ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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「赤く肌がでていて、羽がないトリがいるけど、どうしたんですか?病気ですか?」
指差す方向を見ると、そこには鳥肌むきだしのオンドリがいた。
「あれはね。病気じゃないんですよ。どういったらいいのかな・・。メンドリに求愛されてね・・。」
そうなんです。ぼくの見るところ、もてもての結果なんですね。でもそれがオスドリにはつらい。
さて、もともとオンドリは、メンドリと比べて身体が一回り大きく、羽も輝いていて、見るからに立派だ。トキの声を上げながらまわりを睥睨(へいげい)する勇壮な姿は、ニワトリたちとの長い付き合いがあるこのぼくでさえ惚れ惚れするほどだ。それがどうして・・・。

その辺の話をする前に、たくさんのメンドリのなかのオンドリの環境について説明しなければなるまい。この話を品よくまとめるのはとても難しい。下品になったとしても、それがニワトリ達の現実の世界なのであって、書き手のせいではないことをあらかじめお断りする。

そのオンドリ。ヒヨコのうちは色の違いがあるぐらいでかわいいかぎりだが、それがやがてたくましく成長し、トキの声をあげる頃になると、盛んにメンドリを追いまわすようになる。交尾を迫るためだ。その性欲の旺盛さには驚かされる。ぼくの知る限り、季節に関係なく交尾を行うことができるのは、ニワトリと人間だけだが、我々のとてもかなうところではない。計ったわけではないが、10分に一回ぐらいの割合でメンドリに挑んでいくのだから。

ぼくの鶏舎にはオンドリ一羽に対してメンドリが40から80羽ぐらいの割合でいる。その彼女たちを次から次と追いかけまわす。
メンドリたちは当初、そんなオンドリについて行けず、逃げ惑う。それを追いかけるオンドリ。
その求愛は相手かまわず、所かまわず、リアルで、露骨で、性急で・・・。

このような光景がしばらく続くのだが、それがやがて月日が経つと、彼女たちは逃げずに自分の方から積極的にオンドリのそばにやってくるようになるのだからおもしろい。一羽の上に乗っかって交尾しているそのすぐそばにやってきて、次は私に・・・という体勢をつくるのだ。

そして更に時は経ち、人間で言えば「中年」となったとき、主客は逆転する。自分たちの要望に応えることができなくなったオンドリに向かって、ツン、ツンと軽く突っつくようになる。それを避けようとするが、そこにまた別のメンドリがやってきてはツン、ツンと。

「しっかりしてよ。逃げないでこっちを向いて!」言葉にすればこんな感じなのだろうか。

オンドリ一羽にメンドリが大勢。かつて、彼にとっての歓迎すべき環境は、まったく違ったものとなって、オンドリに向かってくる。その結果、羽が一枚、また一枚と落ちていくというわけだ。

さて、これで羽を失い、貧相になってしまったオンドリの話は終わりだけれど、ここから私たちは何を学ぶべきだろうか。

ぼくにはとっても難し過ぎて分からない。







4月生まれの若鶏を始めて鶏舎の外に出すことにした。あまり早くに出しすぎるとカラスの標的になる。生後3・5ヶ月。もう大丈夫だろう。

 さぁ、外に出てこいよ!明るい陽射しのもと、草や虫たちがお前達を待っているぞ。戸を思い切り開け放つ。先輩の鶏たちなら、待ってましたとばかりに一気に出てしまうのだが、そこは初めてのこと。若鶏たちはなかなか出ない。外への一歩一歩がドキドキものなのだろう。

 「分かる、分かるぞ。俺もそうだったよ。」新しい世界にとまどうニワトリ達を見ていたら、ふるさとを離れ、東京に出て行った18歳のころのことを思い出した。
 東京とはどんなものか、テレビや話で知ってはいた。でも、それはニワトリたちが、鶏舎の中から金網越しに外の世界を眺めていたのとあまり変わりはなかったと思う。そこは田舎出の青年にとって、理解しがたいことの多い世界だった。

ぼくの忘れもしないカルチャーショックの第一は、団地に住む知人の住宅だった。なんと、お風呂と便所が一緒になっているではないか。こんな組み合わせって有りか?ここは東京。山形の我が家は別々だけどそれはきっと「遅れている」からに違いない。そう思った。想像を超えた世界だった。

