ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜農業版〜」 

我が家の水田面積は約420アール(420m×100m)。でも、今年の減反・転作面積は約4割。4割ですよ!米を作付できるのは残りの6割(240a)でしかありません。ため息がでますねぇ。どうにもなりません。そのくせ政府はTPP協議で約束した7・8万トンを含め、およそ85万トンのコメを毎年輸入することにしています。
山形県の総生産量・38万トンの2倍以上の米ですよ。その結果、コメはだぶつき、暴落はとどまるところをしらず、その対策だと称して農家に4割の減反を強い、かくて農業、農村、農家の壊滅的危機が進行していく。我が家の収入のことではなくて、国民の胃袋の問題、いのちの問題としてですよ、不安ではないのかと。自国の食料の生産基盤をここまで壊してなんの取引か!この国の為政者に問いたいですね。
 
 春先に書いた「それぞれの春」でもふれたように、81歳の現役農民である栄さんが倒れた。そして1ヶ月。栄さんの20aは我が家で受け持つことになった。息子の春平が引き受けてくれる人を捜してはみたが、誰も「うん」とは言わなかったという。それも無理もない話だ。この20aは山あいにあり、近年に開田された田んぼだ。同じ手間をかけても里と比べればずっと収穫量は少なく、それに米価はとんでもなく安い。農家は借りてまでも作りたいとは思わない。この時期、自分の家の田んぼを維持するだけで精一杯というのが正直な話だ。だからにわかに持ち上がった栄さんの田んぼの引き受け手がいないというのも当然といえば当然だった。
「我が家で引き受けられないかなぁ?」
と春平が言い始めた。
「そんなことはやめた方がいい。私は反対だ。開田は何をするにも苦労が多い。栄さんの親戚の農家や近所の農家も引き受けることができないと言っているんだべ?なにもお前が骨をおることはない。それよりお前の身体を休めたほうがいい。」
 真っ先に反対したのは92歳の母だった。ときどき空咳をする孫を気づかってのことだ。
「俺は大丈夫だよ。栄さんは田んぼとともに生きてきた人だべ。せっかく育てた苗を廃棄にでもしたら、入院先で『これで俺の人生は終わった』と思うに違いないよ。そんな栄さんを支援できるかどうか、このことは俺が百姓をする上での根本にかかわることだ。」
そんなことを繰り返し主張していた。 
「栄さんがまたやりたいといいだしたら、いつでも返すつもりだ。それまでは俺が管理する。」
 どうも、決意は固いらしい。言い出したらなかなか後には引かない息子の性格は家族みんなが知っていること。それならしょうがないだろうと母もしぶしぶ納得した。若いときには得てして「正義」や「理想」に走りやすいものだ。
品種は「はえぬき」。353aの我が家の田んぼに20aの栄さんの田んぼが加わった。
 俺?俺は息子のやることには反対しないことにしているからね。あまり自分の意見は言わなかったよ。
  
   <写真は田んぼの畦に咲いている野花。春シオン、忘れな草、オオイ    ヌノふぐりなど>
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 白もちと味噌もちはいかがでしょうか?

「黄金もち」は餅のなかでも一番おいしいと言われている品種です。
我が家の「黄金もち」でお餅をついてみました。
そしたら・・・やっぱりおいしかったのです。
だったら、我が家以外の皆さんにも食べてもらおうと、農家で作る「農産加工センター」に相談に行きまして・・そうしてできたのが「白もち」と「味噌もち」です。

<白もちと味噌もち>
白もちはわかるけど、味噌もちってなんだ?
それはね、当地方に昔からある餅で、お餅に味噌とゴマをまぜ、砂糖を入れてほんのりと甘くしたお餅です。味噌の風味が効いていておやつには最適ですよ。砂糖には漂白糖でなく「粗製糖」を使用しています。それもほんのり・・ですから害はありません。子どもたちにも安心して食べさせることができます。

<どんな餅米から作ったのか>
品種は「黄金もち」。
堆肥だけで育て、化学肥料は使用していません。
殺虫剤は使用していません。
(そのため、お餅に少し斑点が付いています。少し虫害にあった米が入ったためで、味にはまったく関係ありませんのでかまわずにお召し上がりください。)
殺菌剤は田植え時点の一回のみ。あとは酢などの散布でしのぎました。
除草剤は一回だけ使用。あとは除草機で草を取っています。

