ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

メモ
この夏休み、学生たちと話し合う機会があった。
その時気付いたのだが、学生たちは男も女も自分のことを「自分」という。「自分は・・」、「自分の・・」、中には「私」という人もいるにはいたが意外なほど少なかった。
この一人称の呼び方は、歴史をたどればけっこう古い時代まで遡るのだろうが、団塊世代のオジサンとしては、かつて帝国陸軍がそのように使っていたことを思い起こし、世の右傾化とも相まって、心穏やかに受け止めることができなかった。
その時代はまさに「自分」が無い時代だった。その反省から我々は新しく歩み始めたのだが、再び、いつから、どうして、かくも広く若い世代が使う様になったのか?考えさせられる。


菅野農園のニワトリたちは「庭鳥」として、ゲージではなく大地の上で暮らしています。週に2〜3回は外に出ます。草を食んだり、土を突っついたりと気ままに過ごしています。
 できる方は、自分で飼ってみることを勧めます。家族一人あたり一羽でいいでしょう。余ったらお付き合いに活用できます。
 な〜に簡単ですよ。まず農文協の「自然卵養鶏法」(中島正著)をお読みください。次に創森社の「土と玉子といのちと」(菅野芳秀著)を。ここも肝心ですぞ。
 生ごみや周囲の草など、さらには蕎麦屋のかつおだし、パン屋のミミなどいろんなものがニワトリたちの餌になります。
 鶏舎は日曜大工で十分。一日で建ってしまいます。広さは十羽で一坪ぐらいかな。おいしい玉子ができること請け合いです。
 なによりも暮らしが楽しくなりますよ。 分からないことは菅野農園にお尋ねください。く

F・B上に、見つけ残しのキュウリのことが出ていた。
大きくなりすぎて、食べられないという。皆さん、知らないんだなぁ。止めておけばいいのにお節介の癖が出て以下のコメントを打つ。皆さんも知らなかったならぜひ試してみて下さい。うまいよぉぉ!


「とんでもない。山形ではわざわざ大きくして食べたりしますよ。これがまたおいしい!まずキュウリの皮をむく。スプーンか何かで中の種を取り、これは捨てる。次に食べられる大きさに切る。そうですねぇ。3cm×5cmぐらいかな。次は油で炒める。そして煮る。トロトロとやわらかくなるまで煮ます。味付けはサバ缶、または豚コマ、ひき肉あるいはシーチキンでもうまいですよ。そこに旨味調味料、醤油を少し加え、最後に薄く片栗粉でトロトロ感をだして終わり。ぜひ、食べてみて下さい。わざわざ大きくして食べたくなる訳が分かりますぞ。どなたか、このようにやってみた方はぜひ私にその結果を教えてください。」

 志を生きようとする人にはそれにふさわしい体形があるものだ。
それがその人の説得力や求心力を構成する場合もある。言葉でいくら説いても本人の体系がそのことを嗤っているようでは話にならない。

 私は190cmで103kg。体重が多いのがかねてからの課題だった。
何とか減らし、説得力ある身体を獲得したいというのがここ数十年の課題だ。
決意は幾度かした。その為の努力もした。本も読んだ。知識もある。
「志と体型の乖離を埋めなければならない。だから・・」と周囲にもそう宣言し、後戻りできない環境作りも行った。
だけど成果はいつも2〜3kg減。外見が痩せて見えるほどのこともなく終わる。そして・・、2〜3ヶ月でもとに戻ってしまうのだ。

 ある時、断食に詳しい友人がいて、話の成り行き上、私もやってみることにした。背景には我が家で飼っているニワトリたちがいた。彼らは玉子を産み始めてから1年後に「断食」する。養鶏法の一つなのだが、驚くことに、断食の後、彼らの羽が全て生え変わり、外見上も、産む玉子も若鶏のようになっていくのだ。

 かねてより、そのためとはいえ、ニワトリ達に断食を強いて来た身としては、当然のことながらその辛さを一度体験しなければなるまいと考えていた。その副産物として私の頭髪が生え変わり、身体もスリムになって行ければいい。

