2025年度の上杉文華館は「謙信・景勝に手紙を書く」と題して、国宝「上杉家文書」などを展示します。
戦国時代、書状は一定の規則に則って書かれました。このような規則を書札礼といい、差出人と受取人の関係が反映されていました。それをまとめた書札礼書 も作られました。そこには差出者の社会的地位に応じた規範が示されています。その適用は厳密であり、ゆえに実際の書状の書き方から両者の関係を知ることも できます。東国の大名間では、差出は実名に花押、宛名は名字に殿の尊称という表記が、原則的に対等な関係を示していました。特別な内容や礼状などでは、宛名に「謹上」のような上所、差出の実名に官途や姓などを加えて厚礼とし、より丁寧な気持ちを表すこともありました。
永禄4年(1561)、謙信(長尾景虎)は上杉憲政から名跡と関東管領の地位を譲られ、上杉氏を名乗ったことはよく知られています。これによって謙信、景勝 はその地位に応じた書状を受け取ることになりました。宛名には、「上杉殿」や「上杉弾正少弼殿」などの名字を冠したもの、「山内殿」や「越府」、「春日山」 などの地名を記すもの、また本人ではなく、報告を求めて側近に宛てたものなどがみられます。これらは差出人の立場によって選ばれますが、その基準をみていくことで、謙信や景勝の地位、諸大名家の権力構造、東国社会の変容などがみえてくると思われます。
2025年度はこの解明に取り組んでいきます。
第12回《山内殿の終焉》
【展示期間】2月25日(水)~3月29日(日)
展示目録はこちら
「山内殿」という宛名表記は、現在確認できる書状では、天正てんしょう一四年(一五八六)四月が最後です。現在残されている文書の数は、実際にやりとりされた数に比べればわずかですので、これが最後であったと確定することできません。しかし、この後、関東の領主から上杉景勝に宛てた書状がみられなくなります。ゼロにはならなくとも大幅に減少したことが想定されます。そして、天正一四年は豊臣政権の関東支配の大きな画期の一つとなった年でした。
それは六月の景勝、一〇月の徳川家康の豊臣秀吉への臣従でした。以前から両者ともに秀吉の関東支配実現に重要な位置にいましたが、家康との関係が安定しない中、先行して従った景勝に北条氏を含めた関東の諸領主との交渉役(取次とりつぎ)が委ねられ、次いで臣従した家康が改めてその交渉役に位置付けられました。これによって景勝の取次の地位は後退した、あるいは継続したと両極の評価があり、また軍事力行使を主体とする役割に転換したといった評価も出されています。
このような評価の是非を今は判断できませんが、景勝の関東に対する軍事力も秀吉の指揮に基づいて発動されることになりました。この景勝の立場は、関東の領主との直接の通信によって活動していた時代とは大きく異なっています。このような中で景勝と関東の諸領主との通信は大きく変容したことが想起されます。そして、臣従後、たとえ「山内殿」表記の景勝宛書状があったとしても、それは関東管領に淵源えんげんを持った「山内殿」とは異なる存在であったと言わざるを得ません。秀吉への臣従は「山内殿」の終焉でした。
▼ コレクショントーク
日時:3月1日(日) 14:00
場所:常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
令和7年度上杉文華館展示スケジュールはこちら
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238-26-8001


