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上杉文華館 「謙信を生んだ一族・長尾氏⑪」

上杉文華館 「謙信を生んだ一族・長尾氏⑪」

上杉定実と長尾為景

 

2016年度の上杉文華館は「謙信を生んだ一族・長尾氏」をテーマにゆかりの文化財、貴重な史料をご覧いただきたいと思います。

平成28年度、第11回目のテーマは… 「上杉定実と長尾為景」 です。

 

【展示期間】 平成29年1月31日(火)~2月26日(日)  

 

 長尾氏は桓武平氏の一族で、相模国鎌倉郡長尾郷(横浜市戸塚区)を名字の地とし、三浦氏や梶原氏、鎌倉氏、大庭氏、などが同族です。後三年合戦に活躍した鎌倉権五郎景正や、源頼朝に仕えた梶原政景らは一族です。しかし、鎌倉時代の長尾氏の動向はよく分からないことが多いのが実情です。宝治元年(1247)に執権北条時頼によって滅亡に追い込まれた有力御家人三浦氏に味方していたことから没落し、その後鎌倉幕府6代将軍に就任した宗尊親王に従って、京都から鎌倉に下向してきた上杉氏の家臣になったと考えられています。鎌倉幕府が滅び、室町幕府が開かれると、その重要メンバーであった上杉氏の活躍によって、その家臣である長尾氏も確かな記録にその名をみせるようになりました。

 謙信は越後府中を拠点とした「府中長尾氏」と呼ばれる一族の出身です。この長尾氏は越後守護代を代々務めてきました。謙信もまた家督継承とともに越後守護代に就きました。

 

2016年度第11回目の上杉文華館は、「上杉定実と長尾為景」と題し、永正4年(1507)8月に守護上杉房能を倒した長尾為景の動向を、新守護に擁立した上杉定実との関係を通して紹介します。後の謙信につながる長尾氏の戦国大名への第一歩を踏み出した状況です。

「国宝上杉本洛中洛外図屏風」は、1995年に狩野永徳が描いた際を想定再現された複製です。

 

▼ コレクショントーク

 「謙信を生んだ一族・長尾氏 ~上杉定実と長尾為景~」

平成29年2月11日(土)14:00~

場所: 常設展示室 上杉文華館

※入館料が必要です。

 

 

お問い合わせ 米沢市上杉博物館 0238-26-8001まで

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

2017.02.04:denkoku:[博物館情報]

ギャラリートークのお知らせ

現在、開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」を好評開催中です。

ギャラリートークのお知らせです。

2月4日(土)14時から「学びと改革」をテーマに、当館学芸員による展示解説を行います。

みなさまのご来館をお待ちしております。

※企画展入館料が必要です。

 

2017.02.01:denkoku:[博物館情報]

上杉鷹山と学びの時代 みどころ紹介4

「学び」といっても、遊びも大切…米沢の相撲番付と、上杉家の出世双六

 2月12日まで開催中のコレクション展「上杉鷹山と学びの時代」のみどころ、面白い資料などを何回かに分けて、ご紹介します。

 「学び」というと「お勉強」というかた苦しいイメージがあるかもしれませんが、「遊び」も大切な要素です。今回は2章の中ほどで「学びと遊び」という小コーナーを設けています。
 
1、勧進角力番付 

寛政元年(1789)から文久元年(1861)まで73年間に主として米沢で興行された、勧進相撲番附の集成で、文化3年(1806)、米沢城下米沢柳町で8月に開催された角力の番付部分を展示しています。
 当時最強と謳われた江戸の大関・雷電為右衛門の名前が確認できます。一方、西の前頭(二段目)の鶯忠内と若竹雪之助をはじめ、西の最下段に「米沢」と肩書のある力士が掲載されています。他の年の番付では「米沢」の記載はほとんど確認されません。
 他の資料から、この角力興業は柳町の空き家対策の一環で行われたことがわかります。娯楽を町の活性化に利用したのです。

資料情報
勧進角力番付   1枚(1巻)
(文化3・1806)
35.0×31.0 
米沢市上杉博物館(吉川文書)

2、杉斉定所用「官職双六」


 