<価格と送料>
それぞれ500gで白もちは600円、味噌餅は680円です。それに送料です。送料は10kgまで東北、関東、信越、中部、北陸が630円、関西、中国地方は750円です。

10kgなんていりませんよね。
賞味期限は2ヶ月です。

<ご注文>
FAX(0238-84-3196)かメールで。
メールアドレス;narube-tane@silk.ocn.ne.jp
                             菅野農園
田んぼは順調です。

見わたす限りの緑の水田。我が家の田んぼは周囲のものと比べて少し違う。周囲は濃い緑。我が家は少し薄い緑。肥やしが不足しているような葉色だ。周囲は一株あたり40本ぐらいの本数がたっていて、見るからに勢いがあるが、我が家は20本ぐらい。貧弱に見える。
 たとえて言えば、周囲は20代、30代の盛りなのに、我が家は16,7歳のまだ少年、少女だ。

田植えと同時に肥料を落としていく田植え機械が普及してから、周囲の稲との成育格差が広がってきていて、その差は遠くからでも分かるほど。でもこれでいい。初期成育が旺盛な稲は、病気にかかりやすく、クスリの助けが必要になる。我が家の稲は大丈夫だ。

ニワトリにも同じことがいえる。
栄養満点の配合飼料で育てた雛は性成熟がすすみ、生後140日ぐらいで卵を産み出す。だけど産卵寿命は短く、早く老け込んでしまう。病気にも弱い。
自然養鶏の場合は如何に性成熟を遅らせるかを考える。少なくとも180日ぐらいまで産卵を遅らせるようつとめる。粗末なエサを与えること、運動させることがコツだ.

人間も性成熟の早い欧米の人は老化が早く、欧米ならずとも、たくさん食べて、まるまる太った人は老若男女にかかわらず病気にかかりやすい。

稲も、ニワトリも、人間も、健康には「不足がち」が一番だね。
子どもの育つ精神風土も「うっすら貧乏」が一番いいみたいだし・・。

えっ、おれ?
190cm、100kgだよ。

 ニワトリと同じ粗末な食事で運動・・実際、菜っ葉食べて、農作業やっているんですがね、「うっすら貧乏」だし・・・。全て理想形だけどな・・
酒が悪いんだべか?

ともあれ、今年も稲は順調に育っていて、おいしいお米をお送りできる日も近い。
ご期待ください。

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 田植えが始まり、水田は久しぶりに活気づいている。

 ここ数年、田植えと同時に化学肥料を根元に落とす便利な機械が広まり、田植えまでの作業がいっそう短くなった。田んぼに堆肥を撒いている私の作業が、どうしても遅れてしまう。

「まだかぁ、いつごろ耕運できる?」

 隣の田んぼの持ち主が、自分の田んぼに水を引き入れれば私の田にも浸透し、耕運しにくくなることを気づかい、声をかけてくれた。

「申し訳ないなぁ。もう少しまってけろ。」

 せっかくの春なのだから、畦の野花をながめ、残雪と新緑の朝日連峰の風景を楽しみながら、のんびりと作業をすすめたいのだが、周囲のペースがそれを許さない。腰の痛みに耐え二種類の堆肥を撒き続ける。レインボープラン堆肥と醗酵ケイフン。実際のところ、この作業が終われば、米作り作業の半分がかたづいたような気分になる。つらい仕事だ。

 それでもなお、私が堆肥にこだわるのは、私たちは「土を食べている」と思うからだ。土など食べたことないという人もいるだろうが、みんな食べている。

米に限らず、すべての作物は、土のなかのいいものも悪いものも区別せずに吸収し、その茎、葉、実にたくわえる。だから私たちは作物を食べながら、その作物を通して、土を食べているというわけだ。

スーパーに行けば、海の向こうの農作物がたくさん並んでいる。私たちはそれらを食べながら、中国の、アメリカの、あるいは他のたくさんの国々の土を食べている。はたしてその土は安全か?食べるに足る土なのか?はなはだこころもとない。

