上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市
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上杉景勝公(長尾顕景)、直江兼続公(樋口与六)の生誕の地である越後国上田庄坂戸(新潟県南魚沼市)は上田長尾家が治めていた土地でした。その城下に上田長尾家の菩提寺としてあったのが「龍言寺」(りゅうごんじ)です。

上杉景勝公の父である長尾政景公が事件に巻き込まれ亡くなると、上杉景勝公と母である仙洞院様(上杉謙信公の実姉綾姫)は春日山城主の上杉謙信公に引き取られます。これにより上田長尾家は事実上断絶となり上田庄は上杉謙信公の支配となりました。

上杉謙信公の死後、上杉家の家督を継いだ上杉景勝公は、会津、米沢と移る際も「龍言寺」を共に移し、特に米沢に入部された時は、米沢城本丸の「上杉謙信公祠堂」に次いで「龍言寺」の建設を急ぐよう直江兼続公に命じています。

上杉景勝公の守護を受け米沢の地にいち早く再建された「龍言寺」。






天文十一年の文字が見えます。(長尾政景公と仙洞院様が結婚された頃)


新潟県南魚沼市の「龍言寺跡」に建つ石柱。

新潟県南魚沼市の龍言寺跡の地図

※「龍言寺」様は拝観を行っておられません。
上田長尾家の菩提寺 龍言寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
甘糟景継(あまかすかげつな)は上杉謙信公、上杉景勝公に仕えた家臣で、直江兼続公(樋口与六)と同じ越後国上田庄の出身です。上杉家会津120万石の時代には白石城主を務めました。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」が起こる直前まで白石城を前線に伊達政宗に対して睨みを利かせていましたが、徳川家康の小山着陣に際し一時会津に戻った隙をつかれ伊達政宗に白石城を奪われてしまいました。→ しかし徳川家康が小山を離れ西に向かうと、伊達政宗は上杉の矛先が伊達に向けられるのを恐れ、手のひらを返し上杉景勝公に白石城を返すと申し入れています。

春日山林泉寺の境内にある「甘糟景継」の墓。直江兼続公にとっては同郷であり兄のような存在でした。

大河ドラマ「天地人」では、パパイヤ鈴木さんが「甘糟景継」役を演じられました。

春日山林泉寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
どうして埋葬された【徳昌寺】から【林泉寺】に移されたのでしょう。

(少し長くなりますがお付き合い下さい。)

林泉寺と徳昌寺はともに越後を始とする曹洞宗の寺院です
林泉寺は上杉謙信公の祖父によって創建された寺で、上杉謙信公が7歳の時から厳しい修行を積まれ学問を学ばれた帰依寺でした。一方の徳昌寺は直江家代々の居城である与板にあった直江家の菩提寺でした。当時曹洞宗では末寺においてもその上下関係を厳しく定める寺院統制が行われていましたが、この2つの寺の間では定められていませんでした。

ではなぜ定められていなかったのでしょう
林泉寺は上杉家が越後を離れ会津、米沢と移る際に一時法灯を絶やしてしまいました。再建されたのは直江兼続公が亡くなる3年前の元和2年(1616年)ですから、15年〜18年間その存在が無かったことになります。一方の徳昌寺は上杉家会津120万石移封に際し、豊臣秀吉から直々に直江兼続公が米沢30万石を拝領したことを受け、会津を経由せずに与板から真っ直ぐ米沢に移されていました。法灯が絶えた寺と上杉家執政の菩提寺ですから寺院統制など問題外の話だったのです。

話は変わりますが、直江兼続公の藩の人事は身内で固めたものでした
上杉家の執政として米沢藩の中枢にあった直江兼続公は、上杉景勝公、直江兼続公の生誕地である上田庄出身の「上田衆(五十騎衆)」と直江家の居城があった与板出身の「与板衆」の言わば身内で重臣を固めました。これは上杉謙信公直参の家臣団「国衆(侍組)」にとってこの上ない屈辱であり「反直江」の感情を募らせることになりました。

