ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
たった今、7年越しで書いて来た「タスキ渡しの思想ー七転八倒百姓記」(仮題)がようやく脱稿した。
農作業やあれやこれやの取り組みに忙殺され、その上、病気になったり・・と、何度か中断したが、ようやく岸辺に辿り着いた。 なぜ百姓になったか。その後、何と闘い、どう生きて来たかなど、下手な文章で綴っている。 いまどき本など・・それも、どこの誰かも分からない百姓が書いた本なんか読んでくれる人がいるか・・どうかは全く分からないが、書いてみた。 出版されたわけではないので、決してあなたが負担に思う必要はありません。ただ、終わったことがうれしくて・・・。 |
たった今、7年越しで書いて来た「タスキ渡しの思想ー七転八倒百姓記」(仮題)がようやく脱稿した。
農作業やあれやこれやの取り組みに忙殺され、その上、病気になったり・・と、何度か中断したが、ようやく岸辺に辿り着いた。 なぜ百姓になったか。その後、何と闘い、どう生きて来たかなど、下手な文章で綴っている。 いまどき本など・・それも、どこの誰かも分からない百姓が書いた本なんか読んでくれる人がいるか・・どうかは全く分からないが、書いてみた。 出版されたわけではないので、決してあなたが負担に思う必要はありません。ただ、終わったことがうれしくて・・・。 ...もっと詳しく |
この夏休み、学生たちと話し合う機会があった。
その時気付いたのだが、学生たちは男も女も自分のことを「自分」という。「自分は・・」、「自分の・・」、中には「私」という人もいるにはいたが意外なほど少なかった。 この一人称の呼び方は、歴史をたどればけっこう古い時代まで遡るのだろうが、団塊世代のオジサンとしては、かつて帝国陸軍がそのように使っていたことを思い起こし、世の右傾化とも相まって、心穏やかに受け止めることができなかった。 その時代はまさに「自分」が無い時代だった。その反省から我々は新しく歩み始めたのだが、再び、いつから、どうして、かくも広く若い世代が使う様になったのか?考えさせられる。 |
菅野農園のニワトリたちは「庭鳥」として、ゲージではなく大地の上で暮らしています。週に2〜3回は外に出ます。草を食んだり、土を突っついたりと気ままに過ごしています。
できる方は、自分で飼ってみることを勧めます。家族一人あたり一羽でいいでしょう。余ったらお付き合いに活用できます。 な〜に簡単ですよ。まず農文協の「自然卵養鶏法」(中島正著)をお読みください。次に創森社の「土と玉子といのちと」(菅野芳秀著)を。ここも肝心ですぞ。 生ごみや周囲の草など、さらには蕎麦屋のかつおだし、パン屋のミミなどいろんなものがニワトリたちの餌になります。 鶏舎は日曜大工で十分。一日で建ってしまいます。広さは十羽で一坪ぐらいかな。おいしい玉子ができること請け合いです。 なによりも暮らしが楽しくなりますよ。 分からないことは菅野農園にお尋ねください。く |
F・B上に、見つけ残しのキュウリのことが出ていた。
大きくなりすぎて、食べられないという。皆さん、知らないんだなぁ。止めておけばいいのにお節介の癖が出て以下のコメントを打つ。皆さんも知らなかったならぜひ試してみて下さい。うまいよぉぉ! 「とんでもない。山形ではわざわざ大きくして食べたりしますよ。これがまたおいしい!まずキュウリの皮をむく。スプーンか何かで中の種を取り、これは捨てる。次に食べられる大きさに切る。そうですねぇ。3cm×5cmぐらいかな。次は油で炒める。そして煮る。トロトロとやわらかくなるまで煮ます。味付けはサバ缶、または豚コマ、ひき肉あるいはシーチキンでもうまいですよ。そこに旨味調味料、醤油を少し加え、最後に薄く片栗粉でトロトロ感をだして終わり。ぜひ、食べてみて下さい。わざわざ大きくして食べたくなる訳が分かりますぞ。どなたか、このようにやってみた方はぜひ私にその結果を教えてください。」 |
志を生きようとする人にはそれにふさわしい体形があるものだ。
それがその人の説得力や求心力を構成する場合もある。言葉でいくら説いても本人の体系がそのことを嗤っているようでは話にならない。 私は190cmで103kg。体重が多いのがかねてからの課題だった。 何とか減らし、説得力ある身体を獲得したいというのがここ数十年の課題だ。 決意は幾度かした。その為の努力もした。本も読んだ。知識もある。 「志と体型の乖離を埋めなければならない。だから・・」と周囲にもそう宣言し、後戻りできない環境作りも行った。 だけど成果はいつも2〜3kg減。外見が痩せて見えるほどのこともなく終わる。そして・・、2〜3ヶ月でもとに戻ってしまうのだ。 ある時、断食に詳しい友人がいて、話の成り行き上、私もやってみることにした。背景には我が家で飼っているニワトリたちがいた。彼らは玉子を産み始めてから1年後に「断食」する。養鶏法の一つなのだが、驚くことに、断食の後、彼らの羽が全て生え変わり、外見上も、産む玉子も若鶏のようになっていくのだ。 かねてより、そのためとはいえ、ニワトリ達に断食を強いて来た身としては、当然のことながらその辛さを一度体験しなければなるまいと考えていた。その副産物として私の頭髪が生え変わり、身体もスリムになって行ければいい。 