higetono;LaBlog

higetono;LaBlog
ログイン

東京府中の味スタさモンティディオが来た日、おらいの仲間は野川公園でテニスしてだんだ。
11時から1時までテニスして、終ってすんぐがらがら自転車こいで行って、2時半からサポーター席で応援したんだっす。
もう90分ずっと、うさぎのだんす。テニスよりもなんぼつかれだが。ほして、1−0で負けでしまったすな。

ああ、あの頃は、暫定だげんとも3位だっけ。会社でも意気揚々話題にしったもんだけげんと、このごろおらも元気でねんだ。
長谷川、しみけん、まだがんばってけろなー。

去年の夏のことだが、日刊イトイ新聞というwebサイトで、吉本隆明の講演会があることを知った。
『芸術言語論』という聞きなれない演題の公演を、昭和女子大で7月19日に行う。
日刊イトイ新聞には、公演の準備を進める吉本隆明の様子なども紹介されていて、わたしは聴きに行ってみようという気になった。

これまで、わたしは吉本隆明の講演会に2度行ったことがある。
1度目はまだ学生の頃、渋谷の山手教会に友人のTと一緒に『谷川雁論』を聞きに行った。
全共闘運動の余燼が、まだ社会の中に散在していた頃だった。わたしは自分の水準で、講演の内容を理解出来るだろうかと半ば危惧していたのだったが、話の大筋は、不思議なほどよく頭に入った。
谷川雁の詩は一級品だが、評論による理論的な行為も、社会実践の活動も、どちらも中途半端なもので未来性のあるものではない、というのが吉本隆明の判定だった。
谷川雁は、「わたしのなかの『瞬間の王』は死んだ」という、それ自体詩的な名文句を残して、このころすでに詩作を止めていたのだったが、表現者としての先端性を保っている詩作を何故続けないのか、と吉本隆明は惜しんでいたのだった。

3年ほど前、文芸雑誌『三田文学』が江藤淳追悼号を出版して、その中の吉本隆明インタビュー『なぜもっと文学にいきなかったのか』を読んだとき、江藤淳への愛惜の思いに接して、遠い日の谷川雁についての吉本の言葉を思い出した。

2度目の吉本隆明の講演会は、1986年の春が終わるころ名古屋での『菊屋まつり』のフリートークだが、このことについては、ブログの『続 ライオンとペリカン』で書いたことがあるので、ここでは割愛する。

吉本隆明講演会『芸術言語論』のチケットは、日刊イトイ新聞のサイトと、チケット・ピアで売り出された。
発売日の朝出社して、勤務時間前にチケット・ピアにアクセスしてみると『9時からの発売です』という説明が出た。朝1番に済ませなければいけない仕事を終えて、10時半ころ再度アクセスして、わたしは自分のチケットを購入した。

翌日、友人Sのためにもう1枚チケットを購入して置こうかと考えて、日刊イトイ新聞のサイトに行ってみると、チケットは完売しましたという知らせが出ていた。チケット・ピアも同じことだった。
吉本隆明の講演会、人見講堂2008席は、1日のうちに売り切れたのである。計算してみると、この売上はたぶん1100万円を下らない。わたしは物販を仕事にしてきたが、この熱烈な需要と売れ行きは驚きだった。

聞くところによると、文芸評論という市場の売上だけで生活出来た批評家は、戦後、小林秀雄と吉本隆明の2人だけだそうである。
批評家の生活の糧は現在、大学などでの教職が中心になっている。吉本隆明以外の批評家は学生に話す言葉で、評論の下書きをしているわけである。
文芸評論の御一人者、吉本隆明の言葉への熱烈な需要は、そのような特性にも関係しているのだろうか、と、暫し自分の思いつきの周りを経巡ってみたのだった。



三鷹市で加藤典洋さんの講演会があって聞きに行った。
『太宰治の戦後』という演題で、太宰治生誕100年、没後60年を記念して、三鷹市が顕彰事業を組んだ催しの1つだった。
わたしはこれを三鷹の図書館に置いてあったパンフレットで知った。
それを見ると、公演は昨年、加藤さんが『群像』という文芸誌に掲載して、その後単行本化された『太宰と井伏 ふつの戦後』に沿ったものだろうと思われた。
わたしは『群像』に載ったものを読んだが、単行本の方は読んでいない。だから、その間に異同があったとしたらそれは分からない。

前から持っている感想だが、わたしは加藤さんの評論は、枠組みを大きくとった文芸時評だと思っている。年代としてどの時代のどの作家や評論家を扱っても、現在に要請された素材なのであって、作家論までには深く行き着かない。この評論の方法は、江藤淳の『成熟と喪失』『自由と禁忌』『昭和の文人』などの書き方と似ている。これらの評論で作家や批評家や詩人は、役柄を担って登場し、場をこなして消えて行く。ただし加藤さんの評論で太宰治は何度目かの登場になる。

『太宰と井伏 ふたつの戦後』は、太宰治を自己破壊の衝動に突き動かしてきた、出自の富める者=罪ある者という条件が、戦後は生家の没落でほぼ無くなってしまったのに、何故太宰は自己破壊に進まなければならなかったのか、の問いから始まる。
『人間失格』その他の太宰の小説を分析し、太宰の最晩年、井伏鱒二とのあいだに起きた感情的な対立を検証し、戦後は太宰を自己破壊に突き動かすものが、戦争の死者への後ろめたさ、とそれに対する文学者としての責任感に変わっている、と揚言する。
この説は、戦前に狂言めいた自殺未遂を3度まで繰り返した太宰治が、またも繰り返そうとした狂言を、相方の意志によって無理心中に持ち込まれた等の見方を退けて、自ら死に突き進む理由を見定めた、加藤さん独自の意見である。加藤さんは、戦後の太宰を自己破壊に突き動かした、戦争の死者への後ろめたさ、とそれに対する文学者としての責任感を、三島由紀夫の晩年の作品と言動を対比に置いて説明し、二人の類縁性と競合性を見ている。

雑誌で最初に『太宰と井伏 ふたつの戦後』を読んだとき、わたしはここのところと、最後の井伏鱒二『黒い雨』の中に書かれた、原爆被災の現場での、芸術高踏派的言辞にたいする怒りの描写の向こうに、井伏鱒二の太宰に対する感情を透かし見る、というところが、どうもすっと腑に落ちなかった。
三島由紀夫が敗戦後を25年生きて、戦争の死者との『わたしはまだ約束を果たしていない』という虚偽の意識に衝迫されるのは分かるが、太宰が自分を死に追い詰めるのは、まだ敗戦から3年しか経過していないわけで、『大いなる文学のために』死ぬにしても、せっかち過ぎると思えた。
井伏鱒二の太宰に対する感情を透かし見るということでは、作家と作家の間でのやりとり、こういう当為を知って小説を読むと、小説の面白みが色褪せてしまうという読後感を持つ。放って置いてほしいことを言われてしまった、というようなわだかまりが残る。去年、『村上春樹の後ろにはいつも三島由紀夫がいる』という本を読んだことがあったが、読み終わってすぐ、この本に書かれていたことは忘れてしまおうと思ったときの感想に似ている。批評の足がすべってしまったような感じなのだ。

