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◆高畠の歴史  021号◆

  • ◆高畠の歴史  021号◆
今回は、『律令体制と置賜群』についてお届けします。

大化の改新により、中央政権の影響が出始めていた飛鳥時代をへて、
奈良時代初頭、出羽の国ができたのでありました。

高畠を含む置賜地方も新政府の律令体制下に入ったわけです。

律令体制というのは、中央政府が全国の土地、
人民を一括して直接支配する組織体制であります。

もともとあった、地方行政組織には、国としての長官、
国司には、中央出身者だけが任命され、
各地方に赴任したのであります。

地方豪族の家柄のものは、その下で群司か軍団の幹部に任用され
里では、農民の中の有力者が里長(りちょう)になりました。

1里は50戸に編成され、すべての人民は、詳しい戸籍に記載され、
その戸籍に基づいて、班田収受が行われるとともに、
さまざまな税が国家の手に正確に徴収される仕組みとなりました。

置賜群は、小郡として、三里位としても150戸が存在していたことになるし、
郡役所は高畠町の小郡山にあったことも理解することができるのではないと思われます。

陸奥の国が発祥し、出羽の国建置後、その所属に入った置賜は同じ体制下にあったわけであります。
この律令制が足かせとなり、陸奥の国東北に大きなうねりが来ようとしていました。

◆これから平泉に出かけます。◆

  • ◆これから平泉に出かけます。◆
まほろばの里案内人のグループで
研修旅行です。

前九年後三年の役と高畠とのかかわりについて
現地研修を行います。


本日の天気予報は曇り時々雨です。

◆高畠の歴史  020号◆

  • ◆高畠の歴史  020号◆
今回は、『古代うきたむ郡の中心地小郡山』についてお届けします。

日本書記には直接的にはうきたむ郡の中心は高畠町小郡山とは書いていませんが、
前回登場した豪族脂利古の存在から推測されるということです。

東北で初めての仏教伝来の地であり、
持統天皇と親密な関係が伺われることから
住んでいた地の近くが中心であったと推測されます。

小郡山の現地を調べた結果、散在する家屋の隙間を縫う道は
東西に正確に区画され自然発生的なものではないこと、
ストーンサークル前から東に向けた道は古いものであること、
ストーンサークルの裏には今こそ水は耐えているが
昔は相当の深さでと広さをもった濠跡が見られることなどから、
うきたむ郡の中心地であったと推測されます。

また、著名な歴史地理学者は、地名からいっても郡(こおり)は、
ぐんとも読み、小郡山が小さな群時代の山形県内最初の中央官制の
証であるとしています。

南陽市宮内には、郡山という地名が存在しますが、
群が大きくなるに従って高畠町から宮内に移ったと考えられています。

◆高畠の歴史  019号◆

  • ◆高畠の歴史  019号◆
今回は、『日本書紀に書かれた置賜と高畠』についてお届けします。

日本書記は天皇を中心とした歴史書では日本最古のものと言われています。
その第30巻に書かれている内容が置賜高畠町のことが書いてあるのです。

持統3年(689年)正月3日
むのたいしの官位を賜っている陸奥の国うきたむ郡の、
きかふ蝦夷の脂利古は、息子、麻呂と金折を引率し、
お坊さんになりたいと申し出できた。
持統天皇は、麻呂らは若いが、みやこ風なところもあり、
態度も爽やかである。人生の岐路に立ち、僧になろうと一大決心をして、
野菜を食し規則を守ってきた。
申し出のように僧になることを許可するから仏の道に励みなさい。

ということが書いてあります。
陸奥の国うきたむ郡とは、今の置賜地区のことであり、
その中心は高畠町小郡山地区だと推測されます。
飛鳥時代の689年に高畠から歩いて
奈良県飛鳥の持統天皇に会いに行っているわけです。その得度願いに、
許可が下りたことはこの時だけの訪問ではなく、
それまでに何回も朝廷とお付き合いがあり信頼関係が築かれていたものと考えられます。

そのような高畠の豪族『脂利古』とはどんな人物なのでしょうか
高畠の歴史研究家によると、新田金原に金山を持ち、
駄子町の白子山の麓に住むこの地方の有力者だったそうです。

