令和6年度の上杉文華館では、16世紀の長尾上杉氏と北陸地域(主に越中・能登)の歴史的関係について、国宝「上杉家文書」を中心に通時的に紹介します。
越後と隣接する北陸地域への侵攻は、上杉氏の領国(領土)形成の上で重要であり、北陸の諸勢力をいかに統合するかがカギとなりました。ただし、上杉謙信の北陸侵攻は、武田信玄や北条氏康といった関東甲信勢力のほか、一向一揆や織田信長などとの関係・動向に規定される側面があり、謙信を取り巻く当時の政治状況に配慮したなかで行われました。
謙信の北陸侵攻は、関東侵攻(17回)に次いで多く行われており、その数は11回に及びます。小田原北条氏・甲斐武田氏との関係変化により、信濃・関東の攻略が足踏みする中で、北陸地域は上杉氏の領国化が叶った地であり、謙信の晩年になって越中と能登が上杉氏の版図に組み込まれています。
北陸地域における同盟者の裏切り、敵対勢力との和睦・合力など、目まぐるしく変わる情勢に、長尾上杉氏がどのように対応していったのか、一進一退の攻防を繰り返した長尾上杉氏の北陸侵攻を主軸に据えて、その内容を深めていきます。
第12回「本能寺の変と北陸情勢」
【展示期間】2月26日(水)~3月23日(日)
展示目録はこちら
天正10年(1582)になると、越中では富山城(富山県富山市)・魚津城(同魚津市)を中心に、織田と上杉の激しい攻防が繰り広げられます(資料1~3参照)。また、上杉景勝と同盟関係にあった武田勝頼は、木曽義昌の逆心などで織田勢の侵攻を許した結果自害し、武田氏は滅亡しました(3月11日)。信長に対抗する同盟主を失った景勝は、越中(柴田勝家)・信州(森長可)・上野(滝川一益)、下越(新発田重家)から包囲され、窮地に陥りました。景勝は、5月上旬に越中へ出馬しますが、森長可が越後へ侵入すると、急いで帰還し春日山の防備に徹せざるを得ない状況でした。その結果、天神山城(同魚津市、5月26日)、魚津城(6月3日)が相次いで落城し、景勝は存亡の危機に見舞われました。しかし、本能寺の変で信長が横死したことにより事態は一変し、景勝はこの窮地を脱しました。織田勢が北陸を撤退するなか、景勝は富山城まで勢力を挽回しますが、信長の旧臣佐々成政と対立するなど、北陸情勢は依然として不安定な状況でした(資料4)。
今回の展示では、本能寺の変前後の北陸情勢を取り上げ、当該期における上杉景勝の動向を紹介します。
▼ コレクショントーク
日時:3月2日(日) 14:00
場所:常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238-26-8001