第二のショックは食堂でのこと。いくつかのおかずが見本となって並んでいた。その中の一つに目がいった。小鉢の中にお刺身が入っていて、その上にとろろがかかっている。当時我が家には冷蔵庫というものがなかったから、お刺身などという生の魚は食べたことがない。うまそう。食べてみたい。お金はなんぼ?食堂の中にべたべたと貼られている品書きの短冊をみた。名前が見当たらない。きっとお刺身は「とろ」というものに違いない。とろととろろで「とろとろろ」か。あたりを付けて見渡すが、やっぱりない。結局食べずに帰った。
ようやく後でその名は「やまかけ」という、全く実態からかけ離れた名をもつおかずであることを知った。そんなの分かるわけがないよ。

 同じようなことがもう一つあった。ぼくが住み込みで働いていた新聞販売店の隣にラーメン屋さんがあった。食べたことのないさまざまなメニュー。お金がなかったが、ぼくは思い切ってラーメンと「さめこ」を頼んだ。「さめこを一つ下さい」。ラーメン屋のお姉さんは不思議そうにぼくを見た。田舎者だから発音が悪く、聞き取れなかったのだろう。そう思って、なまりに気をつかいながら、もっと大きな声で「さめこを一つ」と注文した。

その後のことは、もう書きたくない。ぼくは「餃子」を「さめこ」と読んでいたのだ。「鮫子」。「餃子」などという字は当時の田舎にはなかった。

こんなことはまだまだたくさんあったけど、ぼくは少しずつ田舎とは異なった世界になじんでいった。

若かったねぇ。かわいいよなぁ、あの頃のオレ。今ではいい思い出さ。

なぁ、若鶏たちよ。これから、君たちの暮らしの場は、鶏舎の外にも広がっていく。そこには、お日様やさわやかな風とともに、たくさんの「やまかけ」話や「鮫子」話がまっているだろう。とまどうだろうなぁ。でも、世界が広がっていくって、なかなかいいもんだよ。








           
三人の男子農業高校生が我が家に三日間の研修に来た。なんでも、インターンシップといって職業体験の一環なのだという。今年で四年目だ。

「すみません。トイレかしてください。」息子と一緒にニワトリの仕事をしていたはずの生徒たちがかわるがわる母屋に駆け込んできた。「ああいいよ。」またしばらくしたら「すみませーん!」そして「ああいいよ。」

これが一日の中で何度も繰り返される。始めは腹の調子でも悪いのかと思ったが、やがておしっこだとわかった。おしっこをしに?わざわざ?どうして便所まで来るんだい?
鶏舎の前には800ヘクタールの広大な水田が広がっている。そこでやればいいではないか。ぼくなんかしょっちゅうだ。

水田を渡るさわやかな緑の風を感じながら、あるいは朝日連峰の山並みに暮れ行く夕日をながめながら、はたまた青空に流れる白い雲を見つめながら・・・。きっもちいいぞぉー。生きているなぁって思うさ。

「あのぉ、まわりの人から変な目で見られそうで・・。」と生徒は答えた。

そうか。だけど田畑でのおしっこは誰にも迷惑をかけてないぞ。都会のアスファルトの上とは違う。環境にだって全く負担をかけていない。小便は土に溶け込み、作物や草の肥やしになるんだ。タヌキやイタチのそれと同じだよ。大地との循環だ。見た目は確かに良くないかもしれないけど、それだって慣れてくればかわいいものさ。

君達には信じられないことかもしれないけれど、ちょっと前まではね、女性も立ち小便をしていたんだ。小便しながら道行く人々と立ち話すらしていたぞ。その頃、ぼくは子どもだったけど、何の違和感もなかった。ぼくは当時のそのおおらかさがむしょうに懐かしい。

なぁ、農業高校生よ。土とともに、土を友達として生きようとする俺達だ。生き物としての人間と、母なる大地と、おしっこと・・。この関係をのびやかにとらえ直してみようよ。そこには単におしっこだけにとどまらない、生き方や農法にもかかわる大きな哲学が横たわっているかも知れないぞ。











