東北の歴史を紐解くとき騒乱は重要なポイントとなるものと考えます。
常に中央から攻め込まれて防戦する形をとってきた東北の民
われらの先祖たち 蝦夷と蔑まれながら
蝦夷のプライドをかけて戦って守ってきた戦さの連続でした。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び 都から確立した独立国家樹立したしたたかさ。
源頼朝は新政権の体制づくりに奥州平泉の仕組みを学び取り入れようとしました。
平泉の研究が東北人の心意気を知る一つのポイントとになるものと確信します。
東北の歴史を紐解くとき騒乱は重要なポイントとなるものと考えます。
常に中央から攻め込まれて防戦する形をとってきた東北の民
われらの先祖たち 蝦夷と蔑まれながら
蝦夷のプライドをかけて戦って守ってきた戦さの連続でした。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び 都から確立した独立国家樹立したしたたかさ。
源頼朝は新政権の体制づくりに奥州平泉の仕組みを学び取り入れようとしました。
平泉の研究が東北人の心意気を知る一つのポイントとになるものと確信します。
後3年役後清原清衡は、白河院に取り入り父親の姓である藤原を名乗り
藤原清衡として平泉に拠点を置いた。初代清衡は過去の戦での膨大な戦死者の弔いと
仏教による平和な世の中を願い中尊寺を建立しました。2代基衡は毛越寺、3代秀衡は無量光院など寺院建立や都市整備に力を入れ、中央から隔離された平泉王国を築いた。
3代秀衡の時、京都鞍馬寺より義経を平泉に招へいした。理由は定かではないが、蝦夷の血脈に源氏の血脈を導入することで中央進出を図っていたのかもしれません。この時頼朝は、伊豆で流人の生活を送っていますが、平泉に義経が呼ばれたことを知っていたようで、源氏の嫡男をさておいて弟とかかわったことについて自分がないがしろされたと敵心を抱いたと考えられます。
義経は東北の地で高度な弓馬の術を身に着け、父源義朝の敵討ち参戦を心待ちしていました。
頼朝の平氏打倒の出兵を知った義経は頼朝軍に合流し、皆さんご存知の大活躍で平氏が滅ぼされます。平氏は帝の護衛係でありましたが、帝は平氏没後代わりに義経に検非違使の官職を与えました。義経は戦功の褒美と思い込み喜んで受けましたが、頼朝はそれを良しとせず義経追放に走ります。義経は弁慶とともに再び平泉の秀衡を頼りに身を寄せます。それも頼朝の知るところになり、度重なる義経引き渡し要請に、平泉4代泰衡は義経の館に夜襲をかけ義経は自害することになり、その首を頼朝に送りました。が、これらを口実に頼朝は奥州征伐を実施し平泉は約100年で終末を迎えることになります。頼朝は平氏の次は平泉を攻める事は最初から考えていたようです。義経の首は別人のものであり、義経自身は青森から船で宋に脱出したという説もあるようですが ????? いかがでしょうか
「炎立つ」第5巻はそのような内容の歴史物語です。 続く
前九年の役後の陸奥の国は清原一族が統治しています。
棟梁は武貞である。その子供として本妻の子嫡男真衡(さねひら)、後妻の連れ子清衡、側室のあらたな子家衡、と3人の男子は種違い腹違いの複雑な関係である。清衡は幼名を清丸だったが清原家に入ってから 武貞は武衡と改名し、清丸は清衡に改名した。 清は父経清の一字、衡は永衡の一字が用いられている。両者とも朝廷側から安倍側に寝返って安倍のため死した因縁の名前である。清衡の母が提案した模様である。いずれは安倍血筋の再興を狙っていたのかもしれません。
武貞から嫡男の真衡(さねひら)に家督が移ると一族の長老出羽の吉彦秀武(きみこのひでたけ)と対立し内紛が勃発します。真衡(さねひら)、は出羽の秀武攻めに出陣するが途中病死してしまいます。その後領地は清衡と家衡に分け与え内紛は小康状態となります。
が領地配分に不満を持つ家衡が清衡の館を奇襲し妻子を殺害武力対立となります。
難を逃れた清衡の訴えで陸奥守に赴任した源義家は数千騎で家衡が立てこもる出羽の沼柵に清衡軍とともに出撃します。おりしも冬将軍まっただ中の為決着つかず一時引き返します。その後家衡軍は出羽金沢柵に移転し籠城するも義家清衡軍の兵糧攻めにあい全滅します。清衡勝利となり後三年役終了となりました。ここに、もともと陸奥の支配者であった安倍の血筋の清衡の手中に領地が戻ったことになり 奥州平泉の開祖としての立場が確立することになります。
写真の4巻は後三年役の歴史物語が描かれています。 つづく
征夷の38年の戦いが終わって250年