 で、やったのですよ。それもニワトリ達と同じく2週間。彼らと違うのは 一日に必要なビタミン、ミネラルを錠剤でとり、プロテイン(タンパク)を牛乳瓶1・5本分ほどの水に溶かして飲むというところ。三度の食事はそれだけで、あとは水かお茶。それ以外は一切の食べ物、飲み物を口にせず、カロリーを遮断する。
 これがどこかの「断食道場」でのことならばよくある話だ。でも食べ物に囲まれた我が家で、それも鶏の仕事をしながらというのは果たしてできるだろうか。こんな不安もあったが、やれたのですねぇ。

 ま、ここからの顛末を聞いてください。やがて何かの参考に・・なるわけないか。
さて、絶食してからの3、4日間が一番つらかった。そのつらさが、日を負うごとにどんどん増していくのだろうと思っていたら、そうではなく、その空腹感がずーっと続くだけ。これはちょっとした発見だった。当然のことながら、頭から食べ物が離れない。コンビニにも行った。アンパンが目に付く。もしそこで食べたって誰も怪しまない。でも自分が見ている。そこは譲れない。

 5日目ぐらいになると少し感じが変わってくる。たぶん、空腹に慣れ、余裕のようなものができてくからだろう。家族の食卓のすぐそばにいても、ゆっくりと新聞が読めるようになった。おもしろいのは、自分の身体の主人公は自分だ、自分の意志だという満足感が生まれてきたことだ。今までなら、もう食べないと思っても、身体の方が言うことを聞かない。欲望に振り回されていた。ところがこの頃になると、自分の意志が食欲を完全にコントロールしているという充実感、何かすがすがしい自信のようなものが生まれてきた。これは新鮮な体験だった。

 さらに進むと「俺はこのまま食欲を封じ込めたまま、死ぬことだってできる。」こんな自信すら生まれて来た。
そして2週間。父親からは「戦争から帰って来た息子に家族がそれ喰え、やれ喰え・・で死なしてしまった話があったから、とにかくお粥から少しずつだよ」との助言を得ていた。最初に口にしたのは少しのお酒と味噌汁。翌日はバナナ。酒はとても甘く、みそ汁は逆に塩辛く感じた。農閑期の冬だったが、それでも雪下ろしや、ニワトリ達へのエサやりはいつもどおりにできた。少し動作がゆっくりだったり、時にはふらつきもしたけどね。

減った体重は10kg。体脂肪率も10%ほど落ちた。

病院で腎臓、肝臓、コレステロールなどの数値がどう変わったかを調べてみたら、全てにわたって改善されていて、医者は「驚きですねぇ。何かありましたか?」と。なるほど、これがニワトリにとっての断食効果か。私もなんとなく若返ったような気がしないでもない。

 でも、頭髪は薄いまま。彼らのように若毛が生えてきたりはしなかった。
それに肝心の体重はね、半年ほどで元に戻ってしまったよ。

  大正大学出版会「月間地域人」より 拙文


7月31日から8月6日まで前半、後半とに分かれて60名の大正大学人間環境学部の長井・地域実習が続いている。私は学生たちと行程を共にしながら、「生き方」を求めて煩悶していた私自身の若かりし頃を思い起こしている。


「どう生きるか?これはどんな職業に就くかではなく、どこで暮らすかでもない。求めていたのは、人生の生き方だった。
それには背景がある。私は幼い頃よりずっと、農民となって農家を継ぐよう教えられてきた。やがて成長するに従い、その世界を出たいと思う様になって行く。田舎から出ることで人生の可能性が拓ける。ここに留まることはあきらめの人生。そう思うようになっていた。どう生きるかの煩悶を引きづりながら、25歳になった私は沖縄にいた。
そこでようやくその答えを得る。そのころ書いた文章がある。少し硬いが掲載したい。