“食は土からはじめよう”、“土は命の源”。堆肥散布は土を守る基本だ。はずせない。

田植え作業までもうすぐだ。たんぼに漂うほのかな堆肥の臭いがうれしい。
 
 大変長らく留守にしていました。ようやく外の仕事はひと段落、まだ年賀状は書いていませんがそれは例年のことで、1月になってから書けばいいや
。やれやれです。
 家主が不在の間、山さくらさんや種子原人さんにルスを守っていただきました。ありがとうございました。
 さて、書きたいことがたくさんたまっているのですが、肝心の「地域のタスキ渡し」について、まだ書いていないことに気づきました。一度正面から書いておく必要がありますよ、これは。なぜならばこの「地域のタスキ渡し」こそ、私の原点だからなんですよ・・・なんてね。気負ってみても今はそんな時間はない。だから・・・、以前、朝日新聞の山形版に同じ題名で書いたものがあるんですね。もう少し若い頃のものなんです。同じことなのでそれを掲載させてください。ちょっと硬い文章ですけどがまんしてくださいな。


 長井市ではレインボープランという、生ゴミと農産物が地域の中で循環する事業が行われている。
私はこの事業に参加して15年(当時)になるけれど、それは、農作業の合間をぬって飛び回るとても忙しい日々だった。そんな私を支えてくれたものは「地域のタスキ渡し」という世界だ。耳慣れない言葉だと思う。何しろ私の造語なのだから。

 私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのは沖縄での体験だった。

 76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。

 村からは多くの人が安定した生活めざして「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。「開発に頼らずに、村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない。」

 このように子孫を思いながら反対する。これはほとんどの村人の気持ちだった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現しないだろうが、このような生き方をつないでいけば、何世代かあとには、きっといい村ができるはずだ。それが俺達の役割だ。」

 この話を聞きながら、わが身を振り返り、私は大きなショックを受けていた。彼らは私が育った環境よりももっともっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。
この人達にくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。泥にまみれながら田畑で働く両親や村の人達の姿が浮かんだ。

 それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。
村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって始めて気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。それらの努力と願いの中で私は守られ、生かされていたのだ。

 風景はあたたかな体温をともなって優しくせまったくるのを感じた。ようやく「地域」がわかった。そして私は「地域」が大好きになり、同時に肩にかかっている「タスキ」を自覚できるようになった。
その後の、減反反対や農薬の空中散布反対運動、そしてレインボープラン・・・。

 私をこのように動かすものは、地域の風土の中に流れる先人の体温と、私の身体にしっかりとかかっている「タスキ」への自覚である。



・・・ということなんですが、少し、肩に力が入いりすぎていますね。若いですねぇ。カッコつけてますねぇ。

 表現はゴツゴツしてるけど、趣旨はお分かりいただけるかと思います。百姓仲間の友人がいいます。「菅野は農業をやりたくて農民になったのではなく、地域を変えたくて農民になったんだよな。」って。きっかけはその通りでしたね。これが私のベースです。

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 秋から冬に向かう今の季節は、壮大な「いのち」の交替期だ。
森の木々はすっかり葉を落とし、草ぐさは朽ちようとしている。

自然界全体で見れば、一つの生命の終りは、もう一つのいのちの始まり。

 やがて、それぞれが土に戻り、養分となって新しい「いのち」に役立てられていく。新しい生命に参加していく。加わっていく。いのちのめぐり、いのちの交替期。土はその舞台。

 朝日連峰のすそ野、雑木林に分け入る。
モクモクとしたやわらかい落ち葉の床。土の感触が伝わってくる。
あたりを包んでいる甘酸っぱい香り。草や葉、たくさんの生物達が土に戻ろうとして放つ醗酵の香りだ。