その間朝廷と蝦夷の間では小競り合いはあったものの大戦さは起こらなかった。
蝦夷で蝦夷を制する対策で地場の長の中には地方豪族として強大な力を保持するものが出てきた。
陸奥国では安倍一族、出羽では清原一族がそれにあたる。
それに国府の出先に派遣された役人と地方豪族が婚姻関係を結び土着化が進んだ。
亘理の役人藤原経清、伊具郡の役人平永衡は安倍一族の娘と結婚している。
ちなみに 藤原経清は平将門を討った藤原秀郷嫡流となります。
そのような環境の中で陸奥国の安倍一族が所領の境界線を越えて南進するとともに
貢租を拒んだことから再び蝦夷と朝廷の争いが勃発してしまいます。
この戦いが後に前9年の戦いと称されることになります。
この戦いでは源氏の棟梁源頼義、義家親子が派遣されますが安倍一族の防戦は固く
出羽の清原の援軍を頼ることで終結を見ます。安倍一族は斬首され崩壊します。
亘理の藤原経清、伊具の平永衡親戚関係となる安倍側に味方し安倍一族とともに処刑さてしまいます。安倍の所領は出羽の清原が受け継ぐこととなり東北すべてを所領とします。
戦後、安倍一族の娘であった藤原経清の妻と男の子はいかなる理由か、清原の後妻として生き残ることになります。清原家にはすでに先妻の子嫡男がおり、更にその後男子が生まれ、連れ子と含め3人の男子の複雑な関係がその後の後三年の戦いに引き継がれていきます。
写真は1巻から3巻までですが 前九年の戦いを藤原経清を主人公とした蝦夷側から見た歴史物語がつづられています。 続く
38年にわたる朝廷と蝦夷の戦さ後蝦夷はどうなったでしょうか
1つは 「蝦夷を持って蝦夷を制す」 という方針で土着の長を国府の官職として任命し
各地方を管理し始めました。これが後の地方豪族発生につながっていきます。
2つめは、蝦夷の集団暴動を恐れ千人単位で全国に移配されました。蝦夷は弓馬にたけていたことから全国各地の防人としての活用が多くみられます。遠くは北九州、瀬戸内海、坂東が多かったようです。ところが移住先で先住民とのトラブルや地元の盗賊に同化して略奪をするなど暴動が多発していました。朝廷はそれらを鎮圧するために中央から軍事貴族を派遣することになります。
それは、清和天皇より名を受けた源氏、桓武天皇から名をうけた平氏、摂関家から分かれた藤原流らが担当することになります。その中で鎮圧のため派遣されていながら土着豪族と同化かして反旗を翻したのが平将門であります。将門は独立国をめざし新天皇を名乗りますが、鎮圧にさらに派遣された藤原秀郷に斬首され将門の乱は平定されます。
この時代あたりが武士の発生と考えられのではないでしょうか。
蝦夷の全国移住が起因の一つと考えられます。
前回の坂之上田村麻呂の征夷の戦いには、坂東から数万という単位で民兵が
徴兵されて戦ったことがわかっています。 続く
まず読み解いたのが東北の戦争の歴史であります。
都から蝦夷(えみし)と蔑まれ、毛皮を着て洞穴に住み
獣を食しているとみられていた東北の民族。
しかし、厳しい四季の環境にもめげず
自然を愛し深い絆で結ばれて生活していた東北の民でした。
奈良時代まだ朝廷に服属していない東北を陸奥の国と呼び
その住民を蝦夷しと蔑称し、その居住区の境界線に国府多賀城柵が設置された。
蝦夷の侵入を恐れてのことである。
都では東大寺の大仏建立の時期に陸奥から日本初の金山が発掘されたのを機会に
朝廷の陸奥の国侵略が始まることになります。
迎え撃つは蝦夷の若きリーダーアテルイであります。
宿敵坂之上田村麻呂との命を懸けた戦いが開始されます。
その一連の史実に沿いながら小説化されたのが高橋克彦著「火怨」であます。
驚きと感動で号泣の場面が多々出できます。
合わせて、鈴木拓也著「蝦夷と東北戦争」の
史実資料を合わせ読むとなお理解か深まることでしょう
この38年間続いた征夷の戦争を皮切りに東北に火の手が上がります。
また、武士の発生にも大きくかかわってくることになるのです。 続く
忘れられない大震災でした。しかし、
そこに見られた東北の人々の絆と礼節と我慢強さは
世界中を驚かせました。
私は書籍は今までほとんどが乱読で後は書棚に
飾りっぱなしが多かったのですが
この冬場に除雪作業がなかった時間を活用して
再読も含め熟読してみました。それが写真の書籍です。
この際私たちが住んでいる東北の歴史を再び学ぶことで
東北人とは何か その絆や礼節や辛抱強さは
どこから来ているのか探し求めてみたいと考えました。
これは東北人だけではなく日本人と置き換えても過言ではないと考えます。
そのようなことでブログのアップ数が激減してしまいました。