「1976年、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。小さな漁業と小さな農業しかない村。そこに突然持ち上がった計画は、「本土」各地から拒否され、行き場を失った挙句にやって来たモノ。当時の沖縄の貧しさに乗じて国策として押し付けようとしたものだった。
「村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない」。
これは多くの村人の気持ちでもあった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現せずとも、このような生き方をつないでいけば、いつかきっといい村ができるはずだ。」
私はその話を聞きながら、わが身を振り返っていた。彼らは私が育った環境よりももっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。この人達にくらべ、村の現実を分かっていながら、そこから逃げることしか考えなかった私の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。ようやく生き方が分かったと思った。逃げたいと思った村を逃げ出さなくてもいい村に。そんな生き方をつないで行くこと。沖縄の青年たちの思いが私の思いとなった。それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。


村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。地域の中で累々とつないできた人々の願い。地域の「タスキ渡し」。私はその中で守られ、生かされていたのだ。
その日から、私は風景があたたかな先人の体温をともなったものとして感じ取れるようになった。ようやく『地域』がわかった。『地域』が大好きになり、同時に肩にかかっている『タスキ』を自覚できるようになった。

それから40年。私は今も百姓として地域づくりの道を歩んでいる。
・・・ということなんですが、お分かりいただけただろうか。


我が家の前には広々とした一面に緑の美しい世界が広がっています。
春先のイネミズゾウムシの害も何とか鎮まりました。
水面への食用油の散布が効いたようです。彼らは夜、水底に生息しており、日が昇ると茎伝いに上がってきて葉を食べる。その習性を利用し、あらかじめ水面に食用油を撒いておく。いつものように水中から外界に出るときに、彼らの身体は油に包まれて窒息するという仕掛けです。農薬で無いから、全滅はしませんが、ずいぶん数は減ります。かわいそうですが仕方ありません。今年も農薬をかけずにすみました。食用油は分解も早く、コメへの害はありません。

 これからの心配は「いもち病」ですね。稲の葉や茎がかかる一種のカビ病で、これにかかると稲全体が枯れて行き、収穫ゼロもありえます。カビ病なので高温多湿の気候は要注意。我が家ではこの予防として一夏に二度ほど「酢」を散布します。

 大規模農業とは違い、「小農」のコメ作り。殺菌剤、殺虫剤ゼロ、化学肥料ゼロにこだわりながら、今しばらく緊張が続きます。


稲作農家がこれだけ痛めつけられているのに何故農村では自民党が支持されるのか?こんな質問が寄せられました。それに充分に答えられる自信はありませんが、以下のことは背景の一つにあると思います。

 長年続いて来た農業、農村に対する政府・自民党からの強い締め付けと、補助金による脅しです。まず、締め付けですが6年前の参議院選挙を覚えてませんか?
2013年1月の参院選はTPPへの反対運動が燃え上がり、山形県農政連も初めて野党候補を推薦しました。事件があったのはその選挙が終わった直後の1月30日です。コメの販売手数料に関わるカルテル疑惑で公正取引委員会の立ち入り調査が山形県庄内地方の5農協に入りました。農協のコメ事業の中枢への攻撃でした。きわめて露骨で、関係者ならずとも誰もが「政治的報復」であると思いました。そう思わせただけで充分な効果があったのだと思いますね。その後、農協の「忖度」が行われるようになりました。

これもTPP含みですが2014年12月14日の衆院選で、福井県農政連の県下の12農協のうち11農協が与党支持ではなく、中立の立場で臨みましたが、その直後の2015年1月16日に、農業用施設の改修工事の落札業者に関わることで公取がJA福井県経済連に入りました。これ等は見え見えの「見せしめ」です。この事件を通してJAは政権与党への表立った反対ができなくなりました。

 次は補助金による脅しですが、山形県で見ることができるのは土地改良事業についてです。水田の大規模化を目的とした農地の基盤整備事業が全国的に進められていますが、その予算はほぼ100%が国の農林予算から出されています。その事業の推進を政治的に利用しながら与党国会議員の後援会への加盟を勧めています。「後援会への集まりが悪いと事業への予算は流さないぞ」などと露骨に恫喝しながら。
こんな「見せしめ」や「脅し」が中核農家などが集まる場でなどで繰り返されてきました。それに屈したJAや中核農家が集票マシーンとなって働いたわけですが、でも、多くの小農たちは必ずしも彼らの言うとおりに動いていませんでした。これが山形県の結果に表れていると思います。「見せしめ」や「脅し」がかつてほど機能しないのは、農家の離農が促進された近年の新しい傾向だと思います。