それらが私を柔らかく包みこむ。呼応する身体とこころ。ゆったりとした、しみじみとした感動が湧いてくる。

秋から冬、それはとても哲学的な季節だ。

(バックナンバー「シーッ静かにしよう」にも同じ世界があります。)
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 えっ、まだ11月ですよ。こんなに雪が降っていいのかな。20cmは積もった。まだ畑には大根や白菜がある。雪をかぶれば甘くなっておいしいとはいうけれど、収穫作業は大変だ。困った。写真?いま、そんな余裕はありません。とりあえず、車のタイヤをスノウタイヤに変えてきた。明日は玉子の配達日だから。今できることは・・・寝よう。
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 何年ぐらい前になろうか・・・僕がまだ洟垂れ小僧だったころのことを思い出す。

 当時はどの家でも、家の中の囲炉裏やかまどで火を炊いてご飯を作っていた。その煙が家々の屋根から立ち上っていく。だから夕方になると村はうっすらと煙でおおわれていた。

 男の子は坊主頭、女の子はおかっぱ。子ども達は風邪をひいているわけではないのに一様に洟を垂らしていた。それも透明なものではなく、白っぽいものだった。その洟をこするため、上着の袖はピカピカに光っていて、遊びのズボンには例外なく膝やお尻にツギがあてられていた。そんな子ども達が村のあちらこちらで歓声をあげながら走りまわっていた。

 村の中にはヤギやニワトリ、牛や馬が飼われていて、夕方になるとエサをねだる鳴き声が聞こえてくる。犬は放し飼いで、自由に歩き回り、恋をしたり、ケンかをしたり・・・、ストレスの少ない犬自身の人生を楽しんでいた。

 そういえばあのころは酔っぱらった村人がよくもたれ合いながら歩いていたっけ。どこかの家で酒をご馳走になり、「今度はだれそれの家に行くべぇ。」「いやいや、おらえさ行くべぇ。」と一升瓶をぶら下げながらふらふらと。村の中のあっちの家、こっちの家、飲みに行くところはたくさんあったのだろう。我が家にもしょっちゅう酒飲みが来ていた。

 こんな光景も思い浮かぶ。ばぁちゃん達の立ち小便。腰巻を前後に広げて、畑の方にお尻を突き出し、両足を広げて「シャーッ」と。小便をしながら道行く人たちと立ち話をしていた。「いまからどこさ行くのや。」「うん、買い物に。お前もえがねがぁ。」「うん、えぐ。」なんてな。そんな光景になんの違和感もなかった。ごく当たり前のことだった。

 お金のかからない、自給自足のくらしだった。モノはないけれど、のどかでのんびりとした時間が流れていた。貧しかったのだろうが、子どもも大人もどこかで将来に「希望」をもっていた。

 それからずいぶんと時が流れた。イガグリ頭やおかっぱの子ども達、洟を垂らして外で歓声をあげて遊ぶ子ども達はいなくなった。ヤギもニワトリも、牛も馬も消えてしまった。村を歩く酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもいない。

 そしてただむやみに忙しい。子ども達から大人まで、あわただしく暮らしている。村人どうしの関係もずいぶんと希薄になった。大人達の口から希望を語る言葉は聞かれない。モノはたくさんあるけれど、みんな・・・あんまり幸せそうではない。

 おーい!もどってこいよぉー!ヤギもニワトリも、牛も馬も、イガグリ頭やおかっぱの少年少女も・・・酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもみんな戻ってこい。もう一度やり直さないかぁー!

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 26歳で農業に就いたとき、まず当たり前の農民になることが僕の課題だった。6年後、今度は僕らしい農業をつくろうと思い、まず手始めにヤギを飼った。

「これでオレも有畜複合経営の仲間入りだ。」と百姓の友人達に胸をはったのを覚えている。仲間達は軽く笑ったがオレの気分は高揚していた。ぼくはそのヤギにピョンという名前をつけた。

 農作業に出かけていくときはいつもピョンを連れて行った。田んぼでは首にかけた縄を解き、ポンと尻をたたいてやる。ピョンは嬉しそうに駆け出して行く。遠くにいっても呼べば僕をめがけて走ってくる。僕が仕事をしている間、ピョンは草を食いながらのんびりとした時間を過ごしていた。

 お昼が近付き帰る時間になると、ぼくは「ピョン!」と大きな声で呼ぶ。ピョンは思い切りこちらに向かって走ってくる。そしてきまって5mぐらい手前で止まるのだ。いつもここから難儀する。

