ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

 あけましておめでとうございます。

 皆さんはどのようにお正月を過ごされたでしょうか?
我が家族は当然ことながら、まったく普段と変わらない暮らしでした。ニワトリにエサをやり、玉子をとってパック詰め、曜日がくればそれを配達する。変わったのは元旦の朝、お酒をいただいたのと、伝統的な風習に従って、決められた料理で食事をしたぐらいのことでしょうか。

 あらためて年頭のご挨拶をいたしますが、今回はお正月の間に読んだ本を紹介させてください。

 山形市に齋藤たきちさんという農民がおります。その方が昨年の秋「北の百姓記(続)」(東北出版企画)という題名の本を出版されました。一昨年に出された「北の百姓記」に続いてのことです。両方とも読み応えのある本です。どんな本かを「書評」風に書けば・・こんな本です。(以下)


 三十五年ほど前になろうか。まだ私が東京の学生だったころ、よく読んでいた書物の中で幾度か「齊藤たきち・山形県・農民」の著名入りの文章に出会った。
当時、私は農家のあとつぎとして期待され、農学部に在籍してはいたものの、その道がいやで、何とか田舎に帰らない方法はないものかと考えていた。そのくせ、人生の方向を見つけられないまま、成田で起こっていた農民運動などに顔をだしていた。

 その時のたきちさんの文章は、同じ農民という立場から、運動を担う成田の農民に心を寄せて書かれた、どっしりとしたものだった。農民であることに誇りをもつ、土の香りがする文章だった。
「山形にもこんな方がいるんだ。」同じ山形県人であることに親近感をもちながらも、当時の私にそれらの文章は重くこたえた。

 やがて私も農民となるのだが、その時以来ずっと今日まで、「齋藤たきち」の名前はいつも気になる存在として私の中にあった。

 齊藤たきちさんは山形市門伝で農業を営むかたわら、農民の立場から詩をつくるなどの創作活動に精力的に取り組んでいる方だ。山形県を代表する詩人で野の思想家、真壁仁がおこした「地下水」の同人でもある。

 そのたきちさんが昨年の秋、「北の百姓記(続)」(東北出版企画)を出した。一昨年の春に出版された同名の本の続編である。「あとがき」に、先に出した本には「六十年余に渡る私の『百姓暮らしの叫び』」を、このたび出した続編には「百姓としてどう生きているか」を書いたとある。

 読みながら、三十数年前の感情がよみがえってくるのを感じた。たきちさんはずっとあの時の姿勢のまま生きてこられたのだ。

 彼は単なる知識人ではない。それは彼の広い肩幅と、厚い胸、がっしりとした体躯をみたら分かる。田畑に働くことでつくられた身体だ。そこから出てくる情感、思想を詩人の言葉でつづったのがこの本である。作物や郷土に対してそそがれる目がやさしい。

 たきちさんは自らを「百姓」という。彼にとって百姓とは単なる職業なのではなく「生き方」そのものである。
まさにこの本には、土の上で懸命に生きてきたひとりの百姓、齋藤たきちの生き方があり、哲学があり、世界観があり、詩がある。
 
 そのたきちさんがついに自分を「最後の百姓」と呼ぶに至った。そこまで彼を追い詰めたものは何なのか?我々とて決して無縁ではない。

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 書評風の紹介はこれで終わりです。たきちさんは今月の21日、真壁仁を記念して設けられた「野の文化賞」」を受賞されます。

 この二冊の本は、農業に従事されている方だけでなく、広く社会人、学生にも読んでもらいたい本です。

ナンカ、オオマジメニ、カタッチャッタナ・・・。




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お忙しい年の瀬をお過ごしのことと存じますが、ちょこっと、ご注目ください。