 かつて土建業を中心として、働き手である農家へ圧力をかけていましたが、今はこれも、働きに行く農家自体がいなくなっていて、その事例はあっても少数です。
JAにもかつてほどの求心力はありません。
北陸などの票の流れは、農民票というよりも、例えば福島の人たちはあれだけ痛めつけられているのに、なぜ依然として自民党に投票するのか。あるいは都市部にあっても無権利状態に置かれている若者たちはなぜ、自民に・・。ここから迫った方がより適確かとおもいます。


忙しい中、時間を割いて、映画「新聞記者」を見て来た。
東京新聞記者・望月衣塑子氏 の同名小説を原案にしているだけに、
安倍政権下で実際に起こった事件を彷彿とさせ、
映画ではあるが、とてもリアルに描かれている。
結果は、行ってよかった。
まだの方にはぜひお勧めしたい。
この映画の続きはまさに今、
展開されている現実の中にあるということだろう。



ここで何度か書いて来たけど、ゲージ(籠)に入れられたニワトリたちは、あまりにも悲しい鳥たちなので繰り返し取り上げたい。少しでも彼らの救済につながればと思ってのことだけど。
日本で飼育されているニワトリの92%以上がこのゲージ飼いだ。日本人が普通に食べている卵、スーパーから買ってくる卵は全部これ。「森のたまご」であろうが「ヨード卵光」であろうが全部これ。ひとたびそこに入れられたら最後、彼らは羽を広げることはおろか、歩くこともできない。そこには金魚鉢の金魚ほどの自由もない。

 想像してみてほしい。狭い籠にギュウギュウに詰められ、絶望の中で暮らす毎日を。おそらく世界中の生き物の中で、最も自由を奪われている生き物が彼らだ。生きること自体が地獄の日々。叫びたくなるような過酷な日々。実際に泣いてもいよう。叫んでもいよう。生産効率が何よりも優先された飼育方法の行きついた先がこれだ。過密状態で大量に飼育される「工場」の中で、鶏たちは苦しみ、もがき、絶望しながら短い一生を終える。

 ヨーロッパではすでにこのケージ飼い養鶏は禁止となっている。それは「動物福祉」という考え方から来ている。アメリカでも6つの州で禁止が決まっていて、その輪は年ごとに拡大しているという。経済動物ではあるけれど、処理される直前までその動物らしい暮らし方が保障される。いのちの尊厳が守られる。
なんとか不幸な彼らをこの境遇から救う手立てはないものか。まず、その実態を映像で見てほしい。「ニワトリ、動物福祉、動画」で検索すれば彼らのリアルな日常を見ることができる。これが「安い卵」の背景にある現実だ。

それらを見ながら俺も考えた。これはニワトリだけの境遇ではないなと。我々日本の農民もまたこの「経済効率」で潰されかかっているし、多くの日本に住む人々の上にだって辛くのしかかっているのもこのモノサシから来る現実だ。
あまり大きなことは言えないが、ニワトリたちを企業養鶏から救済するだけでなく、あわせて「経済効率のモノサシ」自体を問い直すことが必要だろう。そうしないとニワトリ同様、我々もまた「生きて行く幸せ」を実感できぬまま終わってしまいかねない。ニワトリ解放戦線を作ろう!まず彼らを大地の上に解放だ。それとともに我々日本人。我々には何重にも籠があるが最後の籠を破って外に出た時が解放の時だ。経済効率のカゴと日米地位協定、アメリカのカゴ。