 ピョンには分かるのだ。自由の時間に終わりが来たことを。
「オイ、帰るぞ。こっちに来い。」
僕が近付けばピョンは離れる。なかなか捕まえることができない。しばしのあれやこれやの駆け引きの後、やがて彼女を捕まえて首に縄をつける。でもこれでひと段落とはいかない。トラクターの荷車の上に乗せるのがまた一苦労。

 ピョンは手にしたしばしの自由を奪われまいと、荷車に乗るのを懸命に拒否する。あわよくば逃げようとさえする。僕に何度も頭突きをかます。蹴りをいれる。

腹へっているのに、くたびれてもいるのにピョンとの格闘はなかなか終わらない。真昼間、広い田んぼのなかでのこと。1m90cmの大男とヤギとのこの模様は遠くからでもよく見える。恥ずかしいし、あせりもする。でもピョンはそんなことはお構いなしに執拗に抵抗し続けるのだ。

 オレはピョンのこの抗い続ける姿勢が好きだ。

いくら家畜に身をやつしていても、手にした自由を制限しようとする者には全力で抵抗し続ける。相手はいつも「えさ」を与えてくれる人であっても、たとえそれがとてもかないそうにない大男であったとしても、である。

「妥協はできない。絶対にゆずれない。」

いつも、いつも、あきらめることなくそう思っていたのだろう。ピョン、お前はたいしたもんだ。

 さて、ヤギのピョンの話はこれで終わりだ。ところで話は変わって、オレ達のことなんだけどな・・・頭突きの話だよ、オレタチノ。いっぱい飲みながら話そうか。


いきなりで申し訳ないが、WTOは人々を幸せにはしない。それは分かっていた。

でも、その上でどうするんだ?どんな社会や暮らしを作っていくんだい?問われていたのはそこである。

私がかかわっている地域づくりの中にもその問題意識が常にあった。嘆き節ではなく、批判にとどまるのでもなく、もう一つの社会や人々のつながりを育む。こんなことを常に念頭に置きながら取り組んできた。

3月の14日から8日間、AFEC(アジア農民交流センター)主催の農民交流の旅に参加してきた。ここでは詳しい事情説明は割愛するが、タイ・イサーンでも、日本とは違う困難のなかにあって、「造りだす」、「産み出そう」とする多くの人たちに出会えた。嬉しかったし、力をもらえた。「タイ東北農民の旅」のおもしろさ、醍醐味はここにある。

「むらとまちを結ぶ市場」、「共同農場」、「100年の森構想」に「タイ・レインボープラン」・・・。これらは、世間的に見ればとるに足らないぐらいに小さいものだろう。しかし個人的実感からいえば、巨大なWTOの中に芽生えた希望だ。
(これらの事業については改めて報告しましょう。)

それらの事業は「充足経済」「足るを知るくらし」の考え方と対になっていて、足腰の強さを感じた。しかしすんなりとはいかないだろう。それは我々とておなじ。どんな壁にぶつかり、どう克服してきたのか。これらはこれからの交流の中心課題になっていくだろう。

体調不良の中、ヘロヘロになりながらの八日間だった。仲間たちには心配かけたが、もう完全復活。農作業にまちづくりにと、真っ黒になりながら走り回っているよ。

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以上は、AFECの機関誌「百姓は越境する」に、800字の制限で書いたものですが、何のことやら・・何を言いたいんだい?、今までとは勝手が違うんでないか?・・でしょう。

近いうちにもう少し詳しく、経過を含めて報告したいと思います。

 タイから帰ってきました。元気です。さっそくそのおもしろかった報告をやろうと思っていたのですが、他方でレインボープランについての文章依頼の締め切りが迫っていて、まずそれにかかりました。「玉子を売る」も中途ですが、ま、おいおいやっていきます。

A、生ごみ堆肥化に取り組む背景

山形県長井市では、レインボープランという名の、生ゴミと健康な
農作物が地域のなかで循環するまちづくりに取り組んでいます。この事
業が生まれた背景は大きく分けて二つです。

