5月恒例長井小学校の獅子舞い稽古が始まって3日目になった。
なんと六年生男子は0・・・始まって以来の現象である。
その代わり5年生のやる気満々の男子が多数揃った。
女子の6年は1人。
笛の女子も例年に無く少なくて5・6年前と比べると3分の1。
例年の2列になっての笛行進は出来なくなってしまった。
最近の風潮というか・・人々の風向きが揺らいでいるというか、今でとは違って来ているよう
だ。
教務の先生方に助けていただいているが大いに私、指導者の力不足も影響しているのだろう。
調べれば調べる程に魅力に満ちた獅子舞の文化歴史だが、その魅力を子供達にどう伝えるか
ずっと戸惑っている。
稽古3日目終了後にやっと校長先生と懇談する機会があった。
校長は、長女の担任でもお世話になったり教頭時代でも獅子舞いクラブでお世話になってい
る。
歳も一つ上なので近く話しやすい。
校長はトローンボーンの名手でもあるので、今後の話の後にバックに入っている法螺貝をご披
露してみた。
やはり音楽畑の人間だけに見慣れぬ楽器は興味津々。さっそく吹いてみる。
流石だ・・なんと2・3分で高音まで吹き出してしまった。
私の血が滲む様な法螺修行は何だったんだ!!
校長室で法螺貝の合奏は長井小学校の歴史始まって以来の事だろうと可笑しくなった。
ひょっとして黒獅子まつりで校長の法螺貝デビューが見られるかも知れない。
ちなみに長井小学校のレンガ色の校舎は、耐震構造の規制の影響で使用禁止になり、職員室や
校長室は仮のプレハブになってしまっている。
慣れ親しんだ明治が薫る木造校舎は形骸化してしまった。
仮の校長室に、暫く謎の法螺貝が響いていた。
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白鷹十王に関寺あり・・増量完了
白鷹町十王に関寺十一面観音あり・・・。
米沢の笹野観音と山口の羽黒神社を足して二で割った様な名刹だった!
伽藍は置賜で笹野観音に次ぐ規模、杉の大木がその歴史の深さを物語っている。
その奥に先日獅子舞いに遭遇した皇大神社がある。
手前に別の寺があったのだが、直ぐ後ろの斜面が大雨で崩れ被災し無くなっている。
更地になって工事の跡が生々しかった。
最初気づかず、その右側に石畳の参道があった。雨が落ちて来たのでカメラをかばいながら
駆け上がると、この風景が見えてくるのである。
頭の中では宮崎 駿の「風の谷のナウシカ」で登場のオウムが現れるときのシタール風の効果
音が響く・・・。
石階段の終わりから観音堂迄100mもあろうか、その間に樹齢500年はあろうかの杉の巨木が
そそり立っていた。
根元は空洞があった。そこには石仏が祀られ信仰の歴史が伝わって来る。
屋根も巨大で軒が深く、今は銅板葺きだが茅葺きだった頃の勇姿を想像すると補修の葺き替え
の費用が気が遠くなるような茅屋根だっただろう・・・現実的だが。
ぱっと見、拝殿入り口の獅子彫刻が同所龍沢寺の彫刻様式に似ている。
勘が当たれば、長谷部吉之助か新海惣松になる。
こちら龍沢寺の獅子彫刻と比較してみよう。
独特な長いタテガミがなびく透かし彫りの手法が共通している。見返している構図
も同じであるが、気になる違和感もあるので分析を進めよう。
拝殿の中も広く、奉納の絵馬が見られる。
落書きでなく落書というそうだ・・マゲを結った似顔絵風の落書は珍しい。
その上部に見える奉納札の下に重ねられて、チョッと文字が見える板があるのが
気になる・・・釘で打ち付けられているが、何時かそれを見てみたいものだ。
そういう発想は変だろうか?
