラーメンと「さめこ」を頼んだ。「さめこを一つ下さい」。ラーメン屋のお姉さんは不思議そうにぼくを見た。田舎者だから発音が悪く、聞き取れなかったのだろう。そう思って、なまりに気をつかいながら、もっと大きな声で「さめこを一つ」と注文した。

その後のことは、もう書きたくない。ぼくは「餃子」を「さめこ」と読んでいたのだ。「鮫子」。「餃子」などという字は当時の田舎にはなかった。

こんなことはまだまだたくさんあったけど、ぼくは少しずつ田舎とは異なった世界になじんでいった。

若かったねぇ。かわいいよなぁ、あの頃のオレ。今ではいい思い出さ。

なぁ、若鶏たちよ。これから、君たちの暮らしの場は、鶏舎の外にも広がっていく。そこには、お日様やさわやかな風とともに、たくさんの「やまかけ」話や「鮫子」話がまっているだろう。とまどうだろうなぁ。でも、世界が広がっていくって、なかなかいいもんだよ。




           
三人の男子農業高校生が我が家に三日間の研修に来た。なんでも、インターンシップといって職業体験の一環なのだという。今年で四年目だ。

「すみません。トイレかしてください。」息子と一緒にニワトリの仕事をしていたはずの生徒たちがかわるがわる母屋に駆け込んできた。「ああいいよ。」またしばらくしたら「すみませーん!」そして「ああいいよ。」

これが一日の中で何度も繰り返される。始めは腹の調子でも悪いのかと思ったが、やがておしっこだとわかった。おしっこをしに?わざわざ?どうして便所まで来るんだい?
鶏舎の前には800ヘクタールの広大な水田が広がっている。そこでやればいいではないか。ぼくなんかしょっちゅうだ。

水田を渡るさわやかな緑の風を感じながら、あるいは朝日連峰の山並みに暮れ行く夕日をながめながら、はたまた青空に流れる白い雲を見つめながら・・・。きっもちいいぞぉー。生きているなぁって思うさ。

「あのぉ、まわりの人から変な目で見られそうで・・。」と生徒は答えた。

そうか。だけど田畑でのおしっこは誰にも迷惑をかけてないぞ。都会のアスファルトの上とは違う。環境にだって全く負担をかけていない。小便は土に溶け込み、作物や草の肥やしになるんだ。タヌキやイタチのそれと同じだよ。大地との循環だ。見た目は確かに良くないかもしれないけど、それだって慣れてくればかわいいものさ。

君達には信じられないことかもしれないけれど、ちょっと前まではね、女性も立ち小便をしていたんだ。小便しながら道行く人々と立ち話すらしていたぞ。その頃、ぼくは子どもだったけど、何の違和感もなかった。ぼくは当時のそのおおらかさがむしょうに懐かしい。

なぁ、農業高校生よ。土とともに、土を友達として生きようとする俺達だ。生き物としての人間と、母なる大地と、おしっこと・・。この関係をのびやかにとらえ直してみようよ。そこには単におしっこだけにとどまらない、生き方や農法にもかかわる大きな哲学が横たわっているかも知れないぞ。







だからどうしたのと言われそうな話だけど、まぁいいじゃないですか。とてもうれしいひとときだったのだから。というのはさ・・・。

友人の大工さんに頼んで鶏舎を一棟建ててもらったのが始まりだ。その大工さんと、出来上がった鶏舎を眺めているうちに「落成を祝う会」をやろうということになった。友達と一緒になごやかな時間を過ごすのが大好きな僕は、さっそく知人、友人に呼びかけた。

「来たる12日、我が家の鶏舎の前にて、ささやかな野外酒宴をもちます。会費は千円ですが、一品持ち寄りできる方、またはお酒を持参される方はお金はいりません。なんでもいいんです。その辺の雑草をさっと茹でたものとか・・・うふふ。なんでもいいんですよ。我が家で準備できるものは私が握ったおにぎりと、おなじく私が焼いたたまご焼き、それに少しの飲み物ぐらいですけど。だから・・・本当にお気楽においでください。」

 急な思いつきの、急な案内にもかかわらず大勢の人達がさまざまな料理をもって集まって来てくれた。

 ポトフ、ダンゴ、豚ヒレのワイン蒸し、アジのから揚げ、根わさびとお刺身、ふきの煮物、ワラビの醤油煮、豚肉のチャーシュー、山菜のおひたし、竹の子の煮物・・・鶏舎の前の木の下にシートが敷かれ、たくさんのご馳走が並べられた。それらをいただきながら、小さなパーティが始まった。
料理がおいしい。ぼくのつくった玉子焼きとおにぎりも好評だ。テーブルをかこんで、始めて会った人どうしが談笑している。