講演のなかで加藤さんは、太宰と三島の違いは、三島には『美しい死者』しか憑いていないが、太宰には『美しい死者』と『汚れた死者』と2種類の死者が憑いていることで、『汚れた死者』というのは、太宰の離縁した最初の妻、『他者』としての小山初代であると説明していた。
わたしは批評の読者として、文脈のなかにこの『他者論』が登場すると、さあ来ましたねという感じと、もうそろそろ論述も終りになるのかという思いを同時に持つ。評論家は獲物を追い込んだのか、追い込まれたのか。

内田樹というユニークなレヴィナス研究家が、レヴィナスのいう『他者』を、以下のように要約している。
(他者とは死者のことである。他者とは私の理解も共感も絶しており、かつ存在しないにもかかわらず私に影響を与え、私が倫理的に生きることを命じるのである。)
これはまるでわたしたちの感応が見る、幽霊の哲学的な説明のようだ。

小山初代は戦争の死者としてではなく、太宰治の人生行路の死者として幽冥界に汚れて立っている。
ここは加藤さんも、作家論の深みに足を踏み外す以外ないのではないか。


追記

とても古い知り合いの女性も、この講演を聞きに来るらしいと聞いたので、講演の前、それとなく周りの人の顔を注意して見ていた。

20代のころ、その女性と共通の友人が住んでいた多磨プラザから、渋谷まで一緒の電車に乗って帰ったことがあった。そのとき、女性は背中に1歳くらいになる女の子をおんぶしていた。女の子は手に握ったものを、口に持っていってしゃぶっていた。わたしは電車に揺れながら、愛らしい仕草を見ていた。女の子が元気に手を振り回すと、握っていたものが小さな手を離れて、電車の床に転げた。拾い上げてみると、それは麻雀牌の『白』だった。

講演が終わった後も、会場を一渡り見回してみたが、見覚えの顔は見当たらなかった。けれど後に、人伝に聞いた話では、その古い知り合いの女性は、会場に来ていたのである。
現在のわたしたちにとって、もう昔の姿の印象は、かえって本人捜しに邪魔なものになっているのかもしれない

『ねむれよいこよ』という記事で、ダックスフンドのももこは奥方と、ヨーキーのななこはわたしと一緒に寝ている、と書いたことがあったが、近頃すこし様子が違う。

夜、もう寝ようということになって、寝室のある2階にワン娘たちを連れて行くと、ももこもななこも、一旦はサッサと奥方のベッドに行ってしまう。
わたしが自分の部屋で、寝に着く前のメールチェックをして、寝ながら読む本を決め、部屋の明かりを枕もとのスタンドに変えると、それを待ち構えていてトコトコやって来るのは、ももこなのである。昨年、夏の頃はこうではなくて、ヨーキーのななこがわたしの腕に絡まって寝ていたが、秋が過ぎて冬になって、気がついてみると、何故かななことももこが入れ替わっていた。

ももこもとても寝つきが良くて、わたしの右腕を枕にすると、フンーとため息をついたすぐ後から、寝息をたて始める。
ワン娘のリズミカルな寝息という、特製睡眠薬の効き目はすばやくて、寄り添って寝ていて、わたしは長く目覚めていられたことがない。本などいくらも読まないうちに、枕もとのスタンドのスイッチを切って、わたしも眠りの中に沈没する。

一晩明けて朝、わたしを起こしに来るのはななこである。朝の5時半から6時くらいになると、ななこはオシッコをしたくなって、トイレシートを設置している部屋で用を済ませてから、はしゃいだ足取りでやって来る。わたしの口元や額や喉を舐めたり、やや過剰な朝の挨拶をする。わかったわかった、もう少し一緒にねんねしよう、と掛け布団を開けてやると、そこにももこはいなくて、ななこがスルリと潜り込んで、すぐわたしの脇で朝寝の体勢になる。

今では、夜、寝入りの時のももこと、朝、目覚めの時のななこの、二匹の入れ替わりにも慣れてしまったが、寝たときには脇にももこがいた筈なのに、何時奥方とななこの方に行ってしまったのだろう。どういうワン娘の習性と気持ちでそうしてるのだろう、と、朝方不思議に思ったことがあったのは、やはりこの冬の初めの頃のことだった。

或るときわたしは、ミニチュアダックスフンドのももこが、1階のガラス戸の内から、暮れなずんできた我が家の庭にじっと注意をそそいで、頼まれもしない番犬の役割を、自分なりに、生真面目な面持ちでやっているのを見て、ちょっと妙なことを考えてしまったことがあった。
きっとももちゃんは、誰にも気付かれないように夜なべをして、わたしに寄り添ってわたしを眠らせ、奥方に寄り添って奥方を眠らせ、そして、ななこに寄り添ってななこを眠らせ、ひとりで苦労性な、みんなのお母さん役をやっているのかもしれないな、チビッコのくせに、と。



雨をよけながら通勤帰りのバスを待っていると、マンションに住んでいたとき同じ階で、同じく子供を持たない夫婦だった、Kさんの奥さんに会った。
マンションの住人だったころ、我が家のワンコ事情はミニチュアダックスフンドのももこの1頭飼いだったが、Kさん家はマルチーズを2頭飼いしていて、幼犬だったももこと、一緒に遊んでもらったりしたことがあった。
久しぶりにKさんの奥さんの話をきいてみると、ところが、そのころ飼っていたマルチーズは、一昨年、昨年と相次いで死んでしまい、現在はわたしの知らない、若いマルチーズを飼っているのだという。
そういわれてみれば確かに、近ごろ近所でたまに見かけるKさんの奥さんの散歩姿は、1頭だけを連れたものだった。
しばらく、2頭のマルチーズの生前の思い出話をしていたが、続けてKさんの奥さんは、夫婦で一緒に育てて来た、ワンコの切れ目をエンの切れ目として、昨年10月、Kさんと離婚したことを話し始めた。
わたしは居ずまいを正した。
Kさんの奥さんは今年還暦をむかえる年の方だし、Kさんは奥さんより何才か上と聞いていたので、まさしく、世間でよくいう熟年離婚なわけである。
そう言われてみれば、マンションの管理組合の理事をKさんと一緒にやったとき、交わした会話のなかに、そういう危うい進展を思わせる内容はすでにあった。Kさんと奥さんは、もう何年も夕食を伴にしたことがないというのであった。Kさんは仕事で帰りが遅く、ほとんど毎日外で飲んで食べて帰るし、奥さんは一人分だけ手早くしつらえた惣菜で、ちょっとお酒を飲んで、夕飯を終えてしまうということだった。
そんなふうに、一緒の生活を過ごしている夫婦というのもあるのだな、と、わたしは自分の通念に、少し引っかかる思いを持ったことがあったのだった。
バスの中の二人掛け席でKさんの奥さんは、元夫との財産分与で、これがあっちに行ってあれはこっちに来てと、堰を切ったように話した。それはわたしが聞いても全くどうなるものでもなかった。わたしの耳から流れ込んできたものは、出口のない沼であるわたしを濁らせるばかりだった。
そしてその話がほぼ尽きると、それから、現在の生活設計について話して、わたしより3つ前のバス停で降りるまで、話は止むことがなかった。