新年の1月1日、私どものレインボープランの取り組みが放映されます。

NHK総合TV 午後7:20〜8:43
    NHKスペシャル『ふるさとからのメッセージ』

    司会  春風亭小朝 武内陶子アナウンサー
         ゲスト 内橋克人、加藤登紀子 大林宣彦 ほか

過日、NHKのディレクターがまいりまして
「閉塞している日本社会の中にあっても元気な地域がある。新年にそんな地域を紹介することで元気を出そうというメッセージにしたい。」
ということでした。

「いやいや○○さん、長井市は全国でも財政危機ワースト11番目にいる自治体ですよ。破綻寸前なんだ。」
「それは知っていますよ。でも、住民が元気だ。こんなまちは他にありません。番組の『おおとり』にと考えています。」
「えーっ、私たちの事業が?そんなもんですか?」

そんなことで取材となったのですが、もし、あなたがほろ酔い気分で、退屈な時間をお過ごしでしたら、どうぞ見てやってください。

どうでもいいことなのですが、わたくしめは出ていません。ハナミズ垂らしながら、寒さにふるえて農作業をしていました。 
   

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たいへんお待たせいたしました。ようやく「稲刈り」が終わりまして、今日から再開です。なんか、文章の書き方をすっかり忘れてしまったかのようです。気楽なニワトリの話は「ぼくの・・・」へ、それ以外の文章は「虹色の・・」へ。それぞれが重複している文もあるので、バックナンバーの文章も含めて、雪が降ったら休んで整理しなければと思っています。それではおのおの方、これから・・参りますぞ。

里にも何度か雪が降った。春まで消えない雪を指して「根雪」というが、いまやそれがいつ来てもおかしくはない時期に入っている。例年ならば、消えたり、降ったりを数回繰り返したうえで、ドカッとやってくるのだが、昨年は初雪がそれだった。「まだ大丈夫だよ。」とタカをくくっていた農家は大いにあわてた。でもあとのまつり。収穫すべきたくさんの越冬野菜が、雪の下でそのまま春を迎えることになった。

「農家は・・・」なんて、他の人のようなことをいっているけれど、この辺がぼくの限界でしょうか。お察しのように自分のことなのだけど。
 
何しろわが里は毎年2m弱の積雪を記録するところ。根雪はいつ?明日か、明後日か・・・、その時期がせまってくると、人びとは家や畑の周りを走り回るようになる。野菜の取り入れ、家や庭木の雪囲い、果樹の支柱たて・・もちろん雪の下で潰れてしまうようなものは外に放置することはできない。やるべきことはたくさんある。さすがに12月も半ばとなると、すっかり冬の準備を終えている農家がほとんどなのだが、横着なぼくは例年のように、まだ半分しかすんでいない。肝心の鶏舎の雪囲いがまだ終わっていないのだ。

「よしひで、早くしないと雪がくるぞぉ。あっちだこっちだと農作業をほっといて飛び回っているからこんなに仕事が遅くなってしまったんだ。世間に笑われるぞぉ。みっともなくてはずかしいごとぉ。外に出て行くのはやめて、はやくしんなねごてぇ。」
88歳と84歳の両親は嘆く。嘆かれるのは50代になったぼく。情けない話だが、毎年のことだ。

 冬の間、ニワトリ達は鶏舎の中ですごす。屋根があって、四面が金網で、新鮮な空気が通り抜けていく。春から秋にかけては快適だが冬はまったく事情が違う。雪囲いをしなかったら大変だ。金網を通して吹雪が容赦なく入り込み、一晩で中は真っ白になる。鶏舎の中で積雪10cmとなることもめずらしくはない。そうなると寒さと冷たさでニワトリ達は動けない。すみの方でひとかたまりとなってじっとしている。

 やがて雪が解けても床はどろどろ、田んぼのなかにいるような状態になってしまい住まいとしては最悪だ。玉子を産むどころではなくなってしまう。鶏舎のなかにぼくが入っていくと
「どうにかしてくれよなぁ。やってらんないよお!もっとしっかりしてくれよな。」
ニワトリからもそんな嘆きの声が聞こえてくるようでなさけない。

