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◆高畠の歴史  013号◆

  • ◆高畠の歴史  013号◆
今回は、『高畠の弥生時代』についてお届けします。

土器作りと狩猟の日々の縄文時代から
稲作と金属の発達をみる弥生時代にはいります。
高畠町において、弥生文化の痕跡をとどめる遺跡は、
10か所が確認されています。
しかし、弥生時代を象徴するものが出土した遺跡は1つしか確認されていなません。
おもに洞窟、岩陰の上層より出土しており、他地区の弥生遺跡と大きく異なる内容であります。
これらをみると、稲作文化というより、地理的に山間部である高畠町は、
水稲栽培における水温は低く、多雪な土地柄ゆえ、
農耕にはあまり適していなかったのであろうと推測されます。

出土品も縄文土器に比べ非常に少なく、他地区に比べ特異な弥生文化を形成しています。
なぜ高畠において弥生時代の遺跡の発見ができないのか、考えられることが2つあります。
1つは、弥生文化の流入が遅かったこと、
2つ目は、弥生遺跡が何らかの地理的条件によって消滅したと等が考えられます。
高畠町の遺跡で弥生時代を代表される遺跡は観音岩遺跡が挙げられます。
岩陰を利用して営まれました。ここからは、壺、鉢、等の破片が発見されましたが、
稲作に関するものは発見されていません。
しかし、古代においては高畠区域であったと思われる、米沢市の堂森から、
もみ跡のついた弥生時代の土器が見つかっています。
稲作がこの近辺で行われていたことが分かっています。

置賜地区には弥生時代の遺物が非常に少ないのが残念です。

◆高畠の歴史  012号

  • ◆高畠の歴史  012号
今回は、『押出遺跡から出土した2つ目の驚き』についてお届けします。
押出遺跡からなんとクッキー状の炭化物が出士しました。士器の装飾と同じ渦巻きの模様がついています。調査後、脂肪酸分析という方法によって、クリ・クルミ・イノシシなどの肉・血・野鳥の卵が含まれている事が分かり、縄文時代の高カロリー食品として注目されました。炭化物がついた石皿も見つかっており、加熱した石皿でクッキーを焼いたと考えられています。

驚きの縄文クッキーは、クリ・クルミの粉を練って作った発酵食品でつなぎは野鳥の卵・味付けは岩塩による塩味で動物の肉の細切れを入れているものでした。
粉にして練って石皿で焼いたものであります。肉が入っているということはこのころからハンバーグを食べていたことになります。驚きですね。
世界最古のパンはエジプトのパンで5000年前といわれています。
押出遺跡のこの発酵食品はそれを上回る5800年前のものであることが判明しております。そして、ゆたかな縄文ムラが形成されていたことがわかりました。今から5800年前です。豊富な出土品がわずか4,000㎡で土器400箱、石器83,000点木製品等多量と大量の建築材、木製の道具・容器、大量のクリ・クルミと縄文クッキー・ハンバーグ(世界最古グループ)、更にわずか4,000㎡で39棟の住居跡が発見されました。都市空間に近い密度であります。大変な集落だったようです。
そしてこの時代に、関東方面から漆器を持ってきたり、押出から関東に土器を運んだり、北陸から石器を作る縄文人がきたり、驚くほどの広範囲な交流もあったことがわかっています。

詳しい資料は下記ページをご覧ください。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=135447

http://okibun.jp/cookie/

◆高畠の歴史  011号 ◆

  • ◆高畠の歴史  011号 ◆
今回は、まぼろしの縄文遺跡についてお届けいたします。
その遺跡は、国道13号南陽バイパス建設にともなう昭和60年(1985)より62年(1987)までの発掘調査によって発見されました。出土地は高畠町大字深沼押出(おんだし)で、置賜盆地北部の白竜湖に連なる低湿地であり、東より流下する屋代川と北から流れる吉野川の合流点が形成する自然堤防の後背湿地にあたり標高211.5メートルにあります。この遺跡は縄文前期後葉の遺跡で、今から5800年以前であるとわかりました。ここから出土したものは、国指定の重要文化財となっており現物は高畠町の考古資料館に保管してあります。
指定になっているのは、彩漆土器で完形のものが6個で、他に残欠のものが四個分あります。
内赤漆のみの土器が4個になります。その中でも、最も重要な土器は、高さ14.5センチ直径23センチで、体部が優美な丸味をおび、口縁のまわりには小さな孔がめぐる。底は丸底で、そのままでは立たない形状をしています。それは、赤漆を地に黒漆で文様が描かかれているものあり、本体部の上半と下半に区切られ、渦巻文を四ヵ所に配し、それから弧状や三角状の文様がひろがる。同時期の土器の文様構成に共通するものであります。


なぜ幻の縄文遺跡かといいますと、この遺跡は、湿地帯の下2メートルに埋もれていたもので、縄文集落が天候異変の洪水のため埋もれてしまい消滅してしまった遺跡だということから『幻の縄文遺跡』と言われています。国道の工事がなかったら発見されないままに終わった可能性があります。この遺跡からは信じられない物が数々出土しています。

◆高畠の歴史  010号◆

  • ◆高畠の歴史  010号◆
今回の本題に入る前に、置賜地方の旧石器時代についてお届けいたします。
縄文草創期の前の時代を旧石器時代として括られています。置賜地区で最も古い遺跡は飯豊町上屋地遺跡で3-4万年前の旧石器時代後期ものといわれています。