永いあいだ夫婦で一緒に育てた、ワンコの切れ目がエンの切れ目になってしまった、という子供を持たない夫婦の離婚話を、わたしは交友関係のごく身近に、もう1組知っている。
わたしの友人には、子供を持たない夫婦が多いから、そういう例を多く聞くのかと考えたが、少子化とペットについての、次のような統計情報を考えあわせると、案外それは何処にでもよくある話なのかもしれない。
わたしも意図せずにいささか貢献している、日本の家庭の少子化の進み具合は激しく、現在、家庭内のペット数は子供数をこえたそうである。

ワンコがカスガイと呟きながら、雨の道路の足元をたしかめたしかめ、その夜は俯きながら歩いて帰った。




(この記事は、辰つぁんのブログ『山形夢横丁』の記事『シネマ旭閉館』にコメントとして投稿したものです。)http://yamagatayumeyokotyou.ameblo.jp/yamagatayumeyokotyou/entry-10059187404.html



わたしが『シネマ旭』で、初めて観た映画は『穢れなき悪戯』 、
最後に観た映画は『ドラゴン怒りの鉄拳』だったと思います。


高校生のとき『シネマ旭』に、友達と3人でゴダール監督の『軽蔑』という映画を観に行きました。
背伸びしてたんですね。
映画を観た後、旅籠町にあった西屋という喫茶店で、あれこれ感想を話しあいました。

主人公の映画監督が、ある日突然、
軽蔑という感情で妻から離反されることになるのに、
それほど理由はなく、
解決の方策もないけれど、
誰にでも起こりうる普遍的な出来事で、
それは、
人間という相対的な条件に縛られているものの悲哀を、
映画は描いてるのだろう、
という感想のまとめになりました。

いや、なかなかお利口さんなことを考えていたもんです。

実は、そういう感想のまとめに導いた友達は、現在、文芸評論家になっている加藤典洋さんで、高校生時代自分たちで作っていた雑誌に、映画評として書いて載せています。
振り返ってみれば、加藤典洋さんの初めての評論文です。
それは当時の、山形新聞の地域の文芸時評などにもとり上げられ、ちゃんと評価されました。
評者は山形北高の先生をしていた方でした。鑑定眼があったんですね。

わたしはずっと後まで、加藤さんは今評論を書いているけど、
やはり将来は小説家になるのだろう、と思っていました。
ああ、加藤さんの小説も読んでみたかったな、と今でも時々思います。


...もっと詳しく

山形市のM町に住んでいたとき、向かいのWさんの玄関脇に、ポポーという実のなる木が植えてあった。ポポーは10月くらいになると、4、5個かたまっている実が黄色に熟して、果物らしいみかけになる。

中1の放課後、もう家に帰っていたわたしが、窓を開けてWさんの家の方をのぞくと、4人の子供がポポーの実を盗ろうとしていた。
小学生の男の子が2人と女の子が2人、塀に手を掛けたり、爪先立ったり、周囲を警戒している様子の子もいた。
窓から見ているわたしのそばに、ちょうど母が来たので、わたしは指差して起きている事を教えた。
見覚えから、わたしにも分かっていたことだったが、「養護所の子供たちだね」と母は言った。
「盗ってるよ」とわたしが言うと、「誰も食べないで、毎年落ちて腐るだけなんだから、いいんだよ。」と言う。「かわいそうに」と見ていた。
「腹を空かして、あんなものじゃしょうがないから、オヤツを上げよう。」と言って、母は玄関先に出て行った。
ところが、声を掛ける間もなく、子供のうちの3人は走って逃げて行ってしまい、女の子が1人だけ取り残された。

母が何か言い聞かせて、女の子を縁側のところに連れてくるのをわたしは見ていた。髪をおさげに結った痩せた子だった。
縁側に腰掛けて、母と女の子は1時間ほど話していた。次第にうちとけて、女の子はさつま芋を手に持ったまま振り返って、家の中を見回したり、わたしの方へ視線を投げて来たりした。
少し離れたところで、わたしは柱に寄りかかって、学校の図書館から借りてきた本を読んでいた。

養護所は、わたしの家からお宮の方へ1キロばかり行った所にあった。何かの理由で扶養能力に問題が起きた親の子を、中学卒業の時点まで預かる市の施設で、50人くらいの子供が集団生活をしていた。わたしの同級生にもそこから通学している生徒はいた。

「また来て好いからね。施設の人が心配するといけないから、今日は帰んなさい。」と言うと、女の子はランドセルを背負って、母に手をふってスキップをして帰って行った。
夕方、大学から戻った次兄のAと母が、養護所の子供たちについて話しあっているのを聞いて、女の子は咲子ちゃんという名前なのだと分かった。

その日から何度か、咲子ちゃんはわたしの家に寄って、母と会って行くことがあったらしい。
その頃中学校で、わたしは軟式テニスのクラブ活動をしていて、帰宅するのは6時を過ぎてしまうのが普通だったから、その日以来、寄り道の咲子ちゃんと顔を合わせることはなかった。

そして、その年の12月に、母は大腸癌の手術のため、市の中心部にあった病院に入院した。母の入院の期間は思いがけず長びき、退院してきたのはもう翌年の梅雨の前だった。
母が入院している間に、次兄のAは1人で家の前に立っている咲子ちゃんに、何度か合ったという。1度「おばちゃんは家にいないの」と聞かれて、入院療養のことを話して聞かせると、それからは次兄のAと顔を合わせても、ただ黙って去ってしまうばかりだったらしい。

母は、その夏を乗り切るのに体力を使い果たして、秋口に亡くなった。
それから2年間くらいの間に、父と成人してゆく子供たちの絆は少しずつ緩んで、兄姉たちは1人2人と家を離れて行くことになった。

