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◆高畠の歴史  027号◆

  • ◆高畠の歴史  027号◆
今回は『屋代の庄と南朝』についてお届けいたします。
南北朝時代は、1336年から1392年の56年間を言っています。
奥羽の士族においても南北に分かれ領地の争奪戦を行っています。
鎌倉時代末期の惣領制度の矛盾が大きく表面化したとみることができます。
置賜は長井氏が統括し始めてから六代目の長井広秀の時代となっていました。
お隣福島の伊達郡を賜って伊達氏を名乗った伊達家は7代行宗の時代となっていました。
置賜の長井氏は北朝として、伊達郡の伊達氏は南朝としての立場を明確にし、南北朝時代のどさくさにかこつけて、領地争奪戦の様相が強くなっていました。
伊達家8代の宗遠 とその息子9代義山政宗は1380年新宿峠(今の二井宿峠 R113)を越え置賜に進攻してきました。親子2代にわたり5年かけて置賜は伊達家の配下にはいることになります。

長井氏は置賜に在住せず管理を地頭に任せる、いわば不在武将でありました。
逆に伊達家は福島伊達郡に居を構え統治する在地武将であり、その立場を鑑みての侵攻との見方もできると思います。

次回は、『置賜の伊達家』についてお届けいたします。

伊達家が攻めてきた古道を、毎年古道ハイクとして、5月にトレッキングをしています。

◆高畠の歴史  026号◆

  • ◆高畠の歴史  026号◆

山形県置賜地方の長井の庄を領地とした大江広元は、
村山地区の寒河江も領地としました。長男を寒河江の庄の地頭に、
二男の時広を長井の庄の地頭につかせました。

大江時広は姓を長井とかえここに置賜を統括する
長井家の初代が誕生します。
以後約190年にわたる長井家の置賜統治が行われます。

長井家3代時秀は、鎌倉幕府執権北条時宗の死と
鎌倉五山臨済宗建長寺の開山道隆大覚禅師の死を
悲しみ地頭職の地 長井の庄に禅寺建立を決意し
開山されたのが資福寺であるといわれています。

建立の地を越後、出羽、陸奥の国の交通の要であり、
近くに郡衙もあったところである置賜の中心地、
屋代の庄夏刈り(現在の高畠町夏刈)に決定したのであります。

ここに、慈雲山資福寺を創建し合わせて学問の場としました。

執権北条時宗の修禅の師、およびゆかりの寺との縁により、
鎌倉五山の建長寺大休禅師の高弟、紹規老により建立されました。

当時、関東十州の折1国1大寺の時代であったが、
建長寺末寺として寺格も高く関東十刹の一つとして
鎌倉五山との人事交流もあり出羽の国の名寺でありました。

したがって置賜全域の禅僧はすべてこの資福寺にて
修禅研学をなしたものであったと思われます。

190年間の長井氏の置賜統治の最大の功績は、
資福寺建立であったといっても過言ではないといわれています。

この資福寺がのちに独眼竜政宗の学問の場として登場することになります

◆高畠の歴史  0025号 ◆

  • ◆高畠の歴史  0025号 ◆
『奥州合戦と伊達家の発祥』についてお届けいたします。

源平合戦で平家を下し大活躍した源義経は、朝廷より官職を賜ります。
しかし、このことについて兄源頼朝の許可を得ていなかった為に
兄弟に摩擦が生じ義経は追放され追われる身となります。
義経は日本海沿岸を北上し庄内から最上川を登り鳴子に入り、
奥州藤原を頼ることになります。

義経が藤原にいるとの情報を得た頼朝は再三義経を
引き渡すように迫りますが藤原は対応しませんでしたが、
4代藤原泰衡の代になり危機を感じ義経を捕え頼朝に
引き渡そうと夜襲をかけ襲いますが義経は自害をしてしまいます。

泰衡は頼朝の機嫌をとろうと義経の首を塩漬けにして届けますが
逆に攻めのチャンスと見た頼朝に攻められることになります。

源頼朝は東国武士28万の軍勢で藤原攻めに北上し
藤原軍と福島県国見町阿津賀志山にて激突します。

「欧州合戦」の始まりです。数に勝る源氏が圧勝します。
鎌倉幕府開設の3年前のことです。

「欧州合戦」で戦功を挙げた常盤の国中村氏が
福島伊達郡を拝領し伊達氏を名乗ります。
これが伊達家発祥となります。

方や同じく戦功のあった鎌倉の御家人大江氏が
山形置賜長井の庄を拝領し長井氏を名乗ります。
これが山形置賜の源となります。

もともと藤原の庄であったそれぞれの領地は
源氏の家来に分配されたことになります。
ここからがおきたまの新しい歴史がはじまります。

◆高畠の歴史  0024号◆

  • ◆高畠の歴史  0024号◆
今回は、『陸奥の国の大きなうねり』後3年の役についてお届けします。
前9年の役で清原氏が陸奥の国を統括することになりました。

しかし、戦勝した清原氏は安部氏の拠点を統括するうえでの
混乱を減ずるため行った、安部の血脈、
頼時の娘とその子清衡の内部受け入れが問題の種となっていき
異母異夫兄弟の中でいさかいが始まり内紛に発展してしまいます。