お船の方様が亡くなると「反直江」の家臣団の感情は一気に爆発
直江兼続公、上杉景勝公に続いてお船の方様が亡くなると「反直江派」は、藩の中枢から上田衆と与板衆の重臣達を追い出し権力を掌握します。更に30万石の小藩に転落したこと、直江状のせいで今も幕府の機嫌を害していることは全て直江兼続公の失政が招いた結果だとして、死後であっても厳しい処分を課すべきとの意見が大勢を占めるようになって行きました。

そして寺院統制の話と処分の話が結びつきます
「反直江派」は林泉寺を使って直江兼続公夫妻が埋葬された直江家菩提寺徳昌寺を攻撃し始めました。寺院統制を主張し林泉寺の指揮下に入ることを求めたのです。徳昌寺はこれに応じず藩に仲裁を訴え出ましたが、すでに藩の中枢に後ろ盾は無く、最後は林泉寺によって寺は打ち壊されてしまいました。敗れた徳昌寺は与板に逃げ帰り直江兼続公夫妻の墓はそのまま残されてしまいました。

直江兼続公の家臣団「与板衆」が動き始めます
この結末に「与板衆」は直江兼続公夫妻の墓を城下の真福寺(しんぷくじ)移そうとしました。ところが「反直江派」はこれさえも良しとはしませんでした。直江兼続公夫妻の墓と霊牌を取り上げ林泉寺に移してしまったのです。その上で「与板衆」には林泉寺の檀家となるよう迫りました。しかし「与板衆」はこれに応じず、かと言って墓と霊牌を力で取り返すことも出来ず、今度は「与板衆」が屈辱を味わうことになってしまったのです。

与板衆のみで細々と行われた直江兼続公夫妻の法要
「与板衆」は直江兼続公の生母方の菩提寺である信濃泉衆の「東源寺」(とうげんじ)を招き米沢城下に寺を創建しました。そしてこの寺で直江兼続公夫妻の菩提を弔い細々と法要を執り行っていました。藩の重臣の法要は藩主催で執り行うのが慣例であったこの時代、直江兼続公夫妻にこの慣例が適用されることはなく林泉寺で法要が執り行われることは一切ありませんでした。

戒名に院殿号が付いたのは没後100年後、名誉は上杉鷹山公が回復されました
お武家様の戒名には必ず院殿号が頭に付くものですが、当初直江兼続公の戒名にはそれがありませんでした。付いたのはなんとお亡くなりになられてから100年後でした。「英貔院殿達三全智居士」が直江兼続公の戒名です。またその約50年後、第九代米沢藩主となられた上杉鷹山公は、直江兼続公の名誉を回復し、直江家断絶後に途絶えていた法要を藩として執り行い、その功績の継承と発展にお力を注がれました。それ以降の歴代藩主もその心を受け継ぎ、直江兼続公の菩提を手厚く弔われました。


このような経過を辿り現在は林泉寺の境内にお二人並んで眠っておられる直江兼続公夫妻。果たしてどのように感じておられるのでしょう。お二人のお気持ちをお聞きすることは出来ませんが、徳昌寺様が与板に戻られる際一緒に与板に戻りたかったのではないでしょうか。夫婦となった与板の地で安らかにお眠りになられたかったのではないでしょうか。上杉時代館にはそう思えて仕方ありません。(合掌)