中学3年生になった年の6月ころ、昼休みの時間に、渡り廊下(向かい合わせの校舎を繋ぐバルコニーのような場所)で、級友たちと話をしていた。
わたしが通っていた中学は、1年生が3階、2年生が2階、3年生が1階の教室を使う慣わしで、2階にある渡り廊下にいたのは、そこを渡ったところの教室を使う音楽の授業を受けるためだった。
わたしたちがいた場所と反対の出入口近くの、校舎の影がさしたところに、鉄柵に背をもたせて、小柄な1年生の女の子が立っていた。
そこに1年生がいるのは珍しかったので、何回かわたしはその子を見た。
左手を折り曲げておさげの髪に触れ、右手をその左手に掛けて俯いていた。どこか見覚えのある子だなと思う内に、わたしは以前、亡くなった母に会いに来ていた、咲子ちゃんの名前を思い出した。

それから、学校の中で何度か、その咲子ちゃんらしい女の子が、遠くからわたしを見ているようなのに気付いた。
授業の間の休息時間に、1階の教室の、わたしの窓際の席から向かいの校舎を見上げると、3階の窓の1つから、女の子の姿がスッと隠れることがあった。何回かそんなことがあって、あれは咲子ちゃんに似たあの子ようだったと思った。

その年の10月、事故に会った技術科の先生の代用で、まだ学生だったわたしの次兄のAが、この中学で授業をすることになった。
次兄のAとわたしは、突然、先生と生徒の立場になってしまった。お互いに気まずくて避けあっていたが、何度かは直接授業を受けるはめにもなってしまった。わたしはそんな事への気遣いと、あと半年足らずの期日に迫った、高校受験の用意に気をとられていたが、あるとき、あの咲子ちゃんに似た子を見かけなくなっているのに気付いた。

家で次兄のAに、あの咲子ちゃんに似た1年生がいたこと。そして、気付いてみると近頃、その子をみかけなくなっていることを話した。
翌日の夜、次兄のAは職員室で1年の担任の先生たちに聞いてきたことを、わたしに話した。

咲子ちゃんの親は、山形市のK町という繁華街の外れで、飲食店と麻雀荘を経営していたという。咲子ちゃんが小学3年生の時、母親が家を出て行方が分からなくなった。夫が本来の仕事を放棄して、大きな賭け麻雀に明け暮れているのに、愛想をつかしてのことだったらしい。母親が所在不明になるのと前後して、父親の仕事は傾き、家や店を手放してもまだ借財が残る状態となった。
借金の取立てから逃れる事と、身一つでの働きを求めて、咲子ちゃんの父親は宮城県の塩釜に行って、マグロ船に乗り込んだのだという。咲子ちゃんが養護所に預けられたいきさつは、およそこのようなものだったらしい。

わたしの母親と縁側に腰掛けて話をしていたとき、咲子ちゃんはもう5年生だったことになるが、小柄なので、わたしはもっと小さな子だと思っていた。中学校の渡り廊下で、咲子ちゃんの名前を思い出しても、本人という確信が持てなかったのは、まだそんな歳ではないだろうと思っていたからだった。咲子ちゃんは、4年間養護所で親と離れて暮らしていたことになる。

咲子ちゃんの父親は、もうその頃マグロ船を降りて、塩釜でまた元のように飲食店をやっているとのことだった。そしてその夏、父親が新しくいっしょになった女性に、子供が生まれた。やっと新しい家族4人で暮らす態勢ができた、と、咲子ちゃんを引き取りに来たとのことだった。
先生たちの中には、新しい奥さんが働けなくなったので、ただ、助けの働き手が欲しくて呼び寄せたのではないか、と、心配していた人もいたという。

今もわたしが覚えている小学5年生の咲子ちゃんは、亡くなった母との出会いの後、明日に何かいいことがありそうに、手をふってスキップをして帰って行ったが、父親のもとに向かう中学生の咲子ちゃんは、自分の明日をどう思いながら汽車に乗って行ったのだろう。

その頃、塩釜は知らない町だった。わたしは曇り空の海辺を思い浮かべていた。


Wさんの閉切った玄関脇の、熟したポポーの黄色い実は、その年も食べるひともなく道路に落ちて腐った。
その年の2月ころ、Wさんは鉄工所の経営に行き詰って、すでに家族も犬もみんな家を明け渡してどこかに去っていた。家屋の脇の広い家庭菜園は、夏に生い茂った雑草がそのまま枯れて、半年と少しばかりの間に荒れた土地に変わった。

わたしの家もその翌年、そこからY町に引っ越したので、ポポーの実のある秋の風景をみたのは、その年が最後だった。


関東地方を台風が襲った土曜日の朝、わたしはギックリ腰になってしまった。
1時間くらい経つと、これまでの経験からそれほど酷いものでないことが分かった。とにかく安静を保って週末を過ごし、月曜日からは出勤が出来るようにしようと思った。

わたしは、枕元に積んである本を読んで過ごし、疲れたら仮眠をとって、目覚めてまた本を読み続けた。
降りしきる風雨を見せると、ワンコたちも一応お散歩はあきらめるので、食事とトイレのとき意外はわたしのベッドの上で、一日寄り添って一緒に過ごした。
関東地方の台風は、午後5時くらいから7時くらいまでが最も中心の近づいた荒れた時間だった。9時を過ぎるともう雨も風も止んで、家の外を通る自転車の音や人の話し声が聞こえるようになった。わたしは奥方の帰りを待って晩御飯を食べ、10時半ころ早めにベッドに入って、本を読み疲れたところでまた寝てしまった。

さすがにこの日は休息十分なため、長い時間は眠れなかった。目覚めたとき柱時計で時間を確かめると、まだ3時を少し回ったばかりだった。横になったまま目が冴えてくると、日頃の夜と違って辺りが白く明るい。
窓の外に目をやると、レースのカーテン越に丸いお月様が見えた。カーテンを引いて眺めた。
台風が地上と空の穢れを掃除して、暗いけれど澄み切った空に月が煌々と光っている。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でしつきかも

わたしの幼いころの最も古い記憶のひとつは、この月を詠んだ阿倍仲麻呂の歌と結びついている。

あれはもう小学校に入学した後のことだろうか、家族総出で映画を観に行ったことがあった。
皆で行くことになった経緯や、道々などは何も覚えていない。ただ、映画館は大変な混みようで、わたしの座る椅子はなく、スクリーンの架かっている舞台の袖にちょこんと座って、わたしは映画を観た。
斜めからの歪んだ映像を眺めていたのだろうが、映画のなかで詠まれたこの歌と、大きなお月様の映像だけをわたしは後まで覚えていた。
そのことを改めて自分で気付いたのは、お正月に兄姉たちと百人一首の歌留多取りをしたときだった。阿倍仲麻呂のこの歌が、わたしの知っている唯一の歌として現れたからである。
それは幼いわたしの1番得意の札になった。それに続いて得意の札となったものには、つぎのような歌がある。

たち別れ いなばの山の 峰に生える まつとし聞かば 今帰り来む
これは、下の句の初め4音が自分の名前と1音違いだったため憶えやすく、また次の歌は

ももしきや  古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
ももしき、ももひき、と語呂合わせの悪戯で憶えたものである。