で、やったのですよ。それもニワトリ達と同じく2週間。彼らと違うのは 一日に必要なビタミン、ミネラルを錠剤でとり、プロテイン(タンパク)を牛乳瓶1・5本分ほどの水に溶かして飲むというところ。三度の食事はそれだけで、あとは水かお茶。それ以外は一切の食べ物、飲み物を口にせず、カロリーを遮断する。 これがどこかの「断食道場」でのことならばよくある話だ。でも食べ物に囲まれた我が家で、それも鶏の仕事をしながらというのは果たしてできるだろうか。こんな不安もあったが、やれたのですねぇ。 ま、ここからの顛末を聞いてください。やがて何かの参考に・・なるわけないか。 さて、絶食してからの3、4日間が一番つらかった。そのつらさが、日を負うごとにどんどん増していくのだろうと思っていたら、そうではなく、その空腹感がずーっと続くだけ。これはちょっとした発見だった。当然のことながら、頭から食べ物が離れない。コンビニにも行った。アンパンが目に付く。もしそこで食べたって誰も怪しまない。でも自分が見ている。そこは譲れない。 5日目ぐらいになると少し感じが変わってくる。たぶん、空腹に慣れ、余裕のようなものができてくからだろう。家族の食卓のすぐそばにいても、ゆっくりと新聞が読めるようになった。おもしろいのは、自分の身体の主人公は自分だ、自分の意志だという満足感が生まれてきたことだ。今までなら、もう食べないと思っても、身体の方が言うことを聞かない。欲望に振り回されていた。ところがこの頃になると、自分の意志が食欲を完全にコントロールしているという充実感、何かすがすがしい自信のようなものが生まれてきた。これは新鮮な体験だった。 さらに進むと「俺はこのまま食欲を封じ込めたまま、死ぬことだってできる。」こんな自信すら生まれて来た。 そして2週間。父親からは「戦争から帰って来た息子に家族がそれ喰え、やれ喰え・・で死なしてしまった話があったから、とにかくお粥から少しずつだよ」との助言を得ていた。最初に口にしたのは少しのお酒と味噌汁。翌日はバナナ。酒はとても甘く、みそ汁は逆に塩辛く感じた。農閑期の冬だったが、それでも雪下ろしや、ニワトリ達へのエサやりはいつもどおりにできた。少し動作がゆっくりだったり、時にはふらつきもしたけどね。 減った体重は10kg。体脂肪率も10%ほど落ちた。 病院で腎臓、肝臓、コレステロールなどの数値がどう変わったかを調べてみたら、全てにわたって改善されていて、医者は「驚きですねぇ。何かありましたか?」と。なるほど、これがニワトリにとっての断食効果か。私もなんとなく若返ったような気がしないでもない。 でも、頭髪は薄いまま。彼らのように若毛が生えてきたりはしなかった。 それに肝心の体重はね、半年ほどで元に戻ってしまったよ。 大正大学出版会「月間地域人」より 拙文 |
7月31日から8月6日まで前半、後半とに分かれて60名の大正大学人間環境学部の長井・地域実習が続いている。私は学生たちと行程を共にしながら、「生き方」を求めて煩悶していた私自身の若かりし頃を思い起こしている。
「どう生きるか?これはどんな職業に就くかではなく、どこで暮らすかでもない。求めていたのは、人生の生き方だった。 それには背景がある。私は幼い頃よりずっと、農民となって農家を継ぐよう教えられてきた。やがて成長するに従い、その世界を出たいと思う様になって行く。田舎から出ることで人生の可能性が拓ける。ここに留まることはあきらめの人生。そう思うようになっていた。どう生きるかの煩悶を引きづりながら、25歳になった私は沖縄にいた。 そこでようやくその答えを得る。そのころ書いた文章がある。少し硬いが掲載したい。 「1976年、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。小さな漁業と小さな農業しかない村。そこに突然持ち上がった計画は、「本土」各地から拒否され、行き場を失った挙句にやって来たモノ。当時の沖縄の貧しさに乗じて国策として押し付けようとしたものだった。 「村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない」。 これは多くの村人の気持ちでもあった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現せずとも、このような生き方をつないでいけば、いつかきっといい村ができるはずだ。」 私はその話を聞きながら、わが身を振り返っていた。彼らは私が育った環境よりももっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。この人達にくらべ、村の現実を分かっていながら、そこから逃げることしか考えなかった私の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。ようやく生き方が分かったと思った。逃げたいと思った村を逃げ出さなくてもいい村に。そんな生き方をつないで行くこと。沖縄の青年たちの思いが私の思いとなった。それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。 村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。地域の中で累々とつないできた人々の願い。地域の「タスキ渡し」。私はその中で守られ、生かされていたのだ。 その日から、私は風景があたたかな先人の体温をともなったものとして感じ取れるようになった。ようやく『地域』がわかった。『地域』が大好きになり、同時に肩にかかっている『タスキ』を自覚できるようになった。 それから40年。私は今も百姓として地域づくりの道を歩んでいる。 ・・・ということなんですが、お分かりいただけただろうか。 |