清水ヶ丘古墳はこの『脂利古』の墓ではないかとみているそうです。

それから、文献による東北地方への仏教の伝来はこの時が最初だということから、
東北の仏教の伝来地は高畠であったと思われます。

12000年前から人が住み続け 
ついには天皇家と通ずるまでの豪族が
高畠の地に育っていたとは驚きであります。

◆高畠の歴史  017号◆

  • ◆高畠の歴史  017号◆
今回は、『高畠町の古墳時代の生活の舞台』についてお届けします。

町内の古墳の分布から生活の舞台を想像することができます。
まず人口の推定ですが、町内の古墳の数を80基とみた場合
80人の被葬者がいたことになります。短期間でつくられたものでないにしろ、
当時は約25名の集団単位で生活していたと考えられ、
その統領が埋葬されたのが古墳と考えると、
80基×25名=2000人となり古墳時代の
高畠近辺の人口は約2000人と推定されます。

住んでいた場所は台地でありました。当時の平地は、
沼地や湿地でとても人の住めるところではなかったようです。
台地は水の便がよく大風の当たらない日当たりがよく
見通しもきき後ろに山林のある場所であり、
人の住む場所として適しており、
その近辺に古墳が造られたと考えられます。

弥生時代から農業が盛んになり、
古墳時代も農業を生業として多くの人々が
協力して行わなければならない状況から
一定の場所に長く住むようになり集落が形成されてと思われます。
集落ができると集団生活をまとめる人が決められ、
それらの集落のいくつかが集まってまた長になる人が出て、
豪族が誕生するきっかけとなったようです。

当時も女性の労働が占める割合が大きく
夫が妻の家に通うということが行われていたそうで、
働き手であった娘を手放すことを望まなかったためではないかと言われています。

高畠の古墳は古墳時代末期(750年前後)であり
時代はすでに奈良時代に入っております。
大化の改新の簿葬礼の交付(645年)にもかかわらず、
高畠の住民は古墳築造を続けていたことになります。

時代的には、羽山古墳以前に出羽の国の建置(712年)
それ以前に奥陸奥の設置(654年の頃)があり
前後しますがそのころに高畠の源姿が出来上がっています。

◆高畠の歴史  016号◆

  • ◆高畠の歴史  016号◆
今回は、『高畠町の代表的な古墳 羽山古墳』についてお届けします。

羽山古墳は高畠町中心部の北に当たる北目羽山公園内にあり第
1号古墳と称するものです。この古墳は明治27年発見された
約1200年前の古墳時代後期の奈良時代の古墳である。

小規模ではあるが、石組が整然としていて、
発見の際は多くの副葬品を出土しています。

翡翠や瑪瑙の勾玉など5種類650個の玉類、
青銅にメッキが施された金環19個をはじめとして、
直刀、人骨、須恵器なども発見され、副葬品の少ない
本県の古墳の中では最も重要なに古墳として位置付けられています。

勾玉を首にかけた高貴な人は発見された人骨から
純粋な日本民族で関東中部で発見された人骨の骨格と
ほとんど変わりがないことから、
中央から来た支配者の一族ではないかと
推測されます。

高畠町には安久津八幡神社裏の山腹から羽山公園まで一体に
古墳群が存在します。

又町内南部には塩の森、亀岡、元和田にも分布しています。
北は大師森山にも古墳が見られます。『

文献なき時代の集落 古墳これを物語る』という言葉通り、
町内の古墳の分布からいろいろと生活の舞台が推測されます。

◆高畠の歴史  0015号◆

  • ◆高畠の歴史  0015号◆
今回は、『高畠の古代時代』についてお届けします。

一般的に日本史においては、古代時代とは、4世紀ころから
12世紀ころまでの約800年を指しています。高畠町史では、
平家の滅亡までを古代時代としてまとめてあります。

古代時代の約半分の期間は古墳時代でありました。

4世紀から8世紀辺りまでになるでしょうか。
3―4世紀と5世紀初めころまでは、日本の古代国家の基礎が
形成される次期ですが、極度に資料が少なくとくに4
世紀は謎の世紀といわれるごとく、古墳という物証以外は
文字による資料は皆無であり中国の文献にも見いだせぬ時期であります。

高畠町においては、古墳時代の末期でありますが、
たくさんの古墳が存在しております。
『文献なき時代の集落、古墳これを語る』であります。

高畠町に存在する古墳の特徴は群集墳であることです。
その分布は町の中心部より北側で南に面する山腹に
築造されているのが大部分です。主体部は、
凝灰岩を利用し見事な石室を作り出しています。
ここには70を超す古墳群が存在しています。