『三笠の山に 出でしつきかも』の映画を、永い間わたしは自分が観た最初の映画だと思い込んでいて、それは何だったのだろうと気にして来た。親が健在のときか、兄姉たちに訊いてみれば、その気がかりはすぐに氷解したのかもしれなかったが、そういう機会も持たなかった。

答えらしきものに出会ったのは、1985年頃『日本映画』『外国映画』という対で企画された文庫本が売り出され、『日本映画』の記事の中に、女優の田中絹代の監督作品として、『月は上りぬ』という映画の解説を読んだ時だった。文庫本はもうわたしの手元になく、出版社も監修者も覚えていないが、本の記述はわたしの永い間の思い込みをいくつか訂正して、尚、この映画が『三笠の山に 出でしつきかも』の映画だったのだと確信させた。

その本を読んでみると、『月は上りぬ』をわたしは松竹映画だろうと思って来たのだが、それがそうではなく、日活で作られた映画なのであった。
松竹映画だろうという思い込みから、中井貴一の父親の佐田啓二か高橋貞二が主演俳優だったろうと思っていたが、正しくは安井昌三が主演俳優で、主演女優は北原三枝なのであった。安井昌三はテレビドラマの草創期に、『チャコちゃんハーイ』で娘と親子で共演していた俳優である。
思い違いはこの他にもあって、『月は上りぬ』の製作が昭和30年となると、これはわたしが観た初めての映画ではない。近所の大工の棟梁、小林さんの奥さんに子供と一緒に連れて行ってもらって、ディズニー映画の『ダンボ』や『シンデレラ』を、わたしは小学生になる前にすでに観ている。
ずいぶん遠い時の映画と思っていたのだが、製作が石原慎太郎の小説『太陽の季節』の発売と同じ年と分かると、印象はかなり違って来る。


台風が通り過ぎた後の煌々とした月と違って、わたしの記憶は朧月夜のように頼りない。

2年ほど前、ケーブルTVのちゃんねるネコという局で、映画『月は上りぬ』を放映したことがあった。田中絹代にゆかりの映画を特集して連続放映していたようだった。
わたしは居間のソファーに横になって、例によってヨーキーのななこを肩のあたりに載せ、ダックスのももこは腹に載せて、半世紀以上を経ての『月は上りぬ』再体験をしていた。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でしつきかも」の場面までは観ていたのだが、ワンコの温みが気持ち好いと思った瞬間、睡魔に襲われ、不覚にも寝入ってしまった。


ミニチュアダックスフンドのももこは、とても性格の好いワンコだが、ひとつだけとても強情になることがある。
それは何かお気に入りをみつけて確保したときで、わたしや奥方の靴下や下着、ちょっとした小物などが多い。
そうなると、食べ物に係わる以外の事には、いつものんびりしているのが、こそこそ人を窺うような目つきになる。
そして執着のつよい時は、あまり眠らずに守っていることさえある。
何時もは、3、4時間もすれば飽きてしまうので、わたしは大体放っておくが、時には奥方が大事にしているものなどで、どうしても取り上げなければならないものもある。
そういう時は、まず大声で人間に話すように、それはお母さんの大事なもので、ももちゃんの玩具ではない、ダメです、と何回か繰り返し演説する。
それから、熱いものを持つ時に使うミトンの手袋をして、ももこに強制執行をする。
一瞬だけうなって噛むしぐさをすることもあるが、取り上げてしまえばもうそれまでである。

しかしこれが、ヨークシャーテリアのななこに対してはももこの態度が全然違う。
ななこは何時もももこを気にして、ももこの行動を真似ているから、ももこがお気に入りを確保すると、ななこはもうそれが欲しくってしょうがない。
けれど、ももこの権威に一目置いているので、真っ直ぐには取りに行かず、あからさまな関心を示しながら、ももこの様子を窺っている。
おねだりの甘えた泣き声をたてたりもする。
そしてちょっとしたももこの油断を見透かして、素早く掠め取って逃げるのだが、さて、そこで、ももこは、別に何の反応もしないのである。
いつも通りのトロンとした目で、ただ、ふーんと見ている。
シメシメという感じではしゃいでるななこを横目に見ながら、わたしと奥方は、ドウイウコトナンダロウネとももこの不思議を考えている。




わたしの頭は、散髪に市場価格を支払う価値をとうに失ってしまった。

それは、今を去る2年ほど前まで、散髪屋に行くたびに、身にしみて分からせられたことだった。

散髪屋の店員は、マニュアルにそって質問をする。

「どのような感じに整髪いたしましょうか」

こう言われる度に、頭髪の不自由なわたしは困惑した。
その不自由を超えて要望する資格が、わたしにはないのだから。
わたしは分をわきまえて、「スッキリ刈ってください」などと答えていた。
しかし、ひと月ごとに、何度か同じやり取りを繰り返しているうちに、ある日、抑圧されていたわたしの不自由がレジスタンスをしてみたのであった。

「どのような感じに整髪いたしましょうか」
「カッコよくしてください」とわたしは答えてみた。
鏡の中の散髪屋の若い男子店員の顔を見ていると、笑っている表情がしだいに硬くなって行く。
難題をふっかけられたように思っているのだろう、と推測しながらともかくお店の提案を待ってみる。

「浦和レッズの小野みたいな、ほとんどスキンヘッドみたいな短髪も好いと思いますし、鋏仕上げの短めなところと、長めなところのバランスをとった、短髪もお似合いかと思いますが。お客様、頭の形が良いので」

頭骨の形を誉めてはもらったが、なにしろ無を有に変えるわけにはいかないのだし、結局わたしは、この髪なき時の乏しさに耐えて行くほかないのである。いたわられている自覚の悲哀を突き放すと、やっぱりわたしは不自由である。

「まあ、時間ももったいないことだし、バリカンでササットやってください。」
「それから、2度も3度も頭を洗うけど、あれは1度で好いですから。この頭はそんなに手がかかるものじゃないので」
「ええと、もう1つ。頬、顎、鼻の下の髭剃りは深剃りしないでください。すぐに眠ってしまうかもしれないけど、どうぞよろしく」
普通は注文の多いほど手が掛かり、時間も長く掛かるのだが、わたしの場合、これだけ注文をつければ仕上がりはとても早い。
目をつむり、不感無覚の境地に行って、後はマッサージが終わるまで全ては他人事である。

しかし、そういうやりとりをしていたのも、もう2年前までのことになる。
現在は、奥方が電動バリカンでわたしの整髪をやっている。
奥方はバリカン使いに慣れるにしたがって、わたしの頭の整髪で自分なりの遊びを入れるようになった。整髪に何分かかるか、毎回、時間の短縮競技をしているのである。ついこの間の整髪は、なんと7分そこそこだった。