 朝廷の役職や官位を題材にした出世双六です。外袋に上杉斉定(鷹山の義理の孫、11代米沢藩主)が使用した旨の記載があり、駒と遊び方の説明書が附属しています。
 朝廷の役職と官位は武家の序列化にも用いられたため、大名の子弟にとっても学ぶべき事項だったのでしょう。

遊んでみたい、という来館者の方からのおこえもありますが、複雑なルールのため一筋縄ではいけません。ルールの概要は展示室内のパネルに記してありますので、ぜひご覧ください。

資料情報
 江戸時代(18世紀)
 88.5×89.6

2017.01.31:denkoku:[博物館情報]

上杉鷹山と学びの時代 見どころ紹介3

米沢藩士も注目して記した、鷹山の言行

現在開催中の開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」のみどころ、面白い資料などを何回かに分けて、ご紹介します。

今回は米沢藩士が鷹山の言行を記した資料を2点、ご紹介します。

1点目は降旗信周筆上杉鷹山「壁書」写です。

降旗信周筆上杉鷹山「壁書」写
 寛政3年(1791)写
 20.6×13.4
 米沢市上杉博物館(武藤家文書)

 上杉鷹山が実子・顕孝付の家臣に示した教育方針の書「壁書」を、下級藩士が書き写したものです。「壁書」の末尾に書かれた「なせばなる、なさねばならぬ なにごとも ならぬは人の、なさぬなりけり」という和歌は有名ですね。

この鷹山筆の壁書も国宝「上杉家文書」中の原本を現在展示していますが、今回ご紹介するのは同内容を下級藩士が書き記したものです。筆写した降旗信周は「勤書」によれば安永3年(1774)家督、御扶持方に属する下級藩士で、鷹山の側近くに仕えたわけではありません。そのような下級藩士であっても、鷹山が壁書を作成してから、わずか5年後には名言を写し取り、共有していたと考えられます。米沢藩士たちの間でも、「なせばなる…」の和歌は人気だったのかもしれません。

2点目は「翹楚篇後篇」(ぎょうそへん こうへん)です。

「翹楚篇後篇」 一冊
 文化8年(1811)頃
 24.8×16.3  
 米沢市上杉博物館(上杉文書)

 鷹山の言行録として全国に広く流布した莅戸善政「翹楚篇」の続編として書かれた言行録の一種で、寛政9年から文化8年まで約35の逸話を収録しています。内容に重複が多く文章も冗長であり、草稿のようです。
作者は未記載ですが、本文中に「予」として登場する小姓頭の深沢嘉平太が考えられます。一方で「御記録所局中之留」(資料73)によれば、木村丈八編の「翹楚後篇」二巻(未完)という、同名の言行録が別にあったようです。深沢、木村ともに鷹山の側近であり、彼らが鷹山の言行録を作成しています。

鷹山が義理の父・重定を赤湯温泉に連れていき孝行を尽くした話、隠居後の生活や倹約など、鷹山の孝養、礼節、家臣への思いやり、倹約と武備充実を強調する内容となっています。

鷹山の言行への注目は鷹山在世中から藩内でも高かった様子がうかがえます。

開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」は2月12日まで。会期も短くなってきましたので、お見逃しなく。

2017.01.25:denkoku:[博物館情報]

上杉鷹山と学びの時代 みどころ紹介2

現在開催中の開館15周年記念コレクション展「上杉鷹山と学びの時代」のみどころ、面白い資料などを何回かに分けて、ご紹介します。

今回ご紹介するのは、尋常小学校の女子生徒が唱歌「鷹山公之歌」を記したノートです。
全32番まであり、上杉鷹山の生涯と様々な改革の内容、有名な言行が盛り込まれています。明治35年、米沢市高等女学校(現・米沢東高)の富永周太郎が作詞しました。


「鷹山公之歌」 1冊
明治30~40年代 24.8×17.4
米沢市上杉博物館(売間家文書)

 

今回の展示にあわせ、米沢東高音楽部声楽班の皆さんにご協力いただき、この唱歌「鷹山公之歌」を歌っていただきました。伴奏には明治時代の学校をイメージして足踏み式オルガンを使用しています。展示室の最後のコーナーで、1~4番の美しい合唱をお聞きいただけます。

 明治時代の米沢の子どもたちが、鷹山の治績について音楽を通じて学んだ様子を、ぜひ体験してみてください。

 

 

 

2017.01.18:denkoku:[博物館情報]