澄んだ青空に白い雲。緑いっぱいの木々の下、木洩れ日がそそぎ、さわやかな風が頬をなでる。コッコッコッコッというニワトリたちの穏やかな声を聞きながら、すてきな時間が流れていく。

「孫にね、ニワトリを見せたくてつれてきました。」
「私はここのところ、他人と会いたくなかったのです。でも、来てよかった。」
「息子がね。学校をやめて農業したいというんです。ニワトリを飼ってみたいって。」
「なんかねぇ、去年まで全部の田んぼを無農薬でやってきて、草とりが本当に大変なんだよね。もう年だし、今年はそこまで無理するのはやめようかと話し合っているんですよ。」

 みんなが素直に自分を語っている。農民も郵便局員も、大工さんも、主婦も、お坊さんも、学校の先生も、パートの勤め人も・・・。いま、ここに居ることが本当にしあわせだと思えるようなひととき、やわらかな空気。

だからどうしたのと聞かれると困るんだ。ただそれだけなのだから。 
でもね、それがとってもあったかくてさ、ありがたくてよ。なんか生きててよかったなぁって思えるんだ。

それだけのことなんだけどね・・。



また鳥インフルエンザが発生した。茨城県水海道市の養鶏業者で、2万5千羽を処分しなければならないという。さぞ辛いだろう。何よりも処分されていくニワトリ達がかわいそうだ。
「インフルエンザのニワトリにBSEにかかった牛、それに去年はコイヘルペスの鯉もいた。それらを人間はちゃんと食べて上げるべきだとおもうよ。『フライド<インフルエンザ>チキン』や『BSEどんぶり』、あるいは『ヘルペス鯉のうま煮』とかにしてさ。」という電話をよこしたのは東京に住む友人だ。彼女は怒っていた。

「生産効率だか何だかしらないよ。でもね、動物や魚達を狭いところにゴチャゴチャと押し込み、いろんなものを食わせ、本来もてたはずの病気への抵抗力を奪っておいて、その上食いもしないで殺しちゃうなら、生まれてきた意味がないよ。わたしがニワトリや牛や鯉なら化けてでるね、きっと。食べるべきだと思うよ。食べてその罪を自らが引き受けるべきだよ。」
友人の化けた姿を想像して思わず笑ってしまったが、話していることはしごくまともなことだ。

人は食べ物がなければ生きていけない。人間の世の中がこれから先も続いていくことができるとすれば、それは食べ物の生産のあり方に無理がなく、いつまでも続けていくことができるという条件があってのことだ。それがなければ、当然のことながら人の世も続かない。鳥インフルエンザやBSEとして現れていることは、まさに人の世と食べ物生産の持続性にかかわることだ。問題は両者の健康な関係をどう築きなおすのかということ。大いに議論すべきはそこのことなのに、BSEのことでは「吉野屋の牛丼」の話ばっかりだったし、今度のことだって茨城の養鶏場の人たちが不運だったなんて話しで終わりかねない。これでは殺された数万、数十万の魚や動物達は浮かばれないだろう。

茨城の発生をうけて、業界ではまたぞろ鶏舎に野鳥が入らないようにと、外界とニワトリ達をしっかりと遮断するよう呼びかけている。一層自然界から隔離しようというわけだ。
“彼らを工場生産のラインの上に乗せるのを止めよう、ケージの中に入れるのは止めよう。動物にいきいきと過ごせる環境を。それがわれわれの健康な暮らしの前提なのだから・・”とはならない。そうである以上、これから先も同じようなことが繰り返し、繰り返し起こるに違いない。

でもさ、他は知らないけど、少なくとも日本人は大丈夫だね。どんなに悪いことでもきっと忘れることができるから。その証拠に「コイヘルペス」のことなどはすっかり忘れてしまっているものな。現状は何ひとつ改善されておらず、むしろ悪くなってさえいるのに、対策を考えることなく、みんな忘れていく。まぁ、ぼく達のこのすばらしい能力に乾杯だね。


 

山菜がおいしい季節だ。

鶏舎の周辺で仕事をしていたら、幼馴染の正雄さんがやってきた。山に行って山菜をとってきたから食べに来いという。彼は山菜とりの名人だ。雪どけを待ちかねたように山に分け入り、山菜をさがす。僕もときどき彼の家に押しかけてはそのおすそ分けにあずかってきたのだが、今回はわざわざ呼びに来てくれた。これは期待できるぞ。さっそく仕事をたたんで彼の家に向かった。

やっぱりね。テーブルいっぱいにワラビ、ミズなどの定番に、アイコウ、シオデ、シドケ、それにまだ見たこともない山菜の数々が並んでいる。
「これは何だか知っているか?」「今度はこっちを食べてみろよ。」
すすめられるままに口に運ぶ。いいねぇこの香り、この微妙な味わい。野菜とは違う独特の風味が口の中いっぱいに広がっていく。まだ日が高いけど、山菜と焼酎を交互に口に運んでいるうちに、酔いがまわってきた。なんというか・・・今日はいい日だよ。