終わりの合図に奥方は後頭部をピシャンと叩いて、「ほい、マルガリータ1丁あがり」と笑う。
とほほ、わたしの頭がテキーラベースのカクテルなら、塩はどの辺りに塗ればいい。


中1の担任は体育の教師で、ソフトボール協会の役員をしていた。
夏休み、実業団のソフトボール大会があって、クラスから6人の男子が手伝いをすることになった。
グランド整備の補助をしたり、ベースをとりつけたり、道具を運んだりする。
まだ、スポーツドリンクもクーラーもなかった頃だったから、選手の控え室に大きな氷柱を据えつけたりもした。
入場式ではチーム名の看板を持って案内をしたり、試合がはじまると、ボールボーイもやる。

実業団の女子選手たちは、みんな真っ黒な顔で元気がよく、腕も足も太く、大きなお尻をしていた。
ほとんどは化粧気もなく、まれに口紅を引いているひともいるというような、素顔の一団だった。
わたしが入場式で案内したのは北海道のチームで、話しかけてくる言葉も独特だった。

大会は16チームのトーナメントで、雨降りなどがなければ、4日間で試合を消化する。最後の日は準決勝と決勝のダブルヘッダーになる。

2日目の試合が全部終わった後、南側の選手控え室の掃除に行った。
もう誰もいないと思って入って行くと、まだ選手のねえちゃんたちがいて、隣のシャワー室と行き来して、着替えをしていた。バスタオル巻きの体で歩いているねえちゃんもいた。みんなが一斉に私の方に顔を向けた。中学1年生のわたしは、突然、半裸の女子集団の中に投げ出されていた。

どうすればいいのだろう、と思ってもじもじしていると、4、5人のねえちゃんがそのままわたしのそばに来た。
「君、女性の着替えに入ってきて、行儀よくないね」
「あ、知らなかったんで、すみません」
「わたしたち、この下まだ裸なのよ」バスタオルの上のむき出しの肩で、わたしの肩を押す。
「んー、すみません。帰りますから」頭に血が上って、たぶん、その時わたしの顔は真っ赤。
「仕事しに来たんでしょう。いいよ、仕事して、いいよ」
「あ、いいんですか。でも怒ってないですか」
「いいよなあ、みんなあ」
「いいよに賛成」と言いながら、わたしの髪をくしゃくしゃに撫でるねえちゃん、ドンケツしたねえちゃんもいた。

いいよ、と言ってはくれたが、さすがにわたしは居ずらくて、下を向いて部屋の隅からモッブ拭きを始めた。
「ぼくー」
「おーい、君だよ」
声の方に顔を上げると、パンツ1っ丁のねえちゃんが、ブルンボインを突き出して立っていた。
フリーズしました。

わたしが控え室で遭遇した関東から来たチームは、準々決勝、準決勝と勝ちあがり、決勝まで進んだ。あのこと以来、わたしはそのチームメンバーに顔と名前をおぼえられ、「mくん、応援してね」と声をかけられたりした。同級生の他のボールボーイたちは、何故mだけ人気があるのだろうと不思議がった。

最終日、準決勝の1試合目と2試合目のあいだの時間、わたしがグランドの地べたにすわっていると、あのブルンボインのねえちゃんが来て脇に座った。「ねえ、mくん、今つきあってる女の子いるの」と聞く。「いませんけど」と言うと、「わたしこのまえ、mくんに裸見られたから、もう結婚出来ないかもしれない。そしたら、mくん、将来わたしと結婚してくれる」と、わたしの顔をまっすぐに見る。その場では、結婚というのはため息がでるほど遠いことで、ただうろたえてしまったのだったが、独りになって落ち着くと、年上のねえちゃんがまたわたしを、口ポカ、目が点、体は棒にしてやろうと、からかっているのだなとすぐに分かった。

関東から来たチームは決勝で敗れた。

大型バスの窓から顔を出して、関東に帰るチームのねえちゃんたちが「mくーん」とわたしの名前を呼んで手を振っていた。
わたしと、この経過の秘密をうちあけた親友とふたりで
「ケツデカオンナー」
「ロケットオッパイー」と叫んでアカンベーをすると、バスの中で集団の大笑いがはじけた。



このブログは、今から3年ほど前まであった ヤマガタン ンダンダ掲示板 の続きとして始めた。そのときの掲示板の書き込み仲間、辰つぁんのブログ『山形夢横丁』http://yamagatayumeyokotyou.ameblo.jp/
で、ひさびさに山形弁についてのやりとりをした。楽しかったのでまるごと転載させてもらって、わたしのブログを見てくれている人達にも読んでもらおうと思った。
ついでに写真も、辰つぁんが撮影した、なつかしい霞城公園のさくらを借りてしまった。
ンダンダ掲示板のときの仲間が、次々に投稿で参加している。これは辰つぁんの人徳によるものと思っている。『ばあちゃんの山形弁』の投稿が更新したら、こちらも付け加えて更新させてもらいます。今回だけまるうつしの転載、ご容赦くだい。


ばあちゃんの山形弁
テーマ:ブログ
今日、山形からばあちゃん来て、思いっきり山形弁しゃべてった。なんぼが採集したがら書いでおぐ。

他にもあっけげんとげらげら笑てるうづ忘っでしまた。

   まいにづくらぐらかげででがげんなづ〜

   づげだなごどやねで、ままでもまぐらってろ

   でがげにおもうっすまけむぐるす、おうらいさばんぼごりはたづで、いやはやししゃますしたづは


皆さん、わがっかっす?

記事URL | コメント(5) | | ペタを残す |
コメント
[コメント記入欄を表示]

■無題

まったぐわがらね

どげな意味だがおしぇでけらっしゃいヽ(;´Д`)ノ

たまりだんご 2007-05-11 12:19:37 [コメント記入欄を表示]


■ざい語英訳 何点くらいもらういがな

まいにづくらぐらかげででがげんなづ〜
you must not run hastily every day. 

づげだなごどやねで、ままでもまぐらってろ
such a thing does not say,and eat even a meal.

でがげにおもうっすまけむぐるす、おうらいさばんぼごりはたづで、いやはやししゃますしたづは
When I was going to go out, I have awfully sprained a foot,and strongly fall down on a road. I really gave up

higenasitono 2007-05-11 15:21:40 [コメント記入欄を表示]


■ありがとさま

ひげなしとのさん、ありがとさま

英訳おかしくて(特に、I really gave up)笑ってしまったけは( ´艸`)

たまりだんご 2007-05-11 18:42:33 [コメント記入欄を表示]


■惜しい!


「まいにづくらぐらかげででがげんなづ〜」は

Do not go out after it darkens every day.

てなるんだな。

しかし、「いやはやししゃますしたづは」ば
    I really gave up.
は名訳んねがづ?