歯を見失った。入れ歯のことだ。下の歯の真ん中から少し左に三本、10年ほど前から部分入れ歯にしていた。そこはモノを噛むとき一番活躍するところで、無くなれば大いに不便で、まるで年朗さんみたいだ。年朗さんとは近くに住んでいる先輩で、半分ぐらい歯がない。モノを食べてもほとんど噛めずに、舌で丸めて飲んでしまう人だ。時々大きく口を開けて「フェッ、フェッ」と笑う。年齢よりも10歳は老け見えた。
「早く歯を入れないと身体を壊すよ」と忠告したが、笑うだけで歯を入れようとはしなかった。やがて年朗さんは身体を壊して入院してしまった。だから言わんこっちゃないと思っていたけど、今の俺はその年朗さん状態だ。たぶん見た目も悪かろうとわざわざ大口を開けて笑ったところを家族に見てもらったが、この点はまだ大丈夫だという。歯がない事までは分からないらしい。あとはかみ合わせだけだ。見失ってからもう5カ月。早く見つけなくちゃ。家の中にあることはほぼ間違いあるまい。
「えー、またか〜!」家族のこんな声を何回聞いただろう。家族だけでなく、歯医者さんまでもがうんざりした顔で俺を見る。当然だろうな。入れ歯を使いだしてから10年、今回で歯を失くしたのは9回目になるのだから。
初めて歯を作った時は「菅野さんは外で話すことが多いから、滑らかに話すためにもいい歯をお勧めるよ」とまぁ、こんなことだった。そこで勧められるまま大枚をたたいて30万円。でもその寿命はわずか半年だった。ピッタリと歯が入るのだが、つけ慣れないせいで少し圧迫感があるのが気になって歯を時々口から外してしまう。それが失くしてしまう全ての原因だ。
1回目は外した歯をチリ紙に包んで居間の机の上に置いていた。それを使用後のチリ紙と間違えられ、ゴミ箱へ。ゴミ箱からゴミ配送車へと30万円が消えて行った。次に作ってもらったのは家族の手前もあって、もう少し安いのにしたが、それも1年と持たなかった。次が・・・なくなるたびに入れ歯のグレードが下がって行く。最後の8番目の歯は国民健康保険で入れた9千円のもの。たぶん30万円から、国保で治した9千円まで段階を踏んでほぼ全てを試したのは日本広しといえども俺ぐらいだろうか。そこでの発見だけど、使った感じは30万円も9千円もほとんど変わらなかったよ。これって後に続く者にとってはとても心強く、かつ貴重な体験なのではないか。
えっ、今かい?歯はまだ入れてない。見失ったままだ。歯医者さんに「9回目ですが・・作ってください」
とはいえずに家族のヒンシュクを買いながら家の中を探し回っているよ。


ツバメが来てくれた!
昨年、夫婦ツバメの一羽が猫にやられ、残されたツバメはそこから去って行った。そのツバメが残して行った巣に、今年、新しいツバメ夫婦が来るようになってほぼ一週間。
卵はまだ産んでないからか、今は外から通っている。
定着してくれるかどうかはイマイチ分からなかったが、たぶん間違いない。良かった。
玄関の戸は終日開けてある。



つばめが飛ぶ季節になった。今年、我が家に来てくれるのだろうか。複雑な気持ちで空を眺めている。というのはこんな背景があったからだ。
 昨年の6月、我が家の玄関の内側に巣を作り、卵を産んだばかりのツバメが1羽、猫の部屋に引きずり込まれて冷たくなっていた。巣では残された1羽のツバメが、卵を温めることなく、いつまでももう1羽の帰りを待っていた。
 2年前、子ツバメがスズメに全部殺された時には、安全なところに巣を移し、もう一度卵を産んで育てたのだが、今度は夫婦の一方が殺されたのだ。
果たして立ち直ることができるか。結局、数日間、連れ合いの帰りを待っていたツバメは、そのまま卵を温めることなくどこかへと去って行った。
 あれから1年たち、近所の友人が「ツバメがきたよ」と教えてくれた。果たして我が家に戻って来てくれるだろうか?来てほしい。そう思いながら、空を眺める日が多くなった。玄関を終日開放して待った。
 それから20日経つが我が家にツバメはやって来ない。もうだめかもしれない。玄関の戸を閉めよう。そう思っていた。
 ところが今朝、突然、玄関先からツバメのにぎやかな鳴き声が聞こえて来た。「えっ、まさか!」
ツバメだ。2羽のツバメが内玄関の中で戯れている。来てくれたのか?いや、まだ分からない。立ち寄っただけかもしれない。それから夕方まで、何度も空を見あげた。近くにはいる。でも、我が家におさまってくれるか、その確証はない。