スコップを持ってきて丹念に鶏舎の雪をかたづけ、乾燥したモミガラを厚く敷き詰めることで何とか過ごしやすい環境をつくるのだが、ダメージは大きい。ニワトリとぼくとの「信頼関係」にもきっとひびが入っているはずだ。

鶏舎を金網の外から透明なビニールで囲い、板を打ち付け固定する。固定があまいと、吹雪がいっぺんにビニールをはがしてしまい、ビリビリと破いてしまう。吹雪の破壊力は大きい。
 
もっと早くからやればいいものを、いつもぎりぎりにならなければできない性分。毎年、雪降りのなかでの作業となる。ハナミズを垂らしながら、冷たさで手がかじかむのを耐えながら・・でも、ま、こんな作業も嫌いではないけどね。ヘッ。

 ピリピリするような寒さのなかで、かがんだり、伸びたり、釘を打ったり、ビニールをはったり、・・・していたら
「おい、腰を壊すなよ。」といいながら、幼なじみの正さんが手伝いにきてくれた。こりゃありがたい。あんたにはいつも助けられるなと礼をいいながら、ハナミズを垂らしながらの作業を続けたのだった。

 写真は手伝いに来てくれた正さんと雪囲いの様子。


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お待たせいたしております。
まだ稲刈り中なのです。もう5、6日はかかります。私は九州は佐賀県の山下惣一さんとともにアジア農民交流センターの代表であり、10月14日には毎日新聞から「国際交流賞」をいただいたことを記念して、早稲田奉仕園にて大切なシンポジュームがあり,私が基調的な話をする予定(とはいっても挨拶程度のものですが)でしたが、参加できる状態ではありません。どうしてこんなに遅れてしまったのでしょうか?それが問題です。実は私の住む長井市で11月に市長選挙があり・・・、このことはおいおいお話しすることもあるでしょう。ま、そういうことでブログの更新は出来ないで居ます。もうちびっとお待ち下さい。
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  田んぼは今、黄緑(きみどり)。少しずつ黄色に近付いている。その黄色、年によってはまばゆいばかりの黄金色になることがある。その美しさといったらたとえようがない。長年田んぼの秋を見てきたこの私でさえ、しばらくそこから動けなくなるほどだ。今年はどんな色になってくれるのか。

 もうじき稲刈りだ。出穂は例年に比べ10日は遅れていたから、今月の下旬ぐらいからだろうか。種まきから今日までに、たくさんの出来事があった。もしかしたらこのブログを見ているあなたは「菅野がまじめに百姓しているわけがない。」と思っているかもしれないので、ちょっとまじめに・・・・こんなことがあった・・・と。

 今年は長い梅雨で、ほとんど一ヶ月、毎日、毎日が雨降り。全身にカビが生えてくるのではないかと思えるほどだったよ。日照不足と、ときおり「あれっ」と思うような低温のなかで、稲の成育は進まない。
  
 こんな気候のときは「いもち病」が心配で田んぼの周りを幾度も見て歩いた。農協の広報も「いもち病注意報」を出して気をつけるよう呼びかけていた。
 いもち病とは一種のカビがつくりだす病気で、葉につくと緑の葉に点々と茶色の斑点ができる。それがみるみるうちに増えていき、やがて稲の体ぜんぶが萎縮したようになって枯れていく。葉のいもち病が軽度ですんでも、それで終わりなのではなく、やがて穂のいもち病に変わっていく場合が多い。ひどい場合は、田んぼ全体が茶褐色になり、全てが枯れ上がってしまったかのように見えるほどになる。そうなると悲惨だ。大きな減収は当然だが、残った米も貧弱でまずい。やっかいな伝染病だ。
 これにかかると、農家は気落ちのあまり「火をつけて燃やしてしまおうか。」と思うほどだ。私はまだ経験がないけれど、恐ろしさは充分知っている。