大きな絵馬の鮮やかな朱色が目を引く。明治期隆盛を極めた当地の参拝を描いている。
関寺川の橋からお堂迄参拝の行列ができている。まだ西洋の遠近法が入っていない
描き方は、かえって新鮮に見える。
お堂の回廊巡りで、検索するとポツンと小さな絵馬が額縁に収まっている。
なんと獅子舞の太鼓を興ずる中華風の幼児が描かれているのだ。
先日、上小松のその道に詳しい敏和オジサンから獅子舞絵馬を見せてもらったばかりなので
自分としては大発見の狂喜乱舞なのだが・・・この心情理解出来る方は少ないだろう。
外気に晒され、だいぶ褪色劣化が著しいが獅子幕の青が少し残っている。
幼児の健やかな成長を祈願したものか、幼児の御霊を慰める絵馬なのかは不明である。
奉納者が「大貫右エ門」絵師は「文秀」と見える。
誰が何を、何時、何の為に行なった奉納かを知れば興味深い記録を知る事になるだろう。
肝心の連休に出会った皇大神社をご紹介を忘れていた。
神社前の境内中央に杉の巨木がそそり立ち、時間という概念を無視した生き様を見せていた。
かつて聖地だったろう面影は悲しいかな今は無い。
米沢の笹野観音と山口の羽黒神社を足して二で割った様な名刹だった!
伽藍は置賜で笹野観音に次ぐ規模、杉の大木がその歴史の深さを物語っている。
その奥に先日獅子舞いに遭遇した皇大神社がある。
手前に別の寺があったのだが、直ぐ後ろの斜面が大雨で崩れ被災し無くなっている。
更地になって工事の跡が生々しかった。
最初気づかず、その右側に石畳の参道があった。雨が落ちて来たのでカメラをかばいながら
駆け上がると、この風景が見えてくるのである。
頭の中では宮崎 駿の「風の谷のナウシカ」で登場のオウムが現れるときのシタール風の効果
音が響く・・・。
石階段の終わりから観音堂迄100mもあろうか、その間に樹齢500年はあろうかの杉の巨木が
そそり立っていた。
根元は空洞があった。そこには石仏が祀られ信仰の歴史が伝わって来る。
屋根も巨大で軒が深く、今は銅板葺きだが茅葺きだった頃の勇姿を想像すると補修の葺き替え
の費用が気が遠くなるような茅屋根だっただろう・・・現実的だが。
ぱっと見、拝殿入り口の獅子彫刻が同所龍沢寺の彫刻様式に似ている。
勘が当たれば、長谷部吉之助か新海惣松になる。
こちら龍沢寺の獅子彫刻と比較してみよう。
独特な長いタテガミがなびく透かし彫りの手法が共通している。見返している構図
も同じであるが、気になる違和感もあるので分析を進めよう。
拝殿の中も広く、奉納の絵馬が見られる。
落書きでなく落書というそうだ・・マゲを結った似顔絵風の落書は珍しい。
その上部に見える奉納札の下に重ねられて、チョッと文字が見える板があるのが
気になる・・・釘で打ち付けられているが、何時かそれを見てみたいものだ。
そういう発想は変だろうか?
大きな絵馬の鮮やかな朱色が目を引く。明治期隆盛を極めた当地の参拝を描いている。
関寺川の橋からお堂迄参拝の行列ができている。まだ西洋の遠近法が入っていない
描き方は、かえって新鮮に見える。
お堂の回廊巡りで、検索するとポツンと小さな絵馬が額縁に収まっている。
なんと獅子舞の太鼓を興ずる中華風の幼児が描かれているのだ。
先日、上小松のその道に詳しい敏和オジサンから獅子舞絵馬を見せてもらったばかりなので
自分としては大発見の狂喜乱舞なのだが・・・この心情理解出来る方は少ないだろう。
外気に晒され、だいぶ褪色劣化が著しいが獅子幕の青が少し残っている。
幼児の健やかな成長を祈願したものか、幼児の御霊を慰める絵馬なのかは不明である。
奉納者が「大貫右エ門」絵師は「文秀」と見える。
誰が何を、何時、何の為に行なった奉納かを知れば興味深い記録を知る事になるだろう。
肝心の連休に出会った皇大神社をご紹介を忘れていた。
神社前の境内中央に杉の巨木がそそり立ち、時間という概念を無視した生き様を見せていた。
かつて聖地だったろう面影は悲しいかな今は無い。
白鷹仲町深山神社から米沢窪田白山神社、赤崩そして川西ウロウロ
今日の様な五月晴れの快い温暖な気候・・
ずーーっと一年中こうあって貰えないだろうかというのが、私の個人的な願いだ。
カラッとして強い日差しながらも、日陰は涼しい。
植物にとっても長い冬を耐えて新芽を出して、光合成するには又と無い季節。
綺麗な花やトゲトゲの雑草の人間には関係無くグングン成長するのである。
田圃ではトラクターがあちこちで稼働し、代掻きまで進んでいる。
猫の手も借りたいまさに農繁期だ。
トラクターの機能も向上している様で、車輪からキャタピラーに履き替えキャビンはエアコン
どころかオーディオも完備しているらしい。そのうちカラオケやパチンコまでしながら
トラクターでの耕作も可能になるのではないか?