辰つぁん 2007-05-11 20:16:27 [コメント記入欄を表示]


■I surrendered to grandma おばあちゃんには恐れ入ったずは

くらぐらかげで
クラグラ(擬態語)駆げで
と思ったんだげんと、
暗くなりかけで、かあ

山形弁はむずがすいな
初めて聞く山形弁だものな
ためしに社員さ標準語に訳させてみっべ

higenasitono 2007-05-12 15:33:16 [コメント記入欄を表示]


■しゃすぶり

1 毎日、灯し頃になると、お出かけになる、ということは、世間的に、あまり良いことではありません。
2 そのようなことを仰言らずに、お食事でもなさっていて下さい。
3 出かけようとおもいましたら、なぜか酷く煙がただよっているようで、又、通りには、乾いた砂、紙くずなどの埃が舞うで、なんとも、大変というか不愉快というか、難儀したことでした。

でおぐっですまたけはー。んだげんと、1の用法は、山形でもあんまり、真ん中ではきかねなー。
最近、山形さ帰てねがら、解釈さ一部、誤りあっかすんね。

まじぇろ 2007-05-14 08:26:01 [コメント記入欄を表示]


■アアナケル

まじぇろさん、ひさしぶりです
また、ずいぶんスマシタ訳で、どうもお疲れ様です

今回の山形弁訳では、ちょっとばかり個人的な経験が役立ってるんだ
今は遥かな、higenasitono山形5中陸上部のとき、部員のやろこで捻挫のことば,ケムグッタっていうやづがいだんだっけ
いやいや、40年以上の歳月を超えて、おもいだしたったづ
昨日の夜、うぢの奥方はケーブルテレビで、『3丁目の夕日』ば見て、アアナケル
なてゆってだけど、おれはこだなごど思いだした方が、ズットナケル

訳文成績は、おれもまじぇろさんも、2勝1敗っていうとこだな


higenasitono 2007-05-14 17:27:48 [コメント記入欄を表示]


■Re:

   まいにづくらぐらかげででがげんなづ〜

んだてよ〜、お薬師さまのおまづり三日もあるんだじぇ。おみどのふずりたねっど、おしゃいしぇんほろげでんだも。こでらんねべ。

   づげだなごどやねで、ままでもまぐらってろ

ばんちゃのまま、まいがだげ生味噌まびたヤギミスばりだどれ、おづげもこしゃわねしよ。おまづりさ行って、どんどんやぎの匂いかいたばりもいいべ。やんだほど喰てみっだい。

   でがげにおもうっすまけむぐるす、おうらいさばんぼごりはたづで、いやはやししゃますしたづは

ほだな、若がいかんじょでミュールなの履いでっからだべず。いっつものツッカゲでいいのったな。けむぐたのさ、なづいも擦って、うどん粉へってかましてのばぬだぐっといいど。ばんぼごりまなぐさ入たてぇ?ほごの目薬さしておげはぁ。はいづ目薬んねくて、とうちゃんの水虫の薬だがしたぁ。


はじめておじゃまいたします。

どうもお久しぶりでございます。皆様お変わりなくお元気そうで何よりです。←(こだな言葉こちょびたい。)


なっぱづげ 2007-05-14 23:18:19 [コメント記入欄を表示]


■口癖

なっぱづけさん、久しぶり(^∇^)

3つの文章の使い方読ませてもらったら、おぼごんどぎ、母ちゃんがおらばごしゃぐどきの口癖ば思い出したっきゃ。

さんざんごしゃいだ後、とどめば刺すかのように「おめさなの、なんぼゆたてかだたてわがらね( ̄へ  ̄ 凸」それ聞くど、子供心にかなしぇくてよ

今考えっと、言うも語るもおんなじに思えんだげんとなあ・・・


たまりだんご 2007-05-15 20:23:30 [コメント記入欄を表示]


...もっと詳しく

連休の1日、わたしは家の床の雑巾掛けをした。
奥方のお気に入りの新車、玩具のようなオープンカーを、わずか3〜4回目の車庫入れでズッテしまって、傷物にした罰ゲームである。
自分の不注意を棚に上げて、わが身の不運を嘆きながら、這いつくばって汗を流していると、女中奉公で雑巾掛けをしていた「おしん」を思い出してしまった。まっ赤な頬とあかぎれの手をした小林綾子ちゃんの「おしん」は、母ちゃんに会える日を励みに、つらい日々を乗り切って行く。けれど、わたしの母ちゃんはとっくに天国に行ってしまっている。しょうがないな、ビールでも飲みながらやろう、と、中休みに缶ビールをもってテレビの点いている居間に行った。

ワイドショーが、植木等の葬儀の模様を紹介していた。
見ていると、漫画の敵役のような格好の内田裕也が登場して、遺辞を述べた後、スーダラ節を歌いだした。ユーミンともう1人名前をおぼえていない歌手が、それにスーダラ節の振り付けをして、照れくさそうにつきあっていた。
ワイドショーの司会者は、内田裕也さんらしい無礼講ですねと、ほほえましげにコメントしていたが、わたしの感じはちょっと違った。何か見ているだけで加担しているような、恥ずかしさに耐えて見ていた。内田裕也というひとは、どうしていつもこう、おれはダダモノジャナイという態度なのだろう。

しかしこれは、雑巾掛けをしているわたしからは、遠い芸能界のことである。

同じような感情の体験をしたことがあったので、並べてみようと思う。これも、わたしからは、遠い文学者の世界のことである。

10年以上前のことになるが、谷川雁という詩人が亡くなって、詩の雑誌が特集を組んだことがあった。
谷川雁は敗戦の年から10年余の間に刊行した、「大地の商人」「天山」「定本谷川雁詩集」などの詩集と、詩作をやめてから10年ほどの評論集、「原点が存在する」「工作者宣言」などで、60年安保の世代に影響を与えた、詩人=評論家=運動家である。
詩の雑誌は、谷川雁の未発表原稿を収録して、彩りをつけようとしたらしく、意外な文章を載せていた。谷川雁に先立つこと15年ほど前に亡くなった、井上光晴という小説家の葬儀で詠まれた、谷川雁の遺辞を載せていたのであった。
『雲よ。光晴という雲よ。・・・・・』から始まる、久々の谷川節の遺辞を読むわたしを襲った感情は、スーダラ節の引例とよく似た、恥ずかしさに耐えて読むというものだった。
遺辞は詩作のように、比喩で語られているのだが、浮ついた昂揚感が伝わってくる他、何を言っているのか内容がわからない。雑誌の遺辞を眺めながら、たくさんの文学者が集って、いかにも谷川雁のものらしい遺辞をきいて頷く、葬儀の風景を想像してみた。これでいいのだろうか、おれはタダモノジャナイとしか言ってないような言葉を、分かったふりをすることは良くないな、とその時、わたしは思ったのだった。