 雨と曇天が続き、高温多湿。いもち病の蔓延する条件は充分にそろっている。実際、あっちこっちの農家から「ついに発生」の声が上がっていた。すでに農家は一度目の防除を終え、二度目の準備を進めていたが、我が家はまだやっていない。
 私は何度か田んぼを見て回っていた。そしてある日、ついにいもち病を発見。まだ軽度だけれど、堆肥が多く落ちて、稲の葉色が濃いところにチラホラと発生している。ザワッときた。

 地域づくりだ、レインボープランだといって田んぼをはなれる機会が多い私は「それ見たことか、あいつの田んぼは・・・」と言われることのないように、田んぼの管理には他の人よりいっそう気を使っていた。その上更に、周りの農家には農薬を減らそうと呼びかけていたのだから・・大きな被害が出たら影響は決して小さくはない。やばい。

 天気予報を見れば、これからも長雨は続くらしい。長年、殺菌剤、殺虫剤をやらずに来たけれど、今年は止むを得ないと思えた。ここはひとまず殺菌剤をやろう。そう決断せざるを得なかった。お米を待っている関西や関東の人たちの顔が目に浮かんだ。

 その後は暑い夏がもどり、いもち病の心配はなくなったのだけれど、あの時点では仕方なかったと思っている。だけど・・・。

 今年もようやく収穫の秋が近付いてきた。でも、思いは複雑だ。

 おもわず目を細めてしまうほどの輝きをもつ黄金色の田んぼは、朝晩の気温が低く、日中は高温だという天候が条件だという。

 今年の田んぼはどんな色を見せてくれるのだろうか。


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夏のあさの水田風景は美しい。
朝霧の日はことのほかロマンチックで,太陽が上るにしたがって、乳白色の中から少しずつ緑の水田が広がっていくさまは「神様」がいるのではないかと思えるほどだ。

 ようやくお盆が終わり、帰郷者やその子ども達で賑わった村はいつもの静けさを取り戻している。家々のおなご衆は勤めを果たした安堵感にホットしているところだろう。実際のところ、お盆が近付いてくると、家の内、外の大掃除や、障子の張替え、お客用のフトン干し、仏壇の飾りつけ、それに料理をどうする、お酒は大丈夫か・・・というたくさんの準備があり、とにかく気ぜわしい。

お盆が来たらきたで、客のもてなしにおおわらわだ。嬉しいやら、気を使うやら、疲れるやら・・・お盆が終われば、村の病院は高血圧が悪化したり、腰が伸びなくなったおなご衆でどっと混雑する・・・それはないか。いいや、あるかもしれんぞぉ。

女房の友人に、お盆に帰郷してきた義理の兄弟、姉妹に
「久しぶりでしょうから、ゆっくりと親子水入らずのお盆を過ごして」と夫の両親をおいてさっさと夫婦で旅行にいく人がいる。これはいい。これだと迎える長男夫婦にとっても無理がなく、お盆の来るのが楽しみだ。おれ達も来年はこれをやろうかな。でも、頑固な両親はそれをゆるさないだろうな。帰ってくる妹は気が強いから、あとで妻が一層つらくなるかしれないし・・・。そんなわけで先の友人の例を知ったのは今から10年ほど前のことなんだけど、まだ実現できていない。実家は何かと難しい。

 さてと、こちらのお盆は祭りの季節でもあり、この地方のお祭りには必ず「獅子」が出る。頭が獅子、胴体が大蛇、全長10メートルほどの胴の中には10名ほどの若者が入っていて神社の境内や街道をねり歩く。初めて見た人はその迫力に驚かされる。子どもなら泣き出すぐらいだ。その獅子にまつわるいわれが面白い。

 昔(こういう書き出しがいいね)、平安時代のころ、京の都から天皇の御世に従わない東北の豪族を平定しようと、源義家を大将としたたくさんの軍勢がやってきた。
 しかし、東北の人たちは互いに連合し、互角以上に戦い、京の軍勢を幾度も跳ね返した。このままでは負けてしまうと思った源義家は策をめぐらし、豪族の娘にラブレターを送る。
「あなたと結婚したい。そしてあなたのお父さんと都で一緒に暮らしたい。」と。