将来は自宅から無人のトラクターにゲームしながらスマホで指令を出し耕作や代掻き、
田植え、稲刈り等をこなしてしまう時代は間近だろう。
そんな余計な妄想を考えながら蕎麦打ちを済ませ、白鷹町仲町に向かう・・・。
犬も歩けば棒に・・なんとやらで目的の獅子舞いに荒砥高校前でいきなり出会ってしまった。
仲町深山神社の獅子頭は荒砥系の獅子頭と勝手に分類した。
神社の彫刻を経験した彫り師の作った獅子頭様式と考えている。
かなり良い獅子頭である。
タテガミが邪魔をして獅子頭の表情観察は半減するが、形良い!
長谷部吉之助の匂いがする。
横から見ると西高玉稲荷の長谷部の作と近い。
背景の山々の新緑や庭の木々や花々が盛りで獅子を引き立てて素晴らしい風景だ。
岡の上に深山神社があるが、この場所は地元の方でないと発見出来ないだろう。
秋は近くの稲荷神社で、きつね祭りで新町と仲町合同で盛大に獅子舞を行なうそうだ。
午後から米沢に向かう。
窪田町の白山神社に立ち寄ると、嫌に静かで祭りの気配はない。
昨年、置賜民俗学会で「キリハライ」の講演に参加した時、こちらの宮司さんがこちらの神社
に伝わるキリハライについてお話し戴いた。
一度、昨日調査していた赤崩錦戸薬師堂まで行ってみると、例大祭なのに消防の集まりがあり
誰も不在と水汲みの方に教えてもらった。詳しくは夏祭りで調査する事にせざるを得なかっ
た。ここの水の人気は凄い・・また別の方が汲みに来ている。
収穫無しでは帰れない。
再び窪田白山神社に戻ると宮司さんがおられたので獅子頭を拝見する。
新しい獅子頭は渡行中らしい・・・訪れた時かなり町内を捜索したのだが、
太鼓の囃子が無いせいか居所が分からない。
宇津権九郎タイプ雄獅子型の獅子頭は少し不遇の居場所にあり悲しそうだった。
簡易台座があり記名が残っていたのでありがたい。大正九年に奉納だ。
この型は、寸分違う事無いように作られた獅子頭で高い技術なのだが面白味が無い。
古い神輿が神社の前で鎮座し、渡行するのは子供会の酒樽神輿のようである。
前夜祭で夕方から町内を巡るようである。
出会えなかった新しい方の獅子舞いが心残りであった。
帰り足・・通った事の無い道を選んで田圃道を北にウロウロ・・・。
やがて遠くから小高い古そうな杉の木を見つけて寄っていくと、川西町中郡小学校の西に「のぞ
き」草冠に位と書いて「のぞき」と読む。変換出来ないので悪しからず。
白子神社の隣に五十川蘊安神社にある様な二股の杉の巨木があった。
直ぐ隣に正常寺がある。
確か三匹獅子の獅子頭が新聞で紹介していたのを記憶しているのだが・・。
白い車があって撮影している自分を怪しそうに凝視していらっしゃるので声をかけた。
撮影の事情を説明すると、意外にも神社に神楽の赤い獅子頭があるという・・・。
昔は一対あったが、いつの間にか一頭行方不明なのだという。
その神社関係者の方に、拝見出来る様お願いして名刺を渡して戻る。
またまた田圃道を北に・・・発進。
すると晴れ渡った青空の下に、水の張った田圃にポツンと浮いた寺に出会った。
近づいてみると川西町堀金字谷地の宝蔵寺だ。
その境内に鬼子母神があり龍と獅子の彫刻がとくに見事だった。
その龍の彫りの深い眼には、玉眼が施され見る者を睨みつけている。
彫刻の梁の裏に珍しく記名があり「金子熊五郎」と彫り込まれていた。