折しも、前九年の役で活躍した源義家が陸奥守を拝命し陸奥国に入って、
清原一族の仲裁に入りますが最終的に、安部と藤原の血を引く清衡と
源義家が手を組み内紛平定となります。

戦後清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れ、
実父である藤原経清の姓、『藤原』を名乗り
ここに奥州藤原が誕生する事になります。

前九年、後三年の役を通じ大活躍した源義家が当時、
戦勝祈願として高畠町の安久津八幡神社に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと言われています。

一方源義家は、朝廷から私戦と判断され戦費すら認められませんでした。
関東から出兵した将士には私材から恩賞を出しています。
この事が関東における源氏の名声を高め、後の鎌倉幕府創建の礎となったとも言われています。

その後陸奥陸には『奥州藤原』が平泉を拠点として栄華を極める事になります。
しかし、源義経と源頼朝の関係悪化から奥州合戦に発展し、
続いて伊達家の発祥につながっていくことになります。

◆高畠の歴史  023号◆

  • ◆高畠の歴史  023号◆

今回は、『陸奥の国の大きなうねり』前九年の役についてお届けします。

平安時代の後期、陸奥の国の土着の豪族安部一族は岩手県北上川流域に柵を築き半ば独立的な形勢をなし統治していました。安倍一族が朝廷への貢租を怠るようになり懲罰の為数々の合戦が繰り広げられましたが一進一退の戦いでありました。朝廷は、河内の源氏の源頼義を陸奥守として派遣したが決着がつかず、隣の国の出羽国仙北(秋田県)の俘囚の豪族清原氏の族長に「奇珍の贈り物」を続け参戦を依頼しました。それに答え清原一族は大群を派遣、これにより朝廷軍は清原、源頼義軍合わせて1万の兵で安部一族をなぎ倒し、安倍一族はここに滅亡しました。清原氏は戦功により朝廷から陸奥の国六郡を与えられ奥州の覇者となったのです。これを歴史的に前九年の役と言っています。
前九年の役で源頼義は、息子の義家と共に戦勝をたたえられ、河内の源氏が源氏の中でも最高の格式をもつ家であると称賛され言い伝えられるようになります。その証として、頼義、義家の家系から、源頼朝が出て鎌倉幕府を開き、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏なのであります。彼らが征夷大将軍を名乗ったのは頼義が蝦夷を討伐した戦役があるためであります。
前九年の役で清原氏が奥州の覇者となった時、藤原経清の妻である阿倍頼時息女を妻とし、その遺児も引き取りました。これがのちの後三年の役につながってくるのです。その遺児こそ、後の奥州藤原の祖、藤原清衡なのです。
今回でてきた、安倍一族平定の立役者の一人、源義家が高畠町の安久津八幡神社と関わってまいります。

◆高畠の歴史  022号

  • ◆高畠の歴史  022号

今回は、『陸奥の国の大きなうねり』についてお届けします。

律令国家になったとはいえ、いまだ国家の支配下に組み込まれていない人々がいました。
日本列島東北部に住む人々を蝦夷(えみし)と呼、
彼らを支配するために様々な政策が展開されました。
その直接的な方法が征夷であります。
『征夷』とは蝦夷討伐であり、蝦夷を武力によって制圧する政策でありました。
そのために、出羽国や陸奥国には城柵設置と群の設置が図られました。

しかし、蝦夷の豪族の中には、律令国家となり国に服従したかに見えても、不満を持つものもありました。
その1つが
いまの岩手県辺りの土着の豪族安部一族でありました。

朝廷より安部一族討伐を命ぜられたのが源氏の源頼義でありました。

ここから歴史教科書に出てくる陸奥の国の大きなうねり
『前9年の役』『後3年の役』に続くのであります。

高畠の歴史を語るときに外せない部分がありますので、
少々拡大しますが御了解下さい。

◆本日の高畠◆

  • ◆本日の高畠◆
朝から雨で昼前ようやく収まりました。
大雨注意報が出でいました。

7/11-12は まほろばの里案内人グループで
前9年後三年関係の研修旅行をしてきました。
岩手県は平泉と紫波  秋田県は美里町 
後三年合戦資料館などを研修してきました。

高畠とゆかりのある地域です。

です。