だからどうしたのと言われそうな話だけど、まぁいいじゃないですか。とてもうれしいひとときだったのだから。というのはさ・・・。

友人の大工さんに頼んで鶏舎を一棟建ててもらったのが始まりだ。その大工さんと、出来上がった鶏舎を眺めているうちに「落成を祝う会」をやろうということになった。友達と一緒になごやかな時間を過ごすのが大好きな僕は、さっそく知人、友人に呼びかけた。

「来たる12日、我が家の鶏舎の前にて、ささやかな野外酒宴をもちます。会費は千円ですが、一品持ち寄りできる方、またはお酒を持参される方はお金はいりません。なんでもいいんです。その辺の雑草をさっと茹でたものとか・・・うふふ。なんでもいいんですよ。我が家で準備できるものは私が握ったおにぎりと、おなじく私が焼いたたまご焼き、それに少しの飲み物ぐらいですけど。だから・・・本当にお気楽においでください。」

 急な思いつきの、急な案内にもかかわらず大勢の人達がさまざまな料理をもって集まって来てくれた。

 ポトフ、ダンゴ、豚ヒレのワイン蒸し、アジのから揚げ、根わさびとお刺身、ふきの煮物、ワラビの醤油煮、豚肉のチャーシュー、山菜のおひたし、竹の子の煮物・・・鶏舎の前の木の下にシートが敷かれ、たくさんのご馳走が並べられた。それらをいただきながら、小さなパーティが始まった。
料理がおいしい。ぼくのつくった玉子焼きとおにぎりも好評だ。テーブルをかこんで、始めて会った人どうしが談笑している。

澄んだ青空に白い雲。緑いっぱいの木々の下、木洩れ日がそそぎ、さわやかな風が頬をなでる。コッコッコッコッというニワトリたちの穏やかな声を聞きながら、すてきな時間が流れていく。

「孫にね、ニワトリを見せたくてつれてきました。」
「私はここのところ、他人と会いたくなかったのです。でも、来てよかった。」
「息子がね。学校をやめて農業したいというんです。ニワトリを飼ってみたいって。」
「なんかねぇ、去年まで全部の田んぼを無農薬でやってきて、草とりが本当に大変なんだよね。もう年だし、今年はそこまで無理するのはやめようかと話し合っているんですよ。」

 みんなが素直に自分を語っている。農民も郵便局員も、大工さんも、主婦も、お坊さんも、学校の先生も、パートの勤め人も・・・。いま、ここに居ることが本当にしあわせだと思えるようなひととき、やわらかな空気。

だからどうしたのと聞かれると困るんだ。ただそれだけなのだから。 
でもね、それがとってもあったかくてさ、ありがたくてよ。なんか生きててよかったなぁって思えるんだ。

それだけのことなんだけどね・・。







また鳥インフルエンザが発生した。茨城県水海道市の養鶏業者で、2万5千羽を処分しなければならないという。さぞ辛いだろう。何よりも処分されていくニワトリ達がかわいそうだ。
「インフルエンザのニワトリにBSEにかかった牛、それに去年はコイヘルペスの鯉もいた。それらを人間はちゃんと食べて上げるべきだとおもうよ。『フライド<インフルエンザ>チキン』や『BSEどんぶり』、あるいは『ヘルペス鯉のうま煮』とかにしてさ。」という電話をよこしたのは東京に住む友人だ。彼女は怒っていた。

「生産効率だか何だかしらないよ。でもね、動物や魚達を狭いところにゴチャゴチャと押し込み、いろんなものを食わせ、本来もてたはずの病気への抵抗力を奪っておいて、その上食いもしないで殺しちゃうなら、生まれてきた意味がないよ。わたしがニワトリや牛や鯉なら化けてでるね、きっと。食べるべきだと思うよ。食べてその罪を自らが引き受けるべきだよ。」
友人の化けた姿を想像して思わず笑ってしまったが、話していることはしごくまともなことだ。

人は食べ物がなければ生きていけない。人間の世の中がこれから先も続いていくことができるとすれば、それは食べ物の生産のあり方に無理がなく、いつまでも続けていくことができるという条件があってのことだ。それがなければ、当然のことながら人の世も続かない。鳥インフルエンザやBSEとして現れていることは、まさに人の世と食べ物生産の持続性にかかわることだ。問題は両者の健康な関係をどう築きなおすのかということ。大いに議論すべきはそこのことなのに、BSEのことでは「吉野屋の牛丼」の話ばっかりだったし、今度のことだって茨城の養鶏場の人たちが不運だったなんて話しで終わりかねない。これでは殺された数万、数十万の魚や動物達は浮かばれないだろう。