「金子?」
明治期に獅子頭も制作し、指物大工だった西大塚に金子 豊氏という方がおられたが、
その先祖かも知れない。
この時期、日はどんどん長くなり夕方の黄昏れる時間が長い。
西山の上に、まだお天道様がニヤニヤして自分を眺めていた。
ずーーっと一年中こうあって貰えないだろうかというのが、私の個人的な願いだ。
カラッとして強い日差しながらも、日陰は涼しい。
植物にとっても長い冬を耐えて新芽を出して、光合成するには又と無い季節。
綺麗な花やトゲトゲの雑草の人間には関係無くグングン成長するのである。
田圃ではトラクターがあちこちで稼働し、代掻きまで進んでいる。
猫の手も借りたいまさに農繁期だ。
トラクターの機能も向上している様で、車輪からキャタピラーに履き替えキャビンはエアコン
どころかオーディオも完備しているらしい。そのうちカラオケやパチンコまでしながら
トラクターでの耕作も可能になるのではないか?
将来は自宅から無人のトラクターにゲームしながらスマホで指令を出し耕作や代掻き、
田植え、稲刈り等をこなしてしまう時代は間近だろう。
そんな余計な妄想を考えながら蕎麦打ちを済ませ、白鷹町仲町に向かう・・・。
犬も歩けば棒に・・なんとやらで目的の獅子舞いに荒砥高校前でいきなり出会ってしまった。
仲町深山神社の獅子頭は荒砥系の獅子頭と勝手に分類した。
神社の彫刻を経験した彫り師の作った獅子頭様式と考えている。
かなり良い獅子頭である。
タテガミが邪魔をして獅子頭の表情観察は半減するが、形良い!
長谷部吉之助の匂いがする。
横から見ると西高玉稲荷の長谷部の作と近い。
背景の山々の新緑や庭の木々や花々が盛りで獅子を引き立てて素晴らしい風景だ。
岡の上に深山神社があるが、この場所は地元の方でないと発見出来ないだろう。
秋は近くの稲荷神社で、きつね祭りで新町と仲町合同で盛大に獅子舞を行なうそうだ。
午後から米沢に向かう。
窪田町の白山神社に立ち寄ると、嫌に静かで祭りの気配はない。
昨年、置賜民俗学会で「キリハライ」の講演に参加した時、こちらの宮司さんがこちらの神社
に伝わるキリハライについてお話し戴いた。
一度、昨日調査していた赤崩錦戸薬師堂まで行ってみると、例大祭なのに消防の集まりがあり
誰も不在と水汲みの方に教えてもらった。詳しくは夏祭りで調査する事にせざるを得なかっ
た。ここの水の人気は凄い・・また別の方が汲みに来ている。
収穫無しでは帰れない。
再び窪田白山神社に戻ると宮司さんがおられたので獅子頭を拝見する。
新しい獅子頭は渡行中らしい・・・訪れた時かなり町内を捜索したのだが、
太鼓の囃子が無いせいか居所が分からない。
宇津権九郎タイプ雄獅子型の獅子頭は少し不遇の居場所にあり悲しそうだった。
簡易台座があり記名が残っていたのでありがたい。大正九年に奉納だ。
この型は、寸分違う事無いように作られた獅子頭で高い技術なのだが面白味が無い。
古い神輿が神社の前で鎮座し、渡行するのは子供会の酒樽神輿のようである。
前夜祭で夕方から町内を巡るようである。
出会えなかった新しい方の獅子舞いが心残りであった。
帰り足・・通った事の無い道を選んで田圃道を北にウロウロ・・・。
やがて遠くから小高い古そうな杉の木を見つけて寄っていくと、川西町中郡小学校の西に「のぞ