次に古い遺跡は小国町の東山遺跡、湯の花遺跡、岩井沢遺跡があり3-1万年前のものと思われます。前回では、人類は大陸、新潟、小国、と渡ってきたのではと書きましたがその中に飯豊でのことも含めて考えられることになりますのでご了解ください。

高畠町の日向洞窟は日本列島の数少ない縄文時代最古の遺跡とご認識ください。
縄文時代の特徴として、縄の目の模様の土器を使い、弓矢を使い、犬を飼う
この3点が特徴です。縄文時代は縄文土器の出現と共に始まり、粘土をこねて形を作り加熱を与えて水にも溶けないような器に変化させるという土器の発明は、人類が始めて使った化学変化だといわれています。食物を煮ることや貯蔵することができるようになり生活が大きく向上します。

日向洞窟から発見された遺物は、縄文時代最古の土器が発見されています。
つまり、人類が始めて土器を使って食べ物を煮炊きするようになった器が出てきたのであります。これは、驚くなかれ、日本列島最古の加熱容器として発見されたものです。

国内はもとより世界の考古学者に注目されたゆえんはここにあります。
現在でも、うきたむ考古資料館には海外から学習に来る研究者が絶えません。
これだけ重要な遺物が発見されたことについて町民として誇りに思い伝え続けなれければならない歴史だと痛感いたします。

◆高畠の歴史  009号◆

  • ◆高畠の歴史  009号◆
今回は日向洞窟に住みついた人類は、どこから来たのかについてお届けします。

高畠町では無土器時代の遺跡は発見されておらず、
縄文草創期に属する日向洞窟などの遺跡を持って最古の人類居住地であることに成ります。
日向洞窟の遺物の中に人骨が含まれていることは解明されています。

日向洞窟と似た石器が新潟県小瀬ケ沢洞窟から多数発見されています。
また、似た石器はシベリア、満州、北朝鮮からも発掘されています。

研究者は、石器の中には他地区から渡来の可能性もあると示唆しています。
とすると、日向洞窟の先住人類は、新潟県や更に大陸とのつながりをも
考えられるとしています。

小国町に縄文草創期以前の無土器時代の遺跡が存在することから、
大陸→新潟→小国→日向洞窟と先住民が渡り住みついたのかもしれません

高畠の先住民が時代の系譜のごとく、その文化の担当者として、
縄文人、弥生人そして古墳人、現代人が人種的に継続したものか、
あるいはその中間に、大きな変動があったかは日本人起源の
最大争点と言っていいと思われます。

その意味において、日向洞窟先住民解明の問題はいまだ
学会の謎であり、定説のない日本民族の源泉論に
大きくかかわるものであると研究者は考えているようです。

◆高畠の歴史  008号◆

  • ◆高畠の歴史  008号◆
今回は日向洞窟から発掘された文化遺物は何を物語っているか、
についてお届けいたします。

日向洞窟、第4層から多数の文化遺物が出土しました。
隆起線文土器、押圧縄文土器、爪形,無文の各土器群と
それらに伴出する石器、石片が大量に出土しています。
発掘前は、もしかすると縄文早期のかなり古いものが
出土されるものと期待されました。ところが、
発掘した遺物を調査した結果、研究者の予測を根底から覆す、
全国的にも全く知られていなかった縄文土器だとわかりました。
そして、その遺物は全国的に珍しい、
縄文時代最古の土器であると解明され時代括りとして
『縄文草創期』発見という金字塔が掲げられたのでございます。
従来までの『土器編年の系列』学説における縄文最古の時期
『縄文早期』よりさらに古い『縄文草創期』を設定するに至り全国的に
『日向洞窟』の名と共に、高畠町の名を広く知らしめることとなりました。

考古学的に日向洞窟は縄文最古の遺跡として全国に
周知せしめる源流となった記念すべき遺跡となり
高畠は縄文時代草創期、早期の研究の宝庫となり
世界中から考古学者が訪れるようになりました。
まさに郷土高畠のあけぼのを象徴するものでございます。
高畠町には、日向洞窟を代表として、一ノ沢洞窟、
火箱岩洞窟、神立沢洞窟、尼子岩陰洞窟が
縄文時代最古の遺跡として存在しています。

高畠町は凝灰岩質に恵まれそれらが山肌から突き出ていて
目立つため、古代人が住みかとして利用したものと考えられます。
更に湖と地質上から住みやすい環境だっことが伺えます。

それでは、その人類はどこから来たのでしょうか

◆高畠の歴史  007号◆

  • ◆高畠の歴史  007号◆
今回は日向洞窟から発掘された文化遺物についてお届けいたします。

第一洞穴から発掘された土の上のほうから
第1層と呼ぶとすると、第1層は45センチほどで、土師器や須恵器が出土し、
時代は縄文時代の晩期、弥生時代のものと推定されます。

第2層は12センチほどでさほど数は出なく縄文早期から晩期の石器が出土しました。
この第1.2層を合わせて表土とし計57センチといたしました。

第3層は54センチほどでしたが石器や土器は発掘されず無遺物層となります。

第4層は24センチになりますが、この層から多数の文化遺物が出土しています。
隆起線文土器、押圧縄文土器、爪形,無文の各土器群とそれらに伴出する石器、
石片が大量に出土しました。

第2洞穴は、縄文前期初頭の遺物が中心に出土、

第3岩陰からは縄文晩期から弥生時代のものでした。

第4岩陰からは縄文早期の土器が発掘されています。


これらの発掘された文化遺物は何を物語るのでしょうか

調査の結果想像以上の驚くべき大発掘だったのです。

次号は、日向洞窟から出土した文化遺産の物語るものについてお届けいたします