雑巾掛けの位置から思うことは、どうも上目づかいに視線がきつくなってしまう。

手にあかぎれを作って、雑巾掛けをしていた小林綾子ちゃんは、田中裕子から乙羽信子へとタダモノジャナクなって、ダダモノの世界に帰ってこなかったが、わたしは不注意や無作法をとがめられて、度々、女中奉公をする小林綾子ちゃんにもどるのであろう。自分を振り返って、わたしはもう1缶ビールの栓をぬく。あたまで考えている事とは反対に、泡の効き目で労働を放棄しかけているわたしを、お散歩に連れてってもらいたいワンコたちが、じっと注視している。



1986年の春が終わるころ、加藤典洋さんが『菊屋まつり』のフリートークに出るというので、一緒について行った名古屋で、橋爪大三郎さん=社会学者と1度だけ話をしたことがある。
フリートークというのは『菊屋』という詩の雑誌が吉本隆明を招いて、当時まだ30代だった加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣、瀬尾育夫など、若手の論客と応答をするというものだった。

『菊屋まつり』フリートークでの話で、わたしがおぼえているのは、吉本隆明が最後に聴衆からの質問を受けることになって、北川透という詩人が、「現在の日本で、革命というような社会変革はもう必要ない、と考えてらっしゃるのでしょうか」と問うたのに対して、「はい、そう思っています」と簡素に応えたことである。
そのころはまだわたしにも、いいひと→良心→左翼というようなことが漠然と信じられていて、左翼の大儀=存在意義である革命がもういらないということになったら、左翼はどうなるのだろう。これは大きな宣言だな、と思って聞いたのだった。
吉本隆明のこの考えは、1995年に出版された、『わが「転向」』という著作に詳しく展開されていて、中で、1972年にあった時代の大転換の、同時代感覚を担う文芸評論家として、加藤典洋、竹田青嗣、初期の浅田彰の名前があげられている。

その夜、詩誌の名前にも借りていた、酒場『菊屋』の宴会と、もう1件別の宴会をすませて、ホテルに戻ってから、加藤さんの部屋で橋爪大三郎さんと3人で、わたしが持参したワインを飲んだ。
橋爪大三郎さんは、まだその時点で、ソヴィエット連邦の崩壊まで5年の歳月を残していたが、社会システムとして、存続はもう不可能だろうと話していた。
すでに『ソヴィエト帝国の崩壊』=小室直樹という本が出版されていて、わたしもそれは読んでいたが、奇矯のひととして知られるそのひとの論説を、そのまま信用する気にはなれないでいた。橋爪大三郎さんの話では、その論説の大筋は正しく、アメリカ=レーガン政権のSDI構想というものも、体制崩壊の促進を目的とした仕掛けだというのであった。
現在から振り返ってみると、SDI構想がソヴィエット体制崩壊の最後の引き金となったことは、定説となっている。

そのとき橋爪大三郎さんが、社会学者となった初心を、問わず語りにはなしたことをよくおぼえている。
日本というものを、外人の目が見てもすっかり分かるように開いてみたい、というのであった。その構想の遠大さと困難は、『とまどうペリカン』であったわたしにも想像できた。
最近、WEBでアクセスしたあるひとの論説で、橋爪大三郎さんが初心から続いている思いを、『完全な自動翻訳機』という比喩で語っていて、「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなる」と言っているのを知った。橋爪大三郎さんの言葉としては、めずらしく分かりにくいのだが、わたしはこれを予言としてではなく、日本人と外国人とが共有できないものの核心=天皇制を、『すっかり分かるように開いてみたい』という表明だと思って読んだのだった。

名古屋に来る新幹線の車中で、そのころではまだ珍しいノートパソコンを打ち込んでいる、橋爪大三郎さんの姿を見た加藤典洋さんが、感心しきりであったのを思い出して、あのころ時代はまだアナログの世界で、井上陽水の『ライオンとペリカン』も、わたしはLPで持っていたのだったことを思い出した。

わたしの『とまどうペリカン』の名古屋の夜が、1986年のことだとはっきりおぼえているのは、持参したワインが取って置きの、葡萄の出来がよかった1985年のシャトーヌーフドパフだったから、というだけの『とまどうペリカン』らしい理由である。


『昭和史20の争点』という本で「東京裁判は政治ショーだったのか」という章を、橋爪大三郎(社会学者)が書いている。靖国神社についてふれている箇所で、靖国神社には『公務従業者やボランティア(志士)を祀っている』という文章があって、なるほどなあと思った。

わたしがなるほどなあと思ったのは、ボランティア=(志士)という英文和訳である。
わたしの語感は、「雑多なひと→ボランティア→いいひと→良心」、「ひとかどのひと→志士→こわいひと→大儀」というものなので、公務と民事の区別でこう表現されても、それ以上の意味を受け取ってしまうのである。
つまりわたしは翻訳 ボランティア=(志士)から、→が動いてゆく項目の組み合わせが多様にあるのを、ぼんやりと直感して、なるほどなあと思ったのだった。

それから、新聞や雑誌やWEBの記事などでボランティアという言葉を見ると、→があたまを掠めるようになった。

YAHOO JAPA NにはYAHOOボランティアというサイトがある。YAHOO志士と読み直してみれば、秘密結社のようなにおいがして来る。

もう都知事選挙は終わったが、候補者 浅野某には勝手連という応援団体ができた。政治的なボランティアである。これはある雑誌の記事によると、「雑多なひと→ボランティア→いいひと→良心」という→の流れを装っていたが、実はそこには、チュチュ思想という大儀を信奉する→こわいひと→志士などもいたのだという。わたしは頭のなかを飛蚊のように動き回る→といっしょに、事態を読み直してみる。

1ヶ月ほど前、テレビで『壬生義士伝』という映画を放送していた。飛蚊→がブーンとうなり始めて、画面を観ながらわたしは、『壬生ボランティア伝』か、とつぶやく。中井貴一の役どころは剣の腕前はひとかどだが、志は雑多なひとと言っても好いだろう、と思いながら筋の流れを追って行く。人物像がだんだん分かってくる。思い出したが、主人公の下級武士は吉村という名前でセリフは岩手弁である。映画が進行するほどに主人公が、雑多なひと=ひとかどのひとであり、いいひと=こわいひとでもあり、私欲=大儀でもあるという、興味深い性格付けをされているのを観ることになる。
さすがに映画化されるほどに売れた小説は、おもしろい視点を用意して書かれている。
中井貴一の醤油顔も、こういう役柄にはぴったりだ。

ボランティア=(志士)、ボランティア=(志士)と言葉をくりかえしていると、語呂合わせか喩の関連かわからないが、『ライオンとペリカン』という井上陽水のアルバムを思い出した。
これをタイトルとして使わせてもらうことにする。
ひさしぶりにCDを探し出して、『とまどうペリカン』を聴いてみよう。


Powered by samidare