「都の人はウソが多いから、決して信じてはならない。」という父の教えを忘れ、いつしか義家の意のままに砦の弱点を教えてしまう。
「だまされた!」
でも、気がついた時にはすでに遅く、京の軍勢はどんどん攻め込んでくる。
「私のおろかさによって・・・」
多くの村人が殺されていくのを見ながら娘は朝日連峰の山深く、渓谷に身を投げて死んでいく。

 以来、その娘、卯の花姫は村の守り神となって、頭が獅子、胴体が大蛇の「獅子」をつかわし、今日まで村々の平安、豊作を守り続けているというわけだ。

 恋文を「戦術」にしたのかぁ。きっと源義家は女にもてた京の遊び人だったのだろうけど、田舎のオレなどは今の感覚でも「そこまでやるか」と思う。それに「都の人はウソが多いから決して信じてはいけない。」というくだりが面白い。1000年以上も前からこのような教えがあったのか。オレももう少し早くからこの教訓を知っていたら・・だからといってどうしたというわけではないが・・。

 お盆はおわった。村に静けさがもどった。盆を迎えた村の話と卯の花姫の物語とを一緒に思いながら・・・とうとつだけれど・・・みんな幸せになってほしいと思う。



              


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 ぼくは身体が大きい。ふざけて「もとプロレスラーです。」と自己紹介することもあったが、最近では少し太ってきたこともあって、「百姓になる前は相撲取りでした。」といっている。我ながら情けない。痩せなくてはと思う。けっして贅沢な食事をしている訳ではなく、畑の自家野菜中心の質素なものなのだが・・・。

一方、我が家のニワトリ達には太った奴はいない。みんなスラッとしたいい格好をしている。それは育て方に由来している。

大切なのは運動と食事だ。放し飼いなので、運動量は充分だ。問題は食事で、意外な印象を受けるかもしれないが、ニワトリたちに与えるエサは粗飼料だ。粗(末な)飼料(エサ)といえば聞こえが悪いけれど、満腹にはなるが必要以上の栄養をとらないように考えられているエサだ。例えばエサの中に約10%のノコクズを入れている。お腹がいっぱいにはなるが栄養はない。

他方、ゲージ(カゴ)に入れられている企業養鶏ではニワトリ達に濃厚飼料が与えられている。最も効率よく卵を産むように考えられたエサだ。文字通り、濃厚な高栄養、高カロリー。その結果、どんどん身体が大きくなり、性成熟が進み、生れてから150日ぐらいで5割産卵となる。産卵率は80%を越えるが、たった一年で身体はぼろぼろになってしまい、淘汰される。

粗飼料を与える我が家のニワトリは、運動しながらゆっくりと身体を作っていく。性成熟は遅く、5割産卵は180日以降になる。人間で言えば20歳を過ぎて、身体をしっかりと作ってから玉子を産むようにということだ。それから2年。平均産卵率は60%に届かないが、クスリに頼らずに、いつまでも元気でおいしい玉子を産み続けてくれる。

これは野菜や稲などの作物にもいえて、栄養たっぷりに育てられたものは、身体はでかいが病気に弱い。生きていくためにはクスリの助けが必要だ。見かけはともかく、中味は一人前の健康な作物とはいえない。

ぼくは191cm、105kg。大きすぎだ。ということは・・・一人前の健康な人間ではないということか。そういえば、性成熟も早かったような気もするし・・・。

やっぱりご飯を減らそう。そう思い、食事を途中で止めたら、88歳の母が声をかけてきた。

「なんだお前。ダイエットで痩せようとする百姓なんかいるもんか。たくさん喰え。そして思いっきり働け。百姓は働いてやせるもんだ。」

・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・だとさ。







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おもしろいねぇ。どうしてこうなのだろう。
遊び、愛情表現、ケンカ、散歩、虫を追いかける姿・・・ニワトリたちを見ているといつまでも飽きることがない。それに彼らの一つ一つの行動が人間社会に重ねることもできて、おもわず苦笑してしまうことが多いんだよなぁ。