 ところで・・と、正雄さんが話しだした。
「この山菜が食べられるということが分かるまで、つまり他の多くのものは食べられないということが分かるまで、いったいどのぐらいの人が犠牲になったんだろうか?」
 すごい話になってきた。想像がつかないけれど、ある草を食べてお腹が痛くなったり、ゲリで苦しんだりという体験は嫌になるぐらい繰り返してきたはずだ。亡くなった人もいただろう。もちろん、二度と同じ苦しみをしないように、親から子に、あるいは周囲の人たちに一生懸命伝えようともしてきたに違いない。でも、それらの情報が伝わる領域には当然かぎりがあり、幾度も同じような悲惨な体験をあっちの村で、こっちの集落でと繰り返しながら、少しずつ選びとる知識を積み重ねてきたということか。

それは食べ方にも言えて、たとえばワラビをそのまま食おうとしても、とても苦くて食えたものじゃないけれど、やがて今に伝わっているように、灰をいれて湯がけばおいしくなるという食べ方を発見するに至る。苦いからといって捨てなかった。あきらめなかった。あきらめずに何とか食べられる方法を見つけようとしてきた。
全ての植物は、人間が食べられるものと食べられないものとに分けることができるが、食べられるものとして分類されてきた植物の一つひとつのなかに、飢えと背中あわせにものを食べてきた人びとの、命がけの体験が宿っているということなのだろう。

なぁ、正雄さんよ。なんだかこの目の前の山菜がいとおしくなってきたよ。変かもしれないけど・・食べながら・・涙が・・。
もうすっかり酔っぱらっちまった・・・。





 田植えの最中だ。田んぼの周りにはオオイヌノフグリ、忘れな草、我が家の周辺にはつつじ、すもも、かりんなどの様々な草木が花を咲かせていて、疲れた身体を慰めてくれる。

 久しぶりに花に誘われて、さくらんぼの木の下でポーズをとってみた。のどかなひととき。でもひとたび苗代に目をやれば、僕ののびやかな心がかき乱される。

 原因はスズメ。育ててきた稲の苗を突っついては、次々とダメにしてしまうのだ。その被害が少しだけならばかわいいスズメ達のこと、大目にも見るのだが、全体の一割にも及ぶとなると限度を超える。

「モミをねらっているのだよ。芽が伸びて葉が茂ってしまえば来なくなるさ。」
被害の出始めの頃、近所の人達はそう言って慰めてくれた。ぼくもいままでの経験からいってその見方に間違いあるまいと思っていたのだが、甘かった。葉が茂り、苗となって田んぼに植えることができるようになっても被害が続いた。

大きな声を出したり、ほうきを振っておどかしたり・・・。そのときは追い払うことができてもすぐにまたやってくる。きらきら光る「防鳥テープ」を張り巡らしてみた。苗代全体に釣り糸を張ればいいと聞いて、それもやってみた。でも全くといっていいほど効果はなかった。大切な苗代はさながらスズメ達の日常的な食卓か、いい遊び場となってしまった。にぎわいながら木々と苗代の間を往復している。

そんなスズメ達をこの冬のあいだ中、ずーっと僕が援助していたのだから情けない。

僕は雪におおわれた冬の間、さぞひもじかろうと、鶏舎に入ってニワトリ達のエサをついばんでいるスズメたちを、追い払わずに見逃してきた。彼らがえさを作る作業小屋にも入ってきて原料を食べている時だって、僕はそれを追い出したりはしなかった。そのことでスズメたちはずいぶんと助けられたに違いない。元気に冬を越せたはずだ。なのにというべきか、その結果というべきか、いま彼らは活発に僕を困らせている。そう思うと複雑な気分だ。

「いいか、よく聞けよ。『舌きりスズメ』の話しを知っているか。お前達の祖先は決して恩をアダで返したりはしなかったぞ。立派な祖先を持ちながら、どうしてお前達は僕を困らすのだ。」

しかし、よく考えてみれば、スズメ達は、自分達が生きるために目の前の食べ物に手を出しているだけだ。ただそれだけのことだ。それを「恩」だ「アダ」だと言わずに、僕は僕で生物の一員として、自分達の食べ物を守るために、スズメ達を追い散らかすだけでなく、場合によってはやっつけてしまえばよかったのだ。切羽詰っていたら必ずそうしただろう。そうしなかったのは、決して優しさからという類のものではなく、「食」に対する切迫感という点で、それほど深刻ではなかったからだ。

「食」の前ではスズメ達より僕の方が甘かった。
冬の鶏舎でも苗代でも、スズメ達の気迫勝ち。
そういうことだよ、よしひでくん。