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◆高畠の歴史  006号◆

  • ◆高畠の歴史  006号◆
今回は日向洞窟から何が出土したかについてお届けいたします。

日向洞窟は、屋代川の流れに沿う高畠町竹の森北方に広がる
白竜湖低湿地の東の丘陵に存在します。
その南斜面の露出凝灰岩の下にある、
二つの洞窟と二つの岩陰からなる遺跡群であります。
西より、第4岩陰、第1洞窟、第2洞窟、第3岩陰と呼んでいます。
第一洞窟は、入り口の高さ1.5メートル、幅1メートル、
奥行き10メートルのひょうたん型洞窟です。
第3,4岩陰はいずれも10平方メートル前後で南を向いています。
第一洞窟の発掘調査は深さ2メートル掘り下げられ
およそ4つの層に分けられたといいます。

出土した自然遺物は下記のようなものでありました。

    1.貝類  マイマイ、キセル貝、カラス貝、ハマグリ、タニシ
    2.魚類   多数
    3.両棲類  ヒキガエル
    4.鳥類   キジ、ヤマドリ、カモ類、ツグミ科、サギ科、マガン、
          白鳥、シギ
    5.哺乳類  日本シカ、カモシカ、イノシシ、アナグマ、テン、
          ツキのワグマ
          キツネ、タヌキ、ニホンオオカミ、ニホンイヌ、ノネコ、
          ノウサギ  ニホンザル
    6.人類   などたくさんの遺物が発掘されました。

上記のことから、洞窟の近くまで湖だったことが裏付けられます。

水辺で魚貝を取り、水を飲みに来た動物や鳥ををとらえ
生活していたことがうかがえます。

◆高畠の歴史  005号◆

  • ◆高畠の歴史  005号◆
日向洞窟は昭和30年から32年にわたり3回の発掘調査が行われました。
しかし、日向洞窟は偶然に見つかったものではなく、
昔から土地の人たちは鬼の穴として熟知していたのであります。
記録によると江戸時代貞亨2年(1685年)ころ、今の時沢は、
竹の森の枝村であった、開拓の時代である。当時日向洞窟は
鬱蒼とした樹林の地であった。
密林の中に傲然と立ちはだかる褐色の岩肌、
それにもましてその奇怪な大洞穴は、まさに鬼の岩屋のごとく
見えたのかもしれない。だれが言うともなく、
立ち入り禁止の地にもなったという。
かくて時代は進み江戸の末期以後、
開拓が進むに従い洞穴は白日の陽をまともに受け、
周囲の目を引くとともに、
石の鏃などを拾うことができる周知の事実となった洞窟である。

特に昭和の大戦後(昭和25年)付近の18町歩が
地主竹の森長谷川家から解放され耕地となってからは、
人々は先住民の居住遺跡としての存在を
思い描くようになったわけでございます。

そのようなことから、当時の山形大学柏倉教授を中心として
高畠町教育委員会の方々などが発掘調査に携わることとなり、
調査が実現したのでございます。

◆高畠の歴史  004号◆

  • ◆高畠の歴史  004号◆
これまでの内容をごらん頂いたとおり、太古の時代から高畠の自然環境は大変恵まれていると言っていいでしょう。
縄文時代以前から、置賜盆地は広大な湖だったと考えられています。前号に出てきた亀岡文殊堂近くの岩蔵山の岩に波による侵食跡が見られると書きましたが、最盛期は文殊山の中腹あたりまで湖だったと考えられます。その湖は現在では、大きく縮小され白竜湖として現存しています。湖だったころは、水辺に植物が豊富に植生し、魚や貝類がたくさん生息し、魚をついばむ水鳥が多数群がっていたことでしょう。野生の動物は水辺に集まり、草食動物は豊かな草を食し、肉食動物はそれらの動物をえさとして生活していたものと考えられます。
そのような環境にどこからか、人類が訪れ、魚や貝類、水鳥を捕まえて食べて住み着き、湖に集まる動物を捕まえる技術を編み出し、さらに土壌が豊かだったことから、植物や木の実も豊富であり、古代人にとってはまことに住みやすいところだったのではないかと考えられています。

高畠町に人類がいつから住み着いたのかを知るには遺跡、遺物に頼るしかないのが現実です。高畠において人類が住み着いた最古のものは、発見された遺物の鑑定から、日向洞窟になります。発見された遺物は縄文時代の区分より以前のもので、日向洞窟から発見された遺物の為に、新しい時代区分が設定されました。『縄文時代草創期』という新時代区分が生まれたのでございます。
これは大変なことで、我々町民としては非常に名誉なことだと思います。