き」草冠に位と書いて「のぞき」と読む。変換出来ないので悪しからず。
白子神社の隣に五十川蘊安神社にある様な二股の杉の巨木があった。
直ぐ隣に正常寺がある。
確か三匹獅子の獅子頭が新聞で紹介していたのを記憶しているのだが・・。
白い車があって撮影している自分を怪しそうに凝視していらっしゃるので声をかけた。
撮影の事情を説明すると、意外にも神社に神楽の赤い獅子頭があるという・・・。
昔は一対あったが、いつの間にか一頭行方不明なのだという。
その神社関係者の方に、拝見出来る様お願いして名刺を渡して戻る。
またまた田圃道を北に・・・発進。
すると晴れ渡った青空の下に、水の張った田圃にポツンと浮いた寺に出会った。
近づいてみると川西町堀金字谷地の宝蔵寺だ。
その境内に鬼子母神があり龍と獅子の彫刻がとくに見事だった。
その龍の彫りの深い眼には、玉眼が施され見る者を睨みつけている。
彫刻の梁の裏に珍しく記名があり「金子熊五郎」と彫り込まれていた。
「金子?」
明治期に獅子頭も制作し、指物大工だった西大塚に金子 豊氏という方がおられたが、
その先祖かも知れない。
この時期、日はどんどん長くなり夕方の黄昏れる時間が長い。
西山の上に、まだお天道様がニヤニヤして自分を眺めていた。
白鷹深山稲荷の初陣獅子。。そして赤崩へ
連休後半五日・・。
明治の獅子彫り名匠 梅津弥兵衛氏の大町の生家で取材の後、白鷹町深山の稲荷神社に向か
う。
もう少し早く神社に着けば良かったのだが・・・
深山地区内をアチコチ獅子探しているうちに見逃してしまった。
丁度、稲荷神社に入って獅子頭が収まっちゃった所で辿り着いたのである。
昨年、納めた獅子頭は稲荷神社の真ん中でドンと安堵した様子で鎮座していた。
産みの親頼らず無事に初めての渡行を勤めたようである。
お世話になった神主と総代、獅子連の若者たちに礼を述べて戻る。
また今日も風が強い・・。
さて・・七日は米沢市の赤崩錦戸薬師堂の例大祭前日である。
関根の普門院に安置されている薬師像を神輿に乗せて、例大祭の為に薬師堂に御戻りになる。
その神輿の守護をする獅子頭があるという資料を調べてあるのだ。
赤崩地区は米沢市の南部・・赤崩山は総宮神社の山号。
本来は神社ではなく寺にあるものだが神仏分離以前の名残だろうか。
その赤崩の錦戸薬師堂を目指した・・動物的勘に自信があり、どんどん山間を軽トラで登って
いくと辿り着いた。
看板があり、その入り口の手水で水が湧き出てあり、水を汲んでいる方に話しかけて情報収集
する。
取材をして気づくが、どの方も本当に気持ち良く親切に話してくれる。
急な参道を10分程登ると薬師堂があるそうだが、その方は行った事がないそうだ。
直ぐ側の地面は杉葉で覆われ薄暗いのだが、その地面の下から蝉の様なカエルの声が
アチコチから響いて来る。初めて聞く鳴き声だ・・
呼び合う様な鳴き声は、なんとも言えない気品ある調べのようでもある。
なんと急峻でスリリングな参道だ。雪崩らしき跡に、根こそぎ倒れた巨木が根っこを
上にしてひっくり返っている。
ようやくお堂が見えて来るが黒い・・・鬱蒼とした木々の為でなく黒く塗られている様。
大岩を側に従えね黒い薬師堂はひっそり佇んでいた。
お堂は意外と大きく、こんな急な斜面に資材を担ぎ上げよくぞ建設したかと関心する。