我が家の前には広々とした一面に緑の美しい世界が広がっています。
春先のイネミズゾウムシの害も何とか鎮まりました。 水面への食用油の散布が効いたようです。彼らは夜、水底に生息しており、日が昇ると茎伝いに上がってきて葉を食べる。その習性を利用し、あらかじめ水面に食用油を撒いておく。いつものように水中から外界に出るときに、彼らの身体は油に包まれて窒息するという仕掛けです。農薬で無いから、全滅はしませんが、ずいぶん数は減ります。かわいそうですが仕方ありません。今年も農薬をかけずにすみました。食用油は分解も早く、コメへの害はありません。 これからの心配は「いもち病」ですね。稲の葉や茎がかかる一種のカビ病で、これにかかると稲全体が枯れて行き、収穫ゼロもありえます。カビ病なので高温多湿の気候は要注意。我が家ではこの予防として一夏に二度ほど「酢」を散布します。 大規模農業とは違い、「小農」のコメ作り。殺菌剤、殺虫剤ゼロ、化学肥料ゼロにこだわりながら、今しばらく緊張が続きます。 |
稲作農家がこれだけ痛めつけられているのに何故農村では自民党が支持されるのか?こんな質問が寄せられました。それに充分に答えられる自信はありませんが、以下のことは背景の一つにあると思います。
長年続いて来た農業、農村に対する政府・自民党からの強い締め付けと、補助金による脅しです。まず、締め付けですが6年前の参議院選挙を覚えてませんか? 2013年1月の参院選はTPPへの反対運動が燃え上がり、山形県農政連も初めて野党候補を推薦しました。事件があったのはその選挙が終わった直後の1月30日です。コメの販売手数料に関わるカルテル疑惑で公正取引委員会の立ち入り調査が山形県庄内地方の5農協に入りました。農協のコメ事業の中枢への攻撃でした。きわめて露骨で、関係者ならずとも誰もが「政治的報復」であると思いました。そう思わせただけで充分な効果があったのだと思いますね。その後、農協の「忖度」が行われるようになりました。 これもTPP含みですが2014年12月14日の衆院選で、福井県農政連の県下の12農協のうち11農協が与党支持ではなく、中立の立場で臨みましたが、その直後の2015年1月16日に、農業用施設の改修工事の落札業者に関わることで公取がJA福井県経済連に入りました。これ等は見え見えの「見せしめ」です。この事件を通してJAは政権与党への表立った反対ができなくなりました。 次は補助金による脅しですが、山形県で見ることができるのは土地改良事業についてです。水田の大規模化を目的とした農地の基盤整備事業が全国的に進められていますが、その予算はほぼ100%が国の農林予算から出されています。その事業の推進を政治的に利用しながら与党国会議員の後援会への加盟を勧めています。「後援会への集まりが悪いと事業への予算は流さないぞ」などと露骨に恫喝しながら。 こんな「見せしめ」や「脅し」が中核農家などが集まる場でなどで繰り返されてきました。それに屈したJAや中核農家が集票マシーンとなって働いたわけですが、でも、多くの小農たちは必ずしも彼らの言うとおりに動いていませんでした。これが山形県の結果に表れていると思います。「見せしめ」や「脅し」がかつてほど機能しないのは、農家の離農が促進された近年の新しい傾向だと思います。 かつて土建業を中心として、働き手である農家へ圧力をかけていましたが、今はこれも、働きに行く農家自体がいなくなっていて、その事例はあっても少数です。 JAにもかつてほどの求心力はありません。 北陸などの票の流れは、農民票というよりも、例えば福島の人たちはあれだけ痛めつけられているのに、なぜ依然として自民党に投票するのか。あるいは都市部にあっても無権利状態に置かれている若者たちはなぜ、自民に・・。ここから迫った方がより適確かとおもいます。 |
忙しい中、時間を割いて、映画「新聞記者」を見て来た。
東京新聞記者・望月衣塑子氏 の同名小説を原案にしているだけに、 安倍政権下で実際に起こった事件を彷彿とさせ、 映画ではあるが、とてもリアルに描かれている。 結果は、行ってよかった。 まだの方にはぜひお勧めしたい。 この映画の続きはまさに今、 展開されている現実の中にあるということだろう。 |
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大木町で開かれたシンポジュームで、長井での地域づくりの経験をお話しするように求められたからですが、両市町とも資源循環型社会づくりでは日本のトップランナー。私たちの方が学ぶことの多い集会でした。
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