茨城の発生をうけて、業界ではまたぞろ鶏舎に野鳥が入らないようにと、外界とニワトリ達をしっかりと遮断するよう呼びかけている。一層自然界から隔離しようというわけだ。
“彼らを工場生産のラインの上に乗せるのを止めよう、ケージの中に入れるのは止めよう。動物にいきいきと過ごせる環境を。それがわれわれの健康な暮らしの前提なのだから・・”とはならない。そうである以上、これから先も同じようなことが繰り返し、繰り返し起こるに違いない。

でもさ、他は知らないけど、少なくとも日本人は大丈夫だね。どんなに悪いことでもきっと忘れることができるから。その証拠に「コイヘルペス」のことなどはすっかり忘れてしまっているものな。現状は何ひとつ改善されておらず、むしろ悪くなってさえいるのに、対策を考えることなく、みんな忘れていく。まぁ、ぼく達のこのすばらしい能力に乾杯だね。






 

山菜がおいしい季節だ。

鶏舎の周辺で仕事をしていたら、幼馴染の正雄さんがやってきた。山に行って山菜をとってきたから食べに来いという。彼は山菜とりの名人だ。雪どけを待ちかねたように山に分け入り、山菜をさがす。僕もときどき彼の家に押しかけてはそのおすそ分けにあずかってきたのだが、今回はわざわざ呼びに来てくれた。これは期待できるぞ。さっそく仕事をたたんで彼の家に向かった。

やっぱりね。テーブルいっぱいにワラビ、ミズなどの定番に、アイコウ、シオデ、シドケ、それにまだ見たこともない山菜の数々が並んでいる。
「これは何だか知っているか?」「今度はこっちを食べてみろよ。」
すすめられるままに口に運ぶ。いいねぇこの香り、この微妙な味わい。野菜とは違う独特の風味が口の中いっぱいに広がっていく。まだ日が高いけど、山菜と焼酎を交互に口に運んでいるうちに、酔いがまわってきた。なんというか・・・今日はいい日だよ。

 ところで・・と、正雄さんが話しだした。
「この山菜が食べられるということが分かるまで、つまり他の多くのものは食べられないということが分かるまで、いったいどのぐらいの人が犠牲になったんだろうか?」
 すごい話になってきた。想像がつかないけれど、ある草を食べてお腹が痛くなったり、ゲリで苦しんだりという体験は嫌になるぐらい繰り返してきたはずだ。亡くなった人もいただろう。もちろん、二度と同じ苦しみをしないように、親から子に、あるいは周囲の人たちに一生懸命伝えようともしてきたに違いない。でも、それらの情報が伝わる領域には当然かぎりがあり、幾度も同じような悲惨な体験をあっちの村で、こっちの集落でと繰り返しながら、少しずつ選びとる知識を積み重ねてきたということか。

それは食べ方にも言えて、たとえばワラビをそのまま食おうとしても、とても苦くて食えたものじゃないけれど、やがて今に伝わっているように、灰をいれて湯がけばおいしくなるという食べ方を発見するに至る。苦いからといって捨てなかった。あきらめなかった。あきらめずに何とか食べられる方法を見つけようとしてきた。
全ての植物は、人間が食べられるものと食べられないものとに分けることができるが、食べられるものとして分類されてきた植物の一つひとつのなかに、飢えと背中あわせにものを食べてきた人びとの、命がけの体験が宿っているということなのだろう。

なぁ、正雄さんよ。なんだかこの目の前の山菜がいとおしくなってきたよ。変かもしれないけど・・食べながら・・涙が・・。
もうすっかり酔っぱらっちまった・・・。









 田植えの最中だ。田んぼの周りにはオオイヌノフグリ、忘れな草、我が家の周辺にはつつじ、すもも、かりんなどの様々な草木が花を咲かせていて、疲れた身体を慰めてくれる。

 久しぶりに花に誘われて、さくらんぼの木の下でポーズをとってみた。のどかなひととき。でもひとたび苗代に目をやれば、僕ののびやかな心がかき乱される。

 原因はスズメ。育ててきた稲の苗を突っついては、次々とダメにしてしまうのだ。その被害が少しだけならばかわいいスズメ達のこと、大目にも見るのだが、全体の一割にも及ぶとなると限度を超える。

