遊客人旅日記 〜 旅の徒然なるままに 〜
読書メモ
(新暦:2006年5月14日)
***** 運開き 山形県最上郡舟形村(現:最上郡舟形町) いつの頃からか詳らかでない。この日、高い山に登れば運が開けるとの言い伝えから、運開きと称し、午後から仕事を休み、連れ立って、山や丘に登り、酒を飲む。 ***** 田植えの時期、一休みしましょうということなのでしょうか。 さて、今年の旧暦4月17日は、5月14日で日曜日。ちょうど、ぴったりの行事が長井であります。「葉山民衆登山」です。今年の運開きに、山登りはどうでしょう。ただし、飲みすぎると後が大変ですけど。 (注)本文は、わかりやすくするため、現代表記に直してあります。引用等なさる場合は、必ず原典をご参照ください。 *出所:仙台鉄道局編纂、『増補・東北の民俗』、日本旅行協会、昭和12年初版、昭和16年再版。 |
山形で仕事をするようになってから、ひとつだけ気をつけていることがあります。
それは、歴史を勉強しようということです。 私の仕事は、まちづくりに関することなのですが、ある時、高齢者の方から、「わがまちには、わがまちの歴史がある。それを理解してもらって、それから、新しいことや、他の事例などを紹介して、そして、わがまちにあったことを考えて欲しい」ということを言われました。 なるほど、それはその通りだなと、いつも心に留めています。 そんなことがあって、それ以来、山形や、置賜や、長井に関する歴史や習慣に関する本があるとできるだけ、読むように心がけています。まだまだ、ちっとも足りませんが。 そんな中で、ある日、札幌の古書店で見つけた本が、とてもおもしろかったので、長井で打ち合わせがあった時に持参しました。そうしたら、みなさんで、わいわい、「ああ、昔、やっていた」、「これは今でもやるけどなあ」、「これは聞いたことがないなあ」などなど。 その本は、昭和12年に仙台鉄道局編纂で、日本旅行協会から発行された『東北の民俗』というものです。東北地方の各駅に命じて、その土地、その土地の習俗を集めたものだそうです。 この『特集』では、季節、時期に応じて、その本からお祭りや習慣などを再録してみようと思います。 |
大正13年に鉄道省から発行された全国旅行案内から、抜粋してみます。
漢字などは多少、現代漢字に直してあります。 「奥羽三楽郷(境)」とは、上ノ山温泉に加え、会津の東山温泉、庄内の湯野浜温泉だそうです。 人車軌道や箱橇に乗って、のんびり温泉地に向かうなんて、いいですねえ。人車軌道が赤湯に走っていたのは、大正8年(1919年)から大正15年(1926年)までのわずか8年間だけだったそうです。 *************************** 【赤湯】(あかゆ) 三六哩一 長井線の分岐点 ▼赤湯温泉、東十六丁、〔人力〕車四十銭、人車軌道二十銭、積雪の際は箱橇〔はこぞり〕を用いる。後山烏帽子山は偕楽園と呼び八幡神社あり、桜の名所である。温泉から近く白龍湖がある。名物じゅん菜、石焼唐辛、旅館丹波館、湊屋、丹泉ホテル、堺屋等 長井線 赤湯、荒砥間十九里の支線である、宮内町駅の附近は製糸工場が多く長井、荒砥は長井紬俗に米琉の産地である、又、長井の近くには久保の桜と云う名木がある。 【中川】(なかがは)▼中山の葡萄園、一里、欧州種の適地で栽培反別三十町歩、産額三萬貫以上に上る。 【上ノ山】(かみのやま)▼上ノ山温泉、西十丁、(人力)車二十五銭、奥羽三楽境の一、町の西丘月岡城址は眺望が好い、旅館よね屋、澁澤屋、湯元屋、松本屋、寒河江屋 *************************** |
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『駄菓子のふるさと』、石橋幸作、未来社、1961年刊。
作者の石橋幸作という人物は、明治18年創業の仙台の菓子屋「石橋屋」の先代であり、東北地方の駄菓子を調査・収集し、著書も残している。いわば在野の研究者であるといえる。彼の収集した資料は、現在、仙台市博物館や愛知県の明治村に残されており、また、仙台市の「石橋屋駄菓子資料館」でも見ることができる。彼の駄菓子研究の執念は、著書を読んでいても、感じることができる。
この本の中でも、彼は幾度となく駄菓子作りが工業化される中で、人の手から離れ、本来の「味」や「香り」が失われることを嘆いています。
この本は、恐らく菓子職人や料理研究家にとっては貴重な内容であり、昭和30年代という急速に日本全国が均一化されている時期に残されたものであり、一つの文化史としても価値のあるものだとおもいます。
ただ、ふつうの人が読むと、ものすごい駄菓子オタクのおじさんの話を聞いているような感じで、そのウンチクに感心しつつ、「駄菓子への愛」を強く感じてしまうのです。
さて、そうそう、ズンダ餅。ジンダンとか、ジンダとか、場所によって呼び名が違うようですけど、石橋氏は「ズンダ餅」の由来について次のように説明しています。
お釈迦さんの一番最後の弟子に「淳陀(じゅんだ)」という人がいた。お釈迦さんが亡くなったのは、彼の作ったきのこ汁にあたったから。
「淳陀は悲嘆の涙にくれ、たむけに豆粉の餅を供えました。それが淳陀餅の本当の名であるというのです。とこどが、伊達政宗公が元祖だともいわれております。それは貞山さまが陣中で家来に陣太刀でユデ豆をつぶさせて、それを餅にまぶして食ったのが起りで、陣太刀餅がズンダ餅になったなどともいわれています。また一方には、むかし甚太という百姓があって、初めてこしらえたので甚太餅というのだという説もあるようです。いずれもズンタ餅というのは、すり鉢にはじき豆を入れて、すりこ木でこづくのだから、豆ン打(ずんだ)餅というのであると教えてくれた人もありました。ズンダ餅は仙台特有の名称なのか、他県ではこれと同じものがあるが、ズンダ餅とはいわずにヌタ餅などと呼んでいるようです。いずれも仙台のズンダ餅と異なるところがないとすれば、いずれがさきか、またいつの時代に仙台に輸入されたものなのか、ほとんど見当がつきません。」p53-54
諸説あっておもしろいものですなあ。知っているかと言って、なんの役にも立たないのだけど、ちょっとしたウンチクですな。しかし、では、ジンダンとか、ジンダも同じなのでしょうか。山形の人は、由来をどう教えられましたか?