お祭りの気配はないので下山すると、また水汲みしている方が来ていた。
笹野から来たのだという。ご飯を炊くときと、お茶の時は必ずこの水を用いるらしい。
皆さん信仰より健康の方に関心があるようだ。
獅子頭に会えるか駄目元で別当の普門院に訪れると、獅子頭が待っていた。
夜七時から氏子が訪れ、神輿にお薬師様を納め移動するのだと言う。
獅子頭も丁度待機して、抜群のタイミングだったようだ。
獅子頭は耳と舌が欠損し、記名も由来も無かった。
この獅子頭については氏子に聞くしかない。
法螺貝もあったので未知の獅子頭との出会いを祝い吹かせてもらった。
明治の獅子彫り名匠 梅津弥兵衛氏の大町の生家で取材の後、白鷹町深山の稲荷神社に向か
う。
もう少し早く神社に着けば良かったのだが・・・
深山地区内をアチコチ獅子探しているうちに見逃してしまった。
丁度、稲荷神社に入って獅子頭が収まっちゃった所で辿り着いたのである。
昨年、納めた獅子頭は稲荷神社の真ん中でドンと安堵した様子で鎮座していた。
産みの親頼らず無事に初めての渡行を勤めたようである。
お世話になった神主と総代、獅子連の若者たちに礼を述べて戻る。
また今日も風が強い・・。
さて・・七日は米沢市の赤崩錦戸薬師堂の例大祭前日である。
関根の普門院に安置されている薬師像を神輿に乗せて、例大祭の為に薬師堂に御戻りになる。
その神輿の守護をする獅子頭があるという資料を調べてあるのだ。
赤崩地区は米沢市の南部・・赤崩山は総宮神社の山号。
本来は神社ではなく寺にあるものだが神仏分離以前の名残だろうか。
その赤崩の錦戸薬師堂を目指した・・動物的勘に自信があり、どんどん山間を軽トラで登って
いくと辿り着いた。
看板があり、その入り口の手水で水が湧き出てあり、水を汲んでいる方に話しかけて情報収集
する。
取材をして気づくが、どの方も本当に気持ち良く親切に話してくれる。
急な参道を10分程登ると薬師堂があるそうだが、その方は行った事がないそうだ。
直ぐ側の地面は杉葉で覆われ薄暗いのだが、その地面の下から蝉の様なカエルの声が
アチコチから響いて来る。初めて聞く鳴き声だ・・
呼び合う様な鳴き声は、なんとも言えない気品ある調べのようでもある。
なんと急峻でスリリングな参道だ。雪崩らしき跡に、根こそぎ倒れた巨木が根っこを
上にしてひっくり返っている。
ようやくお堂が見えて来るが黒い・・・鬱蒼とした木々の為でなく黒く塗られている様。
大岩を側に従えね黒い薬師堂はひっそり佇んでいた。
お堂は意外と大きく、こんな急な斜面に資材を担ぎ上げよくぞ建設したかと関心する。
お祭りの気配はないので下山すると、また水汲みしている方が来ていた。
笹野から来たのだという。ご飯を炊くときと、お茶の時は必ずこの水を用いるらしい。
皆さん信仰より健康の方に関心があるようだ。
獅子頭に会えるか駄目元で別当の普門院に訪れると、獅子頭が待っていた。
夜七時から氏子が訪れ、神輿にお薬師様を納め移動するのだと言う。
獅子頭も丁度待機して、抜群のタイミングだったようだ。
獅子頭は耳と舌が欠損し、記名も由来も無かった。
この獅子頭については氏子に聞くしかない。
法螺貝もあったので未知の獅子頭との出会いを祝い吹かせてもらった。
謎一つ解決
三月に米沢市長手地区の三宝荒神神社の獅子頭について取材した件をご記憶あるだろうか?