一つは「土の力の衰え」です。日本の農業が生産性と効率性を優先し、化学肥料と農薬を中心とした農法に変わってからずいぶんたちました。その結果、ある程度生産力は増大しましたが、他方でいのちを育む土の力の衰えや、作物汚染への不安が増大してきました。
土の回復には堆肥が必要です。すべてはここから始まります。その堆肥原料として、これまで役に立たない物として燃やされていた、まちの台所の生ゴミに着目しました。

 二つ目には「食への不安」です。地元の作物は遠くの大消費地を目指し、わが町のスーパーには大消費地からの転送品が並んでいました。同じものが地元でもとれるのに。市民の中に、新鮮で安心できる地元の作物がほしいという気持ちが高まっていました。
 この二つの背景を受けて、まちが堆肥を作り、村が作物をつくる、循環のまちづくりが動き出しました。

B、市民主体のまちづくり

レインボープランは行政主導ではなくあくまで市民主体の事業として成長してきました。
 2,3人の市民から始まった呼びかけに各界、各層の人たちが次々に応え、事業の調査検討に向けた受け皿が形成されました。そのもとに行政やJAが参加し、市民と行政のイコールの関係が形成され、地域が動き、地域が少しずつ変化しながら今日に至る。こんな過程を歩んできたのです。レインボープランは市民(住民)運動への行政(からの)参加と言われる所以です。

このような過程を歩むにあたって、女性の働き、その発言はとても大きな力をもっていました。当時、女性たちの中心になって活躍した方は、「単純なゴミ処理ではなく、自分たちの口に入るものに台所から参加する、そんなプランだから一生懸命になれたのだ。」といいます。

プランの趣旨をきちんと理解したこと、その上で、話し合いに充分な時間をかけたこと、行政がそれを粘り強くまったこと、これらが女性を始めとする市民パワーの盛り上がりの背景にあると思います。

C、土はいのちのみなもと

「土はいのちの源」という考え方こそ、この事業の核心です。生ゴミの堆肥化事業の中にこの考え方がなければ、それは単なるゴミ処理でしかありません。「使い捨て社会」の延命策として、いのちの場である田畑をゴミ捨て場にする、そんな事業になってしまいます。

 私たちが目指すのは、そういうことではありません。生ゴミを分別することから始まる、まちの台所からの土、農、食への参加です。消費が単なる消費に終わるのではなく、生産の場に戻り、いのちの場に参加していこうとする、土を基礎とした循環型社会への合流なのです。「ゴミ捨て」か、消費の現場から土とのいのちの関係を築こうとする事業か。この二つの流れを分かつものこそ「土はいのちの源」という理念であり、私たちの生命線ともいうべき考え方なのです。
 

(注)レインボープランとは;
山形県長井市で始まった台所の生ゴミを活用するまちづくり。市街地に住む5,000世帯の生ゴミを堆肥原料として集め、できた堆肥を活用して作物をつくり、その作物を再びまちの台所で消費しようという循環の事業。


かるーいお茶のみ話です。ぼくの文章はどれをとってもそんなモンなんですが、これは特にそう。申告のための作業が終わってほっとしていたら、ふっと、書きたくなっただけなんです。「ほっと」で「ふっと」なんですよ、あくまで。誰にでもある青春時代の・・・。
 
早朝の4時、18歳の私は、自転車に270部ほどの新聞を積み、まだ暗い東京の住宅街を走っていた。途中で自転車を止め、新聞を一抱え持っては路地を抜け、階段をかけ上がり、ハッハッハッと息をはずませ、配ってまわる。まだ日が昇らない暗い家並みのなかに「沈丁花」の香りが漂っていた。

 朝刊と夕刊の間に大学に通い、日曜日は集金で終わるそんな日々の始まり。新聞店の二階の作業所に作られた二段ベットのひとつがぼくの部屋。作業所とはカーテンで仕切られた一畳半のなかに小さな机をおいて本を読み、その下に足を突っ込んで寝る。汚れた窓を開ければ、隣の飲み屋の排気口があって、たえず、焼き鳥の黒い煙を吐き出していた。

 それでも東京のひとつひとつの風景が面白く、出会う人それぞれが新鮮に思え、決してつらくはなかった。なによりも、ここからぼくの人生が始まっていくのだと、「青雲のこころざし」に燃えていたのだから。 