「モミをねらっているのだよ。芽が伸びて葉が茂ってしまえば来なくなるさ。」
被害の出始めの頃、近所の人達はそう言って慰めてくれた。ぼくもいままでの経験からいってその見方に間違いあるまいと思っていたのだが、甘かった。葉が茂り、苗となって田んぼに植えることができるようになっても被害が続いた。

大きな声を出したり、ほうきを振っておどかしたり・・・。そのときは追い払うことができてもすぐにまたやってくる。きらきら光る「防鳥テープ」を張り巡らしてみた。苗代全体に釣り糸を張ればいいと聞いて、それもやってみた。でも全くといっていいほど効果はなかった。大切な苗代はさながらスズメ達の日常的な食卓か、いい遊び場となってしまった。にぎわいながら木々と苗代の間を往復している。

そんなスズメ達をこの冬のあいだ中、ずーっと僕が援助していたのだから情けない。

僕は雪におおわれた冬の間、さぞひもじかろうと、鶏舎に入ってニワトリ達のエサをついばんでいるスズメたちを、追い払わずに見逃してきた。彼らがえさを作る作業小屋にも入ってきて原料を食べている時だって、僕はそれを追い出したりはしなかった。そのことでスズメたちはずいぶんと助けられたに違いない。元気に冬を越せたはずだ。なのにというべきか、その結果というべきか、いま彼らは活発に僕を困らせている。そう思うと複雑な気分だ。

「いいか、よく聞けよ。『舌きりスズメ』の話しを知っているか。お前達の祖先は決して恩をアダで返したりはしなかったぞ。立派な祖先を持ちながら、どうしてお前達は僕を困らすのだ。」

しかし、よく考えてみれば、スズメ達は、自分達が生きるために目の前の食べ物に手を出しているだけだ。ただそれだけのことだ。それを「恩」だ「アダ」だと言わずに、僕は僕で生物の一員として、自分達の食べ物を守るために、スズメ達を追い散らかすだけでなく、場合によってはやっつけてしまえばよかったのだ。切羽詰っていたら必ずそうしただろう。そうしなかったのは、決して優しさからという類のものではなく、「食」に対する切迫感という点で、それほど深刻ではなかったからだ。

「食」の前ではスズメ達より僕の方が甘かった。
冬の鶏舎でも苗代でも、スズメ達の気迫勝ち。
そういうことだよ、よしひでくん。








 僕は約200軒の方々に週二回、曜日を決めて玉子を配達している。

「ねぇねぇ、おかぁさん。いまとっても気持ちのいい風が通り過ぎて行ったよ?」「そうね、今のは春風よ。」「ふーん、さわやかだね。」
「おかぁさん、今のも春風?」「なにいっているの。いまのは菅野さんが玉子を持って通り過ぎていっただけじゃないの。」「ふーん、でも気持ちいいね」・・・

バカだと思うでしょう?確かにそうかもしれない。こんなことを楽しく空想しながら家から家に、玄関から玄関へと玉子をもって走り回っていたのだから。20年前。まぁ、若いときというのは往々にしてそんなもんだ。

さて作物には育てた者の世界観が反映する。すこし気取った言い方をすれば、玉子は玉子であるだけでなく、玉子というかたちを借りた僕自身の世界観でもある。
この玉子をただ市場に出荷するだけで終わりなら、つくり手の苦労や感動は何ひとつ食べる側には伝わらない。いったん市場のフィルターにかけられ、スーパーの店頭に並んでしまえば、個性の失われたただの卵だ。玉子ではない。

ニワトリ達をどんな風に育てたのか。そしてどんな玉子ができたのか。ニワトリと僕とのあれやこれやの物語をささやかなメッセージとともに伝えたい。更に言えば、農民と消費者というだけでなく、同じ時代に生きる者同士、あるいは同じ地域社会の中の生活者と生活者という共感のなかで、食べ物としての玉子を渡したい、そう思っての宅配だった。