 まるで恋しい人を待つかのような気持ちだ。


眠っていた服の整理をした。

そのほとんどが古くなったもの、色落ちしたもの、シミができたものなどで、捨てずにしまい込んでいたものだ。それというのも農作業用に回せばまだまだ使えるからで、洗っても落ちない油じみなどもあるが、それだけなら作業着として全く問題はない。破れて役にたたなくなるまでまだまだ使い続けることができる。こんな風に見ていくと捨てるものなどはほとんどなくなってしまう。
 靴下もそうだ。片一方に穴が開いても捨てることはない。穴の開いてないものを持ってきて新しく組み合わせればいいだけのこと。

 「あれ、菅野さん、新しいファッションですか?」
左右違う模様の長くつを履いて町に出た時などはこんな声をかけられたりもする。そうかファッションになるか!確かに人目を引くだろうな。 

 世は断捨離だという。でも、いったん買ったのであれば、後は使い切ればいい。そして補充しないことだ。そうすれば自然にモノが減って行く。まだ使えるのにあえて捨てるのは私にはなじめない。少なくとも農村では昔からこのように暮らして来た。こんな考え方の底流にあるのは「足るを知る」暮らし。

 近年、大企業の社長の年収がどうだの、資産家の娘がこうだのという話も耳にするが、金銭的豊かさは人を育てない。過剰な資産は子々孫々に渡っておバカさんを作るだけだ。不幸の種をつくるだけだ。
「子孫のためには美田を買わず」といった西郷さんではないけれど、もしそんな資産があったなら苦しんでいる人たちにあげればいい。その結果、やがて資産家の子息が我々農家のように、いつか使う日のことを考えて、段ボールに古い作業服を貯めだしたとしたら、それはまともな道に立ち返れたということではないか。めでたし、めでたしということだろうな。






我らの松尾君が本を書いた。
「居酒屋のおやじがタイで平和を考える」(1,600円:コモンズ)。

「イサーンの百姓たち NGO東北タイ活動記」に次ぐ、タイと日本をつなぐ草の根民衆運動の実践本として2冊目の本だ。
著者の松尾君は神奈川県横須賀市で「居酒屋・百年の杜」を営んでいる。それが本業ではあるが、彼には世に知られたもう一つの顔がある。それは彼がタイ語通約の達人であるだけでなく、今も日本と東北タイをつなぐ市民、農民活動の第一人者であるということだ。
同時に彼は「アジア農民交流センター」の事務局長でもある。私もその一員だが、そう聞くとどっか堅苦しく、とっつきにくい印象を持つけれど、決してそんな人ではない。何しろ居酒屋のおやじなのだから。長い交流を続けて来た日本各地の百姓を始めとして、多くの人たちからは「まつおくん」と親しまれ、東北タイの人々からも「ゲオ」と愛称で呼ばれる、とにかく「良い奴」なのだ。
日本でもタイでも彼を悪く言う人はまずいない。でも、たいがい「良い奴」が書いた本ってつまらない、読みたくない本が多いと相場が決まっている。しかし、物事には例外はあるもんだ。この本がまさにそれ。読んでみて面白い。そして勉強にもなった。東北タイの人々の現状とその取り組みが、彼の暖かい目線を通して見事に描かれている。
タイへの第一歩が寿司屋のアルバイト先で、そこから長い付き合いが始まったというのも彼らしい。やがてJVC(日本国際ボランティアセンター)の活動に関わり、JVCタイの現地代表として東北タイの農民の「生きるための農業」を支援してきた。
この本に書かれているそれらの実践は、日本とタイの普通の人たちが産みだした最良の実践記録なのではないかと思う。
ぜひ、一読を勧めたい。