 すでに兄を私大に送っていた我が家の家計はきびしく、どう考えても大学への道は閉ざされていた。そもそも高校を卒業すれば農家を継ぐ、それが普通高校に通う条件となっていて、進学は高校入学の時からあきらめざるを得ないとおもっていた。

 そんなぼくにも大学への道があるのだと、小躍りするような世界に出会えたのは、もうじき高校三年生という年の三月だった。なにげなく新聞をめくっていたぼくの目に、「朝日新聞奨学生募集」という囲み記事が飛び込んできた。そこには授業料、初年度納入金、衣食住など、大学に通う上で必要なほとんどのものが補償されると書かれていた。条件は東京での新聞配達。大学に行けるかもしれない!

 ぼくは高校一年からの勉強をやり直した。浪人する余裕はなく、時間が足りない・・・。どうせ農業だからと、それまでほとんど使わずにさび付いていたぼくの記憶装置は、ぎしぎしいいながら動き出した。

 今年も「沈丁花」がその甘い香りを放ち始めている。その香りのなかでぼくは40年前の「春」を思い出す。

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これは今までのシリーズものとは少しばかりおもむきが違う文章です。どう違うかといえば・・ま、読んでもらえれば分かるよな。そしてね、あろうことか、この文章を今晩(1月14日)「沖縄タイムス」に投稿したのです。長すぎてダメかもしれないが、削れないんだよなぁ。以下・・・


昨年の11月中旬、私は妻をともなって沖縄を訪れた。それは20代から50代の今日までの私の人生に大きな力を与えてくれた「沖縄」へのお礼の旅だった。

私はいま、山形県長井市で農業をしている。その傍ら「レインボープラン」という名の、生ゴミと農作物が同じ地域で循環するまちづくりに取り組んできた。そのレインボープランは2003年朝日新聞「明日への環境賞」、2006年日本農業賞特別部門「食の架け橋賞」大賞受賞、また、環境省の環境白書に「循環型地域社会」の模範事例として、農水白書には「資源循環型地域農業」のモデル事業として取り上げられるなど、他にもこれまでさまざまな賞をいただいている。

私はその事業のリーダーとして18年ほど夢中で取り組んできて、昨年の夏、レインボープラン推進協議会の会長を辞めた。農業とまちづくりへの取り組みはとても忙しい日々だったが、そんな私を支えてくれたものは沖縄からいただいたおおきな力だった。

私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいとおもう地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈の中で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのが沖縄での体験だった。

76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立てて石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。村からは多くの人が安定した生活を求めて「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。

「開発に頼らずに村で生きて行くのは厳しい。だけど・・・」と村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れてくる子孫にとっても宝だ。苦しいからといって石油で汚すわけにはいかない。」

その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げなくてもいい村をつくっていきたい。俺たちの代では実現しないだろうが、そのような生き方をつないでいけば、何世代か後にはきっといい村ができるはずだ。それが俺たちの役割だ。」

私はこの話を聞きながら、わが身を振り返り、大きなショックを受けていた。この人たちは私が育った環境よりもずっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を子孫へとつなごうとしている。この人たちにくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたった時、涙が止めどなく流れた。泥まみれになって働く両親や村の人たちの姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。

沖縄からいただいた考え方を「地域のタスキ渡し」という言葉にし、減反反対運動、農薬の空中散布をやめようという取り組み、そしてレインボープランと・・・、「逃げ出したい地域を逃げなくてもいい地域へ」「ここで暮らすことが安らぎであり、誇りでもある地域へ」、百姓の合間をぬいながら夢中で歩んできた30年間だった。

その私が・・・、昨年の秋、「もう、(社会における)俺の役割は終わったのかもしれない。」という気持ちにとらわれ、すっかり落ち込んでしまった。目的の喪失感なのか。あなぽこに落ち込んでしまったような・・。

再び沖縄に行こう。私はその後の30年間、このように生きてきたという報告とお礼の旅に出よう。だれ、かれにというのではなく、「沖縄」そのものに・・感謝をこめて。

30年前と同じように沖縄は暖かく迎えてくれた。海も空も友人達も・・・。滞在した5日ほどの間、涙腺がゆるむことが幾度かあり、少しずつ元気になっていくのを感じた。

30年前にいただいた「こころざし」はまだまだ途中だ。地域をタスキ渡しする日まで、もっともっと歩み続けよう。あらためてこんな気持ちを持つことができた。

ありがとう海、空、沖縄のみなさん。ありがとう、沖縄。また助けられたという思いがある。まだまだ道は続いていく。


これだけの文章なのですが・・・。

いまかい?もちろん俺は元気だよ。アッタリマエダ!