 玉子と一緒に「通信」を配る。一、二ヶ月に一度集金に伺う。そんな中でのやり取りが僕の養鶏のエネルギー源となってきた。

 食べ物をめぐる、最も豊かな関係といえる「地産地消」。これを実現していこうとする農業を称して「地域社会農業」というらしい。
 今までの地域農業は、地域社会を相手にせず、すべて東京、大阪などの大都会とつながろうとしてきた結果、足元がおろそかにされ、地元にはいつしか外国産の農作物が並んでいた。

 「地域社会農業」とは生活者の観点に立って、いま住んでいるところを天国にしていこうとする農業であろう。その意味では、私の養鶏は地域社会農業のささやかな実践といえるのかもしれない。

「ねぇねぇおかぁさん。あの腰を曲げて鼻を垂らしながら玉子を持ってふらふら歩いているおじいさんはだぁれ?」「うん、あの人は菅野さんといってね・・・」。
20年後はこんな感じかな。






 


東京からは桜が散ったという便りが届いているのに、こちらはまだ桜どころか梅の花も咲いてない。でもようやく鶏舎の周辺から雪が消えた。

 ニワトリ達は久方ぶりに鶏舎の外に出た。あいにくの小雨模様。それでもほとんどが外で遊ぶ。土の上はほぼ4ヶ月ぶりだろうか。一気に駆け出すもの、飛ぶもの、土をついばむものなど様々だけど、みんながうれしそう。雪に閉じ込められて、ずーっと鶏舎のなかだったのだから無理もない。退屈でもあったろう。さぁ春だ。思いっきり遊べ!なんだか見ている僕の方もウキウキしてくる。

だけど一方で、ゲージの中で飼われている大部分のニワトリ達にとっては、あいかわらず冬も春もない切ない毎日が続いている。さぞや「むなしい人生だ」と力を落としているに違いない。苦しいだろうなぁ、つらいだろうなぁと思っていたら、とても興味深いニュースが飛び込んできた。
ドイツでは2007年1月1日をもって、採卵鶏をゲージで飼うことが法律で禁止されるという。これによってニワトリ達は自然な方法でエサや水をとり、砂浴びができるようになるということだ。EU全体でも2012年から実施するという。これはすごい。とてもいいニュースだ。

ヨーロッパでは以前から「動物福祉」という考え方を育ててきていて、ニワトリだけでなく、牛や豚など家畜全般に対して、なるべく苦痛を与えない環境で飼おうとしてきた。
やっぱり、かの地の人々にはかなわないなぁ。家畜に思いやる気持ちが国を動かすほどの世論になっているということかぁ。

他方、日本ではどうかといえば、ニワトリ達のまわりに、そんな風は少しも吹いていない。比較的敏感な生協などでさえ、たまごの安全性にはこだわっていても、ニワトリ達をゲージから解放しようという取り組みまでは聞いたことがない。

どうしてだろうか。何故、日本ではこのような世論がそよとも起こらないのだろうか?日本人は冷たい民族なのかい?いやいや、僕は決してそうは思わない。
原因は、ただやたらに忙しいからだと思う。たとえば都会で働く多くのサラリーマンにとっては、隣人にさえ、ある場合は自分の家族に対してだって思いを寄せる余裕がないほどの毎日だと聞く。とても家畜にまでは及ばないということだろうか。

家畜たちをゲージ飼いの世界に追い込んでいるものは「経済効率」というモノサシだが、そこから、彼等を自由にしようとしたら、まず我々自身が自由にならなければならないということだろうか。
うわっ、根が深いぞ、これは。困った。どうしましょうか?






 吹雪の中、鶏舎に入っていくと、スズメとニワトリがエサを分け合っていた。いいぞぉ、生き物同士だ。困っているときはこれでなければいけないな、ウン。見ている僕の中にも、ほのぼのとした思いがうまれてくる。

 ひよこ屋さんがやってきたのは去年の春ごろだったかな。彼は外で遊んでいたニワトリ達をみながら「ずいぶんとのどかな風景だねぇ。ところで伝染病対策はどうしている?」と聞いてきた。ゲージ養鶏のようにかごに入れ、宙に浮かしているのと違って、同じ地面をたくさんのニワトリ達が踏む。伝染病が広がりやすいのではないかというわけだ。

 「このように遊ばせておくこと自体が対策かな。あとはきれいな水と新鮮な空気、それにいい食べ物だね。自然養鶏を始めてから20年になるけど、伝染病はただの一度も経験していないよ。」と答えたが、彼はとても考えられないことだとしきりに首をひねっていた。でも事実なのだから仕方がない。