もし、あなたが稲作農家の友人でしたら、ぜひ、この文章を最後までお読みください。決して長い文章ではありません。

以下

春。なんといっても我が家は米の生産農家だ。雪解けと同時に気持ちは高ぶり、田んぼに向かう。
作業の手始めは種籾の消毒作業だ。種籾に付着している「いもち病」、「バカ苗病」などの雑菌を退治する重要な仕事で、この作業をおろそかにすれば、苗の生育にダメージを与えるだけでなく、秋の収量にも大きく影響する。このため、多くの農家は完璧を求めて農薬を使っているが、我が家では30年ほど前からそれをやめ、薬によらない方法でおこなっている。

それは「温湯法」と呼ばれている方法で、モミを60℃の温度に10分間浸すだけの簡単な方法だ。60℃という温度は生玉子が白く固まり、ゆで卵に変質していく温度。種にとっても危険な温度なのだが、漬け込む時間を守りさえすれば、ほとんど農薬使用と同じぐらいの効果を上げることができる。更にこの方が農薬代はかからないし、使用後の廃液に頭を悩ますことも環境を汚すこともない。私がこの方法に改めたのはある事件がきっかけになっている。その事件とはこんなことだ。

「チョット来てみてくれ。大変なことになった。」緊張した表情で我が家を訪ねてきたのは近所で同じ米づくりをしている優さんだった。急いで行ってみると優さんの池の鯉がすべて白い腹を上にして浮いていた。その数、およそ60匹。上流から種モミ消毒の廃液が流れてきて我が家の池に入ったに違いないと優さんはいっていた。こんなことになるとは・・それらの鯉は優さんが長年かけて育てて来た自慢の鯉だった。

農薬の袋には、魚に対する毒性があるので使用後の廃液は「適正に処理するように」と書かれている。農協も、河川に直に流さず、畑に穴を掘り、そこに浸透させるようにと呼びかけていた。でも、畑に捨てたら土が汚染し、浸透させれば地下水だって汚れかねない。また浸透させたつもりでも雨が降って、再び表面水となり流れ出すことだって充分考えられる。たいがいの農家は廃液を自分の農地の下流に捨てていた。一軒の農家の下流はもう一軒の農家の上流にあたる。そんな数珠つながりが上流から下流まで続いていた。更にひどいことに下流では飲み水にも利用している。そのため、廃液をどうするか。種モミの殺菌効果は完璧だが、毎年おとずれるその処理に頭を悩ましていた。そんな中での優さんの事件だった。


そこでであったのが「温湯法」である。この方法を教えてくれたのは、高畠町で有機農業に取り組む友人。方法はきわめて簡単で、しかも、単なるお湯なのだから環境は汚さないし、薬代もいらない。モミの匂いを気にしなければ使用後、お風呂にだってなってしまう。なんともいいことずくめの方法なのだ。
 へぇー、こんな方法があったんだぁ。始めて知ったときは驚いた。いつのころから行われていたのか詳しくは分からないが、あっという間に広がっていくだろうと思っていた。もちろん私も近所の農家に進めてまわったのだけれど、我が集落で同調する農家はごく少数。どうも私には技術的な信用がないらしいとしばらくの間、あきらめていたのだが、先日、農業改良普及センター経由で山形県のうれしいニュースにであえた。

 山形県では「温湯法」で種子消毒をする面積はずいぶん増えて、全水田面積の28%に及ぶと言う(平成29年)。少しずづ増えてはいると思っていたのだが、これほどまでとはおもわなかった。いらっしゃったのですねぇ。ねばり強く環境を壊さない農法の普及に取り組んでいた方々が。久しぶりにいい気持にさせていただきました。俺もあきらめずにがんばるべえ!そんな気持ちになりましたよ。

まだまだ毒性をもった膨大な量の廃液が日本の河川から海へと流れて行っている。どうぞ皆さん!お取引のある農家があれば、くれぐれも農薬に寄らない「温湯法」を進めてください。必ずお近くに「温湯法」の農家がいるはずですから。今年はまだ間に合います。