例えば食事風景だけどね・・。ニワトリたちは三種類の食事をとっている。トーモロコシ、カキガラなどが入ったいつもの「定食」に、野菜くずや草の「サラダ」、それに「日替わりランチ」と呼んでいる学校給食の残りものだ。このランチ、当然のことながら種類が多く、ひじきの煮もの、煮魚、ポテトサラダ、かぼちゃの煮つけ、スパゲッティーなどさまざまだ。

 ニワトリたちは、このランチがことのほか楽しみらしく、トラックに積んで近付いていくと、それを察して、近くにいる者達だけでなく、遠くで遊んでいた者達も「キャッ、キャッ、キャッ」と大きな歓声をあげて駆け寄ってくるほどだ。 これをタライに小分けして部屋ごとに与えるわけだけど、それぞれの鶏舎の戸を開け、彼らの中にドスンと置くと、間髪入れず、すさまじい勢いで飛びついてくる。面白いのはここからだ。

 夢中でタライを突っつく群れの中から、なにかを口にくわえてサッと部屋の隅っこのほうに逃げ出すものが必ずいる。自分が見つけた「いいもの」を独りじめしようという魂胆のようだ。

「いるいる、こんな奴が、人間社会にも。」

ところが、これを横取りしようと追いかけていくものが、これまた必ず出てくる。

「うん、これもいるぞぉ。」

争奪戦の結果、たいていの場合、その「いいもの」は持ち出したニワトリの口には入らず、結局は追いかけていったニワトリか、さらにそのニワトリを追いかけた第三のニワトリに奪われてしまうのだ。

「これも同じだよなぁ。」

それでも最初のニワトリは、食事の間中、懲りずに同じことを繰り返しているからおもしろい。

実際のところタライの上には、同じものがたくさんあり、何も逃げ出さなければ食べられないものではないのに・・・。現にタライの前から動かずにもくもくと食べているニワトリもいるのだから。

「大局観が欠落しているというか、目先の欲に振り回されて、自分を見失っているというか・・・。結局ソンをするのはこういうものたちなんだよなぁ。」

 口にくわえて逃げ出すもの、あわててそれを追いかけるもの、動かず、ただもくもくとたべているもの。どちらがいいというのではない。いろんなニワトリがいていいのだ。社会というものはそういうものだし、だからおもしろいともいえるのだから。

あっ、そうそう、ここから何か教訓を引き出してやろうという訳ではないんだよ。ただおもしろいと・・。それだけなんだけれどね。

ニワトリたちは今日もにぎやかにそれをやっているよ。



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 「労働情報」誌の「時評・自評」欄に掲載した文章です。写真は鶏舎の修理をしている息子です。「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」はまだ書いていません。これからです。


 我が家の農業経営は、水田2ヘクタールに畑が少々、それに自然養鶏900羽。山形県の朝日連峰の麓、純農村地帯の一隅で農業を営んでいる。80代の両親と50代の我が夫婦。そこに昨年4月、農業専門学校を終えた息子が帰ってきた。以来、今日まで、田んぼだ、畑だ、ニワトリだとよく働いている。

 「あんなに働いてくれて悪いなぁ、もごさいなぁ(かわいそうだなぁの意)。家のためなら、うんといいけど・・。でも、よろこべないなぁ。気の毒なような、かわいそうなような・・。こんなことさせていていいものか?このまま歳とらせていいものかといつも思っているよ。」