獅子頭の内部に「村上大町 工治平」と記名があった話である。
早速、新潟県村上市の堆朱塗りの組合に問い合わせし、「おしゃぎり会館」の館長さんをご紹
介戴いたので記名の写真と獅子頭の写真、村上市の長井町の獅子頭とを比較した写真を見て貰
ったのだ。
梨の礫なので諦めかけていたが先ほど返事が届いた。
こうである・・村上の獅子頭で古い小国町(村上市の)の頭に「村上大町 治平作之」とある
そうである。
治平(はるひら?)の作の意である。
米沢長手の獅子頭の「工治平」の「工」は工人、または大工、木工等の工匠の意味。
同じ「治平」という彫り師の獅子頭と判明したのだ。
また館長さんから、
「本来、大工は規矩、建築、彫刻が出来て一人前の大工と言われていましたので、
その大工の系譜の中から彫刻の名工と言われている人が輩出しています。
おそらく「治平」もそうした一人であったのではないかと思います。」
・・という説明を戴いたのである。
解説文と共に村上七夕祭りの出演各町内の獅子舞いDVDも同封して戴いた。
拝見すると以前、えくぼ獅子舞が村上七夕祭りのイベントに招かれ共演した獅子舞いもあり
その時気づかなかった特徴も見えてきた。
村上の獅子頭はいずれも赤獅子で、山形県でも見られる神楽獅子なのである。
両手で和紙で作ったシデ「ぼんでん?」と巫女舞で用いられる様な鈴を持って、獅子頭は軸棒
を噛んで被って舞う。また次のシーンでは獅子頭を持って激しく舞う。
村上と置賜との結びつきは古くからあり、越後の大工が置賜の神社を手掛けている。
また開拓民として置賜に移住し根付いて交流しているのだ。
京都文化の影響が濃い村上の獅子頭と白鷹で見られる赤い獅子との関わりは、白鷹でも行なわ
れていた神楽系の獅子舞と関係がありそうである。
白鷹町でも浅立、鮎貝、黒鴨に神楽獅子があり、長井の総宮神社でも神楽の獅子舞が行なわれ
ていた記録もある。
関西の伊勢などの神楽獅子舞いが東北に伝播し、置賜のある場所では修験道と融合して独自な
獅子舞になったり、長井の獅子舞の様に発展したのではないか・・・。
これから村上の獅子舞と置の獅子舞の関係を探ってみたいものである。
瓢箪から駒が出た!
獅子頭の内部に「村上大町 工治平」と記名があった話である。
早速、新潟県村上市の堆朱塗りの組合に問い合わせし、「おしゃぎり会館」の館長さんをご紹
介戴いたので記名の写真と獅子頭の写真、村上市の長井町の獅子頭とを比較した写真を見て貰
ったのだ。
梨の礫なので諦めかけていたが先ほど返事が届いた。
こうである・・村上の獅子頭で古い小国町(村上市の)の頭に「村上大町 治平作之」とある
そうである。
治平(はるひら?)の作の意である。
米沢長手の獅子頭の「工治平」の「工」は工人、または大工、木工等の工匠の意味。
同じ「治平」という彫り師の獅子頭と判明したのだ。
また館長さんから、
「本来、大工は規矩、建築、彫刻が出来て一人前の大工と言われていましたので、
その大工の系譜の中から彫刻の名工と言われている人が輩出しています。
おそらく「治平」もそうした一人であったのではないかと思います。」
・・という説明を戴いたのである。
解説文と共に村上七夕祭りの出演各町内の獅子舞いDVDも同封して戴いた。
拝見すると以前、えくぼ獅子舞が村上七夕祭りのイベントに招かれ共演した獅子舞いもあり
その時気づかなかった特徴も見えてきた。
村上の獅子頭はいずれも赤獅子で、山形県でも見られる神楽獅子なのである。
両手で和紙で作ったシデ「ぼんでん?」と巫女舞で用いられる様な鈴を持って、獅子頭は軸棒
を噛んで被って舞う。また次のシーンでは獅子頭を持って激しく舞う。
村上と置賜との結びつきは古くからあり、越後の大工が置賜の神社を手掛けている。
また開拓民として置賜に移住し根付いて交流しているのだ。
京都文化の影響が濃い村上の獅子頭と白鷹で見られる赤い獅子との関わりは、白鷹でも行なわ
れていた神楽系の獅子舞と関係がありそうである。
白鷹町でも浅立、鮎貝、黒鴨に神楽獅子があり、長井の総宮神社でも神楽の獅子舞が行なわれ
ていた記録もある。
関西の伊勢などの神楽獅子舞いが東北に伝播し、置賜のある場所では修験道と融合して独自な
獅子舞になったり、長井の獅子舞の様に発展したのではないか・・・。
これから村上の獅子舞と置の獅子舞の関係を探ってみたいものである。
瓢箪から駒が出た!