松山さんに二度とあえないのか、又、飲みたかった

我が師、松山俊太郎が11日の朝6:00喪くなったそうだ。

私には師匠というべき人が3人いた。

武蔵美の時、服装史の先生でフレスコ壁画日本画家の長谷川路可先生、学校でたあとも作品をみてもらいに目白の家までよく通った。

次の先生は舞台衣装の会社に紹介してくれた大寺三平先生。三平さんとこにも作品をもって訪ねた。

そして、インド哲学者、梵文学者の松山先生。

松山さんとの出合いは新宿の飲み屋でその前に舞踊見に行き、その会場で会い、後のバーであい、ちょうど篠原もいて2人で松山さんのインド哲学の弟子になったのだ。今から40年以上も前の話だ。

そのうち、篠原が抜け、後を補充したがみんなやめ、3年位したら私1人、そこで私が京都の佛教大の通信に入り、そのテキストで松山さんに講義をしてもらったこともあった。

東京を離れる4年位前からサンスクリットもうなぎと一緒に教えてもらった。まず、サンスクリットはわからないことがわかった、ということ位だけどいつもいい体験だった。

松山さんは蓮の研究をしてた。何で蓮なんですかと聞くと世の中で一番役に立たないものだからとすました顔でいってた。

私もその真似(いや真似にもなってないが)、世の流れではないナーンをやってないインド料理屋、誰にも相手にされてないインド料理屋を嫁に追い出されてもやってるという訳だ。私の味をわかる人はわかる、勿論わかんない人の方が多いが。

それと松山さんはお経も図解して表にするのが好きな人で、私もガラムマサーラーを表にしたり、南インドの料理で四州で何処ではチャトニーというか他の処ではカシャンドというなどと誰も興味のない表を作ったりしていた。

今度も新しい本でのガラムマサーラーの表やチャトニーマサーラーやターザマサーラー等の表を作ってみようかと思ってた所だった。

松山さんの想い出は折々に書いていきます。まずは冥福を祈ってます。私ももうすぐ行きますがあえるかな・・・

ああそうそう私には残念ながらインド料理の師匠はいません。