 息子が出かけた夜に、88歳の母親はため息まじりに話す。

「家の犠牲になっているのではあるまいか。本当に百姓すきならいいけど、でもそうでなければさせられない。もごさくてよぉ、あの子のこと・・・。」

 現在の日本農民の平均年齢は60代後半。我が村の農家の平均年齢も67歳。昼間の田畑に若い人の姿は見当たらない。お米の価格は20年前と比べ、一俵(60kg)あたり1万円も安い。それに3割を超える減反があり、野菜は洪水のごとく海外から押し寄せ・・と、まぁ、こんな按配だ。若い人はとても就農できない。

 百姓仲間の造語に、「とき(時)が来る。トキになる。」という言葉がある。時代は生命系の回復に向かい、農業の価値がみなおされようとしているとは言うのだが、その到来をまえに、われわれ百姓は「佐渡が島のトキ」になっちまうよ、という意味なのだけれど、実感だ。

 日本に農業はいらないのかい?日本の穀物自給率はたったの27%。世界でも最低ラインに近い。「飢餓の国・北朝鮮」とはいうけれど、それだって穀物自給率は日本の倍の53%だ。日本の食糧事情はすでに破綻している。輸入によって事実が隠されているにすぎない。

 「もうすこし、あの子も世の中見えるようになれば、まだ歳若いから、大丈夫だから・・、何して生きていくか考えんなねごで。」

 88年間、いろんなものを見てきた母が、農業では幸せにはなれない、離れたらいいと話す言葉には説得力がある。でも、息子は充分そのことを知った上で、農業をやろうと帰ってきた。その気持ちが続く限り、それを支えてあげなければと思う。

若い百姓が一人生れたが、「トキ」に向かう流れは変わらない。
 


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ようやく機械で植える田植えは終わった。これからは田んぼの四隅が植えられていないので、手作業での田植えとなる。13枚の田んぼがあるからあわせて52箇所。21箇所はおわった。今日中には終わるだろう。もう少しだ。

下の文章は昨年のもの。ほとんど状況は変わらない。それぞれの年齢が一歳ずつ上がっただけだ。本文を読んでもらえれば分かるけど、息子が農業に就いたので、若い方から数えて4番目になったことが唯一の変化かな。

 

 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。
    
 今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。
 どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」

 意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う.
集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は65歳と高齢だ。

 私が20代中ごろで農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから29年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。50代中ごろの私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も、そのまま歳をとった70代、80代の先輩達に指示されて、箸だ、皿だと・・・。あまり考えたくはないが・・・。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」

 そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。

 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」

 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。

 「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

 村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

 だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。
 緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

 10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろうか。










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 田植えが始まり、水田は久しぶりに活気づいている。

 ここ数年、田植えと同時に化学肥料を根元に落とす便利な機械が広まり、田植えまでの作業がいっそう短くなった。田んぼに堆肥を撒いている私の作業が、どうしても遅れてしまう。

「まだかぁ、いつごろ耕運できる?」

 隣の田んぼの持ち主が、自分の田んぼに水を引き入れれば私の田にも浸透し、耕運しにくくなることを気づかい、声をかけてくれた。

「申し訳ないなぁ。もう少しまってけろ。」

 せっかくの春なのだから、畦の野花をながめ、残雪と新緑の朝日連峰の風景を楽しみながら、のんびりと作業をすすめたいのだが、周囲のペースがそれを許さない。腰の痛みに耐えながら堆肥を撒き続ける。実際のところ、この作業が終われば、米作り作業の半分がかたづいたような気分になる。つらい仕事だ。

 それでもなお、私が堆肥にこだわるのは、私たちは「土を食べている」と思うからだ。土など食べたことないという人もいるだろうが、みんな食べている。

 昨年、ある地域の水田で収穫された米に、重金属の一種であるカドミウムが含まれていると新聞で報じられたことがあった。米がカドミウムをつくったのだろうか?そんなことあるわけがない。植えつけられた土にカドミウムが含まれていて、稲がそれを吸収してお米にたくわえたということだ。農民にはなんの罪もなく、つらいだけの話だが・・・。