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 あけましておめでとうございます。

 皆さんはどのようにお正月を過ごされたでしょうか?
我が家族は当然ことながら、まったく普段と変わらない暮らしでした。ニワトリにエサをやり、玉子をとってパック詰め、曜日がくればそれを配達する。変わったのは元旦の朝、お酒をいただいたのと、伝統的な風習に従って、決められた料理で食事をしたぐらいのことでしょうか。

 あらためて年頭のご挨拶をいたしますが、今回はお正月の間に読んだ本を紹介させてください。

 山形市に齋藤たきちさんという農民がおります。その方が昨年の秋「北の百姓記(続)」(東北出版企画)という題名の本を出版されました。一昨年に出された「北の百姓記」に続いてのことです。両方とも読み応えのある本です。どんな本かを「書評」風に書けば・・こんな本です。(以下)


 三十五年ほど前になろうか。まだ私が東京の学生だったころ、よく読んでいた書物の中で幾度か「齊藤たきち・山形県・農民」の著名入りの文章に出会った。
当時、私は農家のあとつぎとして期待され、農学部に在籍してはいたものの、その道がいやで、何とか田舎に帰らない方法はないものかと考えていた。そのくせ、人生の方向を見つけられないまま、成田で起こっていた農民運動などに顔をだしていた。

 その時のたきちさんの文章は、同じ農民という立場から、運動を担う成田の農民に心を寄せて書かれた、どっしりとしたものだった。農民であることに誇りをもつ、土の香りがする文章だった。
「山形にもこんな方がいるんだ。」同じ山形県人であることに親近感をもちながらも、当時の私にそれらの文章は重くこたえた。

 やがて私も農民となるのだが、その時以来ずっと今日まで、「齋藤たきち」の名前はいつも気になる存在として私の中にあった。

 齊藤たきちさんは山形市門伝で農業を営むかたわら、農民の立場から詩をつくるなどの創作活動に精力的に取り組んでいる方だ。山形県を代表する詩人で野の思想家、真壁仁がおこした「地下水」の同人でもある。

 そのたきちさんが昨年の秋、「北の百姓記(続)」(東北出版企画)を出した。一昨年の春に出版された同名の本の続編である。「あとがき」に、先に出した本には「六十年余に渡る私の『百姓暮らしの叫び』」を、このたび出した続編には「百姓としてどう生きているか」を書いたとある。

 読みながら、三十数年前の感情がよみがえってくるのを感じた。たきちさんはずっとあの時の姿勢のまま生きてこられたのだ。

 彼は単なる知識人ではない。それは彼の広い肩幅と、厚い胸、がっしりとした体躯をみたら分かる。田畑に働くことでつくられた身体だ。そこから出てくる情感、思想を詩人の言葉でつづったのがこの本である。作物や郷土に対してそそがれる目がやさしい。

 たきちさんは自らを「百姓」という。彼にとって百姓とは単なる職業なのではなく「生き方」そのものである。
まさにこの本には、土の上で懸命に生きてきたひとりの百姓、齋藤たきちの生き方があり、哲学があり、世界観があり、詩がある。
 
 そのたきちさんがついに自分を「最後の百姓」と呼ぶに至った。そこまで彼を追い詰めたものは何なのか?我々とて決して無縁ではない。

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 書評風の紹介はこれで終わりです。たきちさんは今月の21日、真壁仁を記念して設けられた「野の文化賞」」を受賞されます。

 この二冊の本は、農業に従事されている方だけでなく、広く社会人、学生にも読んでもらいたい本です。

ナンカ、オオマジメニ、カタッチャッタナ・・・。




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