 そのひよこ屋さんがスズメとニワトリが一緒にいる目の前の光景を見れば、きっとまた「伝染病の・・・」といいだすだろう。昨年の「鳥インフルエンザ」以来、指導機関も防鳥ネットだ、窓なし鶏舎だと野鳥に対する警戒を呼びかけ、補助金を出してニワトリ達をいっそう自然から切り離し、隔離する方向へ誘導しようとしている。

 「だけどね、ひよこ屋さん・・・」とやっぱりいいたいよな。人工的に隔離されたニワトリ達がいともたやすく死んでいくのは病気への抵抗力が弱いからだと思うよ。これを更に隔離する方向に進めたのではもっとひ弱なニワトリができてしまうだけだ。悪循環だし、そもそもそんな卵はおいしくないよ。

 求められていることは自然の遮断ではなく、できるだけ自然のなかで、自然とともに飼い、ニワトリの本来もっている生命力、抵抗力を高めていくことで病気を克服することさ。そんなニワトリが産んだ玉子だからこそ、おいしいし、身体にもいい。スズメだって自然の一部だ。一緒にいたっていいんだよ。

 こんど彼が来たら、こんなことを言ってやろうと思っていたら、「北朝鮮に鳥インフルエンザ発生。10万羽を処分」のニュース。うわっ、またか。
 だけどね。うふふ、負けないよ。この機会をつかまえてね、日本国中のニワトリが、自然ともっと近付いて暮らせるように変えてやろうと思っているんだからさ。

そうだよね、同志諸君。
 





                    
自然養鶏に取り組むようになってからほぼ20年になる。その間、へぇ〜と思う「小さな発見」がいくつかあった。「山の神様」との出会いもそんな発見の一つだ。ちょっとしたことがきっかけだった。僕が親愛を込めて「山の神様」と呼んでいるのは地元の微生物のことだ。

ある日、鶏舎から外に出たニワトリ達をぼんやりと眺めていたら、多くのニワトリ達が土を突っつき泥水をすすっていることに気がついた。鶏舎の中にはエサがあるし、きれいな地下水が間断なく注いでいるのに何を求めての土や泥水か?しばらく思いめぐらした後、僕の得た結論は、単に水分や土中のミネラルを取り込もうとしているだけでなく、それらの中に含まれている「地元の微生物」を体内に取り入れ、身体の内と外との調和をはかろうとしているのではないかということだった。

それぞれの地域には、その地その地の環境に見合った「地元の微生物」がいる。わずか1gの土の中に数億とも数十億ともといわれるおびただしい数の微生物たち。そのもの達は土だけではなく、大気中にも、植物の上にも、水の中にも、僕達の皮膚にも、体内にも・・・と、どこにでもいてくれて、生きている者たちの生命活動を支えている。

人間の赤ちゃんは生まれたときは無菌状態だが、三日の後には必要な微生物が体内にそろい、以来いのちが尽きる日まで連れ添ってくれるという話しを聞いたことがある。
人間だけでなく地域の動物達も、草や水、あるいは土を通してその微生物を体内に取り入れ、身体の内と外(自然)との「調和」をはかっているのだろう。

むかしから「三里四方の食べ物を食べよ」というのは、それぞれの地域の「地元の微生物」に依存して暮らすこと、あるいは「微生物による調和」の大切さを教えたものだろうと思っている。

僕はエサを醗酵させて与えていた。醗酵させたほうが無駄なく吸収できるためだ。当時、醗酵菌は県外の(富山県の)ものにたよっていた。
しかし、よく考えたら、ニワトリの周辺には朝日連峰の微生物、体内には富山県の微生物。このような組み合わせは自然の動物にはありえないことだ。ニワトリ達はこの不調和を是正しようとして、土や泥水を食べようとしたのかもしれない。そう考えた。

自然との調和は健康の源であり、いい玉子は健康なニワトリから産み出される。この地域の微生物でエサを醗酵することはできないだろうか?それができたらニワトリ達の生態と自然とのハーモニーがしっかりと築かれ、養鶏の枠の中とはいえ、さながら野生のタヌキやヤマドリたちと同じ世界が実現できるはずだ。地元の微生物をいただきに行こう。