販売されているキュウリの中から、40年ほど前に使用禁止となり、とっくに使われていない農薬の成分が検出されて問題になったこともあった。土に残っていた。

米に限らず、すべての作物は、土のなかのいいものも悪いものも区別せずに吸収し、その茎、葉、実にたくわえる。だから私たちは作物を食べながら、その作物を通して、土を食べているというわけだ。土の汚染からくる作物汚染は、洗っても皮をむいてもどうにもならない。それこそ身ぐるみなのだから。

スーパーに行けば、海の向こうの農作物がたくさん並んでいる。私たちはそれらを食べながら、中国の、アメリカの、あるいは他のたくさんの国々の土を食べている。はたしてその土は安全か?食べるに足る土なのか?はなはだこころもとない。

“食は土からはじめよう”、“守ろう、育てよう、食べられる土”である。 堆肥散布は土を守る基本だ。はずせない。

田植え作業までもうすぐだ。たんぼに漂うほのかな堆肥の臭いがうれしい。

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 この文章は昨年、「虹色の里から」に書いたものです。「虹色の里から」には少しカタイ文章を、「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」にはちょっとクダケタ文章を書いています。



田植えの季節だ。

我が家ではこの4月から、息子が一緒に農業をすることになった。

 人生どの道に進もうとも「農と食」を学ぶことは人が生きていくうえでの基本を学ぶこと。こんなことを話し合って、高校卒業後、農業の専門学校に進んだ。卒業してからはどこに就職し、どこで暮らそうとお前の自由だよ、自由に選べばいいと伝えていた。それが我が家で就農するという。うれしいような、切ないような・・。私の身体は楽にはなったが、心中はいささか複雑だ。

 農業しようかなと最初に息子が話したとき、真っ先に反対したのはばあさんだった。

「なにもお前が百姓することないよ。苦労するのは目に見えている。いい野菜が欲しいならサラリーマンにでもなって、きちんと収入を確保した上で、農民に向かって『安全、安心の農産物を作ってください。私達も応援しています』と言っているのが一番いいよ。」

うまいことを言う。そばで聞いていた私は思わず笑ってしまったが、息子は方針を変えなかった。

「オレが結婚したならば、相手のひとを農家の嫁にはさせないよ。」息子がこう切り出したのは先日のことだ。「嫁は掃除、洗濯、食事など家事全般をこなしながら自分の仕事を続けなければならないべぇ。疲れていても、なかなかお義母さんやってよとはいえない。」

 母親を通して、女性が別の仕事を持ちながら嫁をやっていくことのしんどさを見て来た息子の一つの結論らしい。
だから仕事をもっている相手と家事を分担しながら町のアパートで暮らし、自分はそこから田んぼや鶏舎に通いたいと言う。それを女房に話したら、息子がそういうのなら賛成するよ、それに・・と付け加えた。

「あなたも結婚する前は私を農家の嫁にはしない、家事も育児も分担しようといっていたのよ。けど、理屈だけで実際にはできなかった。息子はアパートに暮らすことで親父のできなかったことをやってみようというのだからおもしろいじゃないの。」

 確かに大切なのは家族の形ではなく、それぞれの人生をそれぞれが納得して過ごしていくことだ。一般論としてなら分かる。でも、だからといって通いで百姓ができるのか。家畜と一緒に、土と一緒に暮らしながらというのが我々農家の基本だと思うのだが。

 息子は村の消防団の一員となった。夕方、農作業を早めに切り上げ、団のはっぴを着て勇んで出て行った。やがてまちで暮らすとしても、村を守る構成員としてがんばっていくということだろう。これも彼の選択だ。

 夫婦一緒に身体を使って農業をやってきた父母の世代。共稼ぎの我々の世代。そして息子達の世代。家も、地域社会も、農業も少しずつ変化していっている。

 我が家の、息子を含めたあれやこれやの物語がこれから始まっていく。

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