次回は、日向洞窟についてお届けいたします。

◆高畠の歴史  003号◆

  • ◆高畠の歴史  003号◆
002号の下の方に『また地形からいうと山岳までの距離が短い為洪水が起きにくい環境もあり栄養素が流されず蓄えられた状態が続いているものと考えられます。』という部分ですが、『また地形からいうと山岳までの距離が短い為洪水が起きやすく、上流から流れてきた豊富なミネラル成分が川下の扇状地に堆積し蓄えられた状態が続いているものと考えられます。』に置き代えさせて頂きます。
前回002号の末尾では『次回は人々が住み着き始めころの高畠についてお届けいたします』とつづりましたがもう少し自然環境について追加することがありましたので、
今回は、『高畠町の自然環境の特性』についてお届けいたします。
まずは、高畠町の『地勢』についてです。この地域は、東の山々までの距離が短く急斜面であることから、地下水面が高く、排水不良で、屋代地区から赤湯方面に亘る大谷地は泥炭湿地で、近代ではその上を田地としています。畦には高山植物がみられたと言います。海抜200m程度でこのように泥炭地が発達し高山植物が生育し、しかもその表面が水田化されているのは、全国でも非常に珍しい地域であります。
おそらく海底火山の噴火口だったのではないかと考えられます。
002号でお届けしたように、高畠町は海底火山から形成された凝灰岩で埋め尽くされています。それらが、風雨触や水触作用によって壮大な岩肌、洞穴を作り素晴らしい景勝と洞窟の歴史を作っています。高畠地区の塩の森の岩や亀岡地区の岩蔵山の岩には、波による浸食跡が残っており、古代の置賜地区は巨大な湖であったことを裏付けています。それが人類の住み着く大きな要因となります。
続いて高畠町の『気候の特性』であります。高畠町は東北地方の盆地気候の特徴が顕著に表れています。四季が明確であり、夏暑く冬厳寒傾向で、昼間と夜間の寒暖差に非常な格差が見られます。そのことが農作物の成長に好影響及ぼしていると言われています。
次回は、それらの条件から人類が住み着くころについてお届けいたします。

◆高畠の歴史  002号◆

  • ◆高畠の歴史  002号◆
今回も、高畠の土壌について書いてみます。
高畠町の土壌の第2のキーワードは『ブナ』であります。
現在の高畠町には、ブナ林として見るべきものは限られた地域にしか存在していません。しかし代償植生の調査結果から、以前には海抜250M付近から上部の山岳帯にはかなりの広い面積にブナ林が分布したものと推測されます。
高畠町の低海抜の地域にある亀岡文殊堂の上に天然記念物としてのブナの大木が今なお現存していることから、原植生としては、ブナを含むブナクラスの森林植生が高畠町の大半を覆っていたことが理解されます。
ブナは、森の豊かな土をつくり、水を蓄え多くの生物にとって貴重な存在であるためヨーロッパでは、『森林の母』と呼ばれています。
ブナは生まれてから、40-50年経って直径が20CMくらいになったときから種子を作り、死ぬまで作り続けます。そして隔年結実で5-7年に1度多量の種子を生産します。このブナの実は、たんぱくと脂質に富んでいて、多くの生物の重要な栄養源となります。それからもう一つの特徴として、年間1ヘクタール当たり10トンの枝葉を落とし、腐葉土として土を豊かにします。この土にも水が蓄えられ、成木1本で8トンの水を蓄えることが可能と言われております。

そのようなことから、高畠地区の土壌は、高畠石のカルシューム、マグネシューム、カリューム等の豊富なミネラルに、ブナの実のたんぱくと脂質、葉の腐葉土の栄養素、ブナに蓄えられた豊富な水、また地形からいうと山岳までの距離が短い為洪水が起きにくい環境もあり栄養素が流されず蓄えられた状態が続いているものと考えられます。
高畠の土壌は『天から恵まれた自然環境』で守られてきたいっていいでしょう
それを基盤として古代から人々が住み着いた大きな要因と考えられます。
次回は人々が住み着き始めころの高畠についてお届けいたします。



写真は文殊堂の上のブナの原生林です。いまだそのまま残っています。

◆高畠の歴史  001号◆

  • ◆高畠の歴史  001号◆
今回は、高畠の天から与えられた自然環境のうち、農作物に最も大事な土壌についてまとめてみました。
土壌はこの地球上で食糧を生産する場として、地上の生命を支えています。
いわば社会共通資本であると言えるでしょう。
   高畠の農産物を支えている地質や土壌はどうなっているのでしょうか?
第一番目のキーワードは、『高畠石』であります。高畠石は、火山性の凝灰岩で、カルシューム、マグネシューム、カリュームなどの様々なミネラルを含むだけでなく、ゼオライトが含まれていることが分かりました。ゼオライトは、多孔質なジャングルジム構造により、安定して陽イオン(ミネラル)の吸収力を維持するものです。
高畠町の地質は、東側の奥羽山脈に連なる山岳部と、西側の置賜盆地に含まれる平野部とに大別されます。蔵王火山噴出物の安山岩類が北の町境に分布するほかは、ほとんどが凝灰岩であり、山地の谷間と低地は、沖積層が分布し、地質の多くは扇状地埋設物である。扇状地を下流にする河川が氾濫原を作り、この広い平坦地は田畑として利用されています。水はけの良い山麓部は果樹栽培に適しブドウ畑に利用されています。
間違いなく『高畠石』が1つの大きなキーワードになっています。
『高畠石』を母体にして、土壌が作られていることに間違いはないですが、その他に土壌を形成する要因は何かあるのでしょうか?

次回は、高畠の土壌を形成している第2のキーワードについてお届けいたします。

◆高畠の歴史シリーズ   創刊号◆

  • ◆高畠の歴史シリーズ   創刊号◆
高畠町の歴史について皆様に知っていただくことと
私自身のまとめとして ブログで公開したいと思います。
今回は創刊号でございます。


高畠町は他の市町村から見ると、さまざまな果物や農産物が豊富に採れるところとして有名です。なぜ高畠は他の地区と違うのか、又、12,000年前の縄文時代草創期から、いやおそらくそれ以前からだと考えられますが、人が住み着いたのか、
について解明する必要があると思います。

それは、高畠地区の古代からの自然環境に大きく関係するものと思われます。
まず人が住むには、食糧が必要であります。その食量は植物が第一番目に食されたものと考えられます。そのためには、肥えた土壌が必要であり水が必要であります。
そのような環境がそろっていたということだと思われます。

高畠町の土壌ははたして本当に良いものなのか、次号はいろいろな調査資料を引用してわかりやすくまとめてみたいと思います。