パワフルなのはやはり森の中。山に分け入り、ラーメンどんぶり一杯分ぐらいの腐葉土をいただいてきた。それを大きなバケツでそれぞれ6杯ぐらいの米ぬかとノコクズとでまぜ合わせ、小山状態にして様子をみた。腐るなら嫌な臭いを出すだろう。醗酵ならかぐわしい香りを放つはずだ。どきどきして見守った。3日後の朝、シャッターを開けたらエサ場の中いちめんにいい香りが広がっていた。小山に手を入れてみる。熱い。60度はあるだろうか。なんと力強い醗酵だ。

それは同時に、太古の昔から生命の循環をつかさどって来た地元の微生物との感動的な出会いだった。僕は思わず、「これは山の神様だ。」とさけんでいた。あなたはこのときの僕の喜びを想像できるだろうか?

さっそくそれをエサ全体に混ぜた。エサは同じような香りを放ちながら醗酵していった。これでようやく野生と同じ「調和」が実現できる。僕のニワトリは地鶏になれる。そう確信できた。

その日から今日まで、ニワトリ達は山の神様のお世話になっている。おいしい玉子を産んでいることはいうまでもない。








 第4回の「にわとりの断食」を覚えておいでだろうか?最後にこう書いている。「若返るためだとはいえ、ニワトリ達に断食をしいてきたこの僕は、当然のことながらそのつらさを一度体験しなければなるまいと考えている」と。
 多くの方はこれを、きっと言葉だけのことと思っていたと思う。やったのですよ。それに近いことを。それもニワトリ達と同じ2週間。ねらいは、50代後半に向かっての「からだのギア・チェンジ」。

 彼らと違うのは 一日に必要なビタミン、ミネラルを錠剤でとり、プロテイン(タンパク)は牛乳瓶1・5本分ほどの水に溶かして飲むというところ。三度の食事はそれだけで、あとは水かお茶。それ以外は一切の食べ物、飲み物を口にせず、カロリーを遮断する。
  どこかの「道場」か病院に入り、世間から隔離されてということならよく聞く。でも食べ物に囲まれた自分の家でというのは果たしてできるだろうか。こんな不安があったが・・・やれたのですねぇ。

 食事を取らないようになってからの3、4日間が一番つらかった。そのつらさが、日を負うごとにどんどん増していくだろうと思っていたら、そうではなく、ちょうど朝食と昼食抜いた午後3時頃の空腹感がずーっと続くだけ。これはちょっとした発見だった。
  当然のことながら、頭から食べ物が離れない。食事時になれば家族は僕に関わらず食卓をかこむわけで、家の中のどこにいても魚を焼いたり、うどんのだしをとるなどのいい匂いが漂ってくる。あらゆる所から食べたい気持ちが刺激される。

ところが、5日目ぐらいになると少し感じが変わってくる。たぶん、空腹に慣れ、余裕のようなものができてくからだろう。家族の食卓のすぐそばにいても、ゆっくりと新聞が読めるようになった。おもしろいのは、自分の身体の主人公は自分の意志であるという満足感がうまれてきたことだ。

意志が「止めとけよ」といっても、「もう一杯」、あるいは「もう一つ」というように、身体の方が言うことを聞かないということがよくあった。ところがこの頃になると、自分の意志が身体を完全にコントロールしているという充実感、何かすがすがしい自信のようなものが生まれてくる。これは新鮮な体験だった。
14日間を通して雪下ろしや、ニワトリ達へのエサやりはいつもどおりにできた。カロリー以外はきちんととっていたからだろう。少し動作がゆっくりとなったり、時にはふらつきもしたけどね。

友人達にはふざけて「志(こころざし)と体形の格差を埋めるため」と説明していたけど、確かに身体は軽くはなったから、その点での成果はあったと思う。体脂肪率も10%ほど落ちた。

病院で腎臓、肝臓、コレステロールなどの数値がどう変わったかを調べてみたら、全てにわたって改善されていて、医者は「驚きですねぇ」と信じがたい顔をしていた。なるほど、これがニワトリにとっての断食効果か。僕もなんとなく若返ったような気がしないでもない。でも、頭髪は薄いまま。彼らのように若毛が生えてきたりはしなかったよ。


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