新潟県長岡市与板の徳昌寺様。与板城を居城とした直江家代々の菩提寺です。


直江兼続公夫妻が故郷与板の菩提寺徳昌寺様の境内に眠られることはありませんでした。


直江兼続公、正室お船の方様、長男景明様の御位牌ですが、このような経緯から米沢の林泉寺、米沢の東源寺、そして長岡市与板の徳昌寺と三組が現存しています。

かつて【徳昌寺】があった場所の地図

新潟県 長岡市 与板の【徳昌寺】の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
親の代の時は宿敵でも 子の代では親戚に
上杉と武田は五度も川中島で戦った敵同士でしたが、武田信玄公が元亀4年(1573年)に、その後上杉謙信公が天正6年(1578年)に病気で亡くなると、家督を継いだ武田勝頼公と上杉景勝公は織田信長に対抗するため「越甲同盟」を結びました。更に上杉景勝公は武田勝頼公の妹菊姫様(武田信玄公の四女)を正室として迎えこれにより上杉家と武田家は親戚となったのです。
武田信玄公の遺言 「何かあった場合は上杉を頼れ」
武田信玄公がお亡くなりになる際にそう遺言されたと言われています。武田勝頼公はまさにこの遺言を実行され上杉景勝公の支援を得ながら織田信長と戦いましたが、遂に力尽き「天目山の戦い」で自害、そして武田家は滅亡してしまいました。
姉の菊姫様を頼り 武田勝頼公の弟が上杉に
武田信清(武田信玄公の六男)は織田信長の追手をかわし、姉の菊姫様(武田信玄公の四女)が嫁いだ上杉家に逃げ込みました。上杉景勝公に3300石で召抱えられた武田信清は生涯家臣として仕え、寛永19年(1642年)83歳で亡くなりました。その後も米沢の武田家は幕末まで高家衆筆頭として上杉家に仕えています。

武田信玄公の六男、武田勝頼公の弟、武田信清の墓。(画像中央の五輪塔)


武田信清も兄武田勝頼公同様、父武田信玄公の遺言に従いました。


春日山林泉寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
直江兼続公の戒名は没後100年を過ぎてから院殿号がつけられたと言われています。つまりお亡くなりになられた時は「達三全智居士」だけだったということです。正室お船の方様がまだご存命中にもかかわらずどうして院殿号のない戒名とされたのでしょう。残念ながら経緯を知るための史料(古文書)は遺されておらず今も不明となっています。

「英貔院殿達三全智居士」(えいひいんでん たつさんぜんち こじ)


直江兼続公没後18年、お船の方様がお亡くなりになると、藩の中の権力構図は一気に塗り替わります。「反直江派」の上杉謙信公直参の家臣団「国衆」が権力を掌握したのです。これにより直江兼続公の家臣団「与板衆」は藩の中枢から追い出されてしまいました。これは直江兼続公が長年に渡りあまりにも偏り過ぎた藩の人事を行って来たために起きた「反直江派」による憎悪に満ちた”クーデター”でした。

直江家は後継ぎがいないため断絶、支えて来た家臣団「与板衆」は力を失い、藩の中では直江兼続公を処分する声が高まるばかり。そんな混乱から史料(古文書)が意図的に歴史上から消されたのかも知れません。



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)


元和5年(1619年)12月19日、直江兼続公は江戸の鱗(うろこ)屋敷でその生涯を閉じられました。享年60歳。遺骨は高野山清淨心院と与板から米沢に移された直江家の菩提寺【徳昌寺】に分骨埋葬されました。それから18年後の寛永14年(1637年)1月4日、同じく江戸の鱗屋敷で正室お船の方様が81歳でお亡くなりになりました。遺骨は兼続公が眠る米沢の【徳昌寺】に埋葬されました。お二人のお墓はその後【徳昌寺】から林泉寺に移されましたが、今もお二人寄り添い並んで眠っておられます。

春日山林泉寺の境内に並んで建つ直江兼続公夫妻の墓。


同じ境内に 同じ墓石で 同じ形に 造られたご夫妻の墓。


男尊女卑の時代には考えられない大変珍しいことです。


墓の覆いの前面には直江家の家紋があしらわれています。中に五輪塔の墓石があります。


ご命日の墓参。降雪が早い年は雪に覆われてしまいます。


春日山林泉寺の地図



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