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昔のしこ名資料

以前ご紹介した総宮神社略史「牛の涎」の資料の一部が出てきた。

草相撲盛んな頃の「米澤下長井郷諸村角力名乗揚(名乗り揚げ)」









何方からか戴いたコピーだろう。

現在もそのしこ名を獅子舞の角力や警護に使っている神社もあり面白い。

ウイットに富んだ意外なネーミングで吹き出してしまうものもある。

恐らく詳しく調べないと確定出来ないが、文政とか寛暦の話が傍にあるので江戸時代だろう。


ウイットに富んだ意外なネーミングで吹き出してしまうものもある。

黒鴨(白鷹?)はぶなの風折レ  スローモーションのように倒れることのたとえだろうか?

山口(しらたか)そろばん!? そろばんの駒を斜めにして揃えるあっけなさ?

宮(総宮) やすり?!  ガブリヨリの細かい所作?

小出の本町 旅狐

添川 懸軸? 掛け軸を上の方から転がして軸を転がして広げる様?

畔藤(白鷹)  細矢  ガリガリの体格の意?

玉庭(川西)  くらげ?!! 体型?

時田(川西)小柳は長井の五十川から獅子舞を習ったという言い伝えがあり、そこから

     同じしこ名なのだろう。

等等、行司が名乗り揚げした時に会場大爆笑のしこ名もある。

上杉藩から緊縮財政の圧力があり、飢饉や伝染病、自然の猛威に晒され娯楽が無かった貧しい

農村の唯一の楽しみは祭り・・祭りの一大イベント草相撲の盛況な様子がうかがえる。
2016.03.22:shishi5:コメント(3):[獅子彫り日誌]

とある木地の話

  • とある木地の話
こちらも、ちょっと古い写真資料からの話だ。

平成14年4月に納めた総宮神社の獅子頭制作の時の事である。

私の自宅ある清水町に中井さんという指物大工さんがいた。

以前、中井さんから獅子頭展の際に獅子頭をお借りした事があり、

やませ蔵さんに納めた塗りの無い獅子頭木地だった。

中井さんは中津川小屋の獅子彫り師 故渡部 亨氏より指導を受け弟子として獅子彫りに挑戦

し獅子頭を残している。



その後、獅子頭借用の縁もあり、近所の縁もあり中井さんが渡部氏が亡くなった後、妹さんか

ら譲り受けた複数の大小獅子頭の木地を私に託された。









その栃の乾燥しきった木地を使って総宮神社の現存する8番頭の部分を制作したのだ。

顎はしなやかな柳材を用いた。というのも、歴代の獅子頭は栃材で作られ破損修理を繰り返し

ている。栃は乾燥するにつれ硬化しカチカチ堅くなる。堅い材と堅い材が衝突すれば割れやす

いので、比較的柔らかい柳を顎に使えば、衝撃を吸収すると考えたのだ。





また渡部氏は、西置賜各地の数多くの神社や個人の獅子頭を制作している名工だが、黒獅子の

源流総宮の獅子頭を作る機会には残念ながら恵まれなかった。

まぁ・・そんな思いも私にあって渡部氏の用意した乾燥した木地の良材を使用した。



「寛文11年改め」と記名ある最古の獅子頭をモデルにして制作が始まった。

獅子彫り師にとって腕の見せ所で、形よく振りやすく頑丈な獅子頭を目指した。


同時に二頭制作し、木地が完成すると微妙に表情が違うので、どちらを選ぶか迷ってしまっ

た。

特に獅子の鼻の面が反り返った表情が良く、鼻筋が曲がり左目が飛び出た伝説の面構えと言わ

れている。・・・こちらの言葉で言えばキカナイ顔だ。





高野町に90歳を越した目利きの翁がいた。

翁は骨董に造詣が深く、自宅には洗練された骨董美術品のコレクションを収集していた。

その翁を獅子宿に招き、二頭を比べ観てもらった。

やはり私も心の中で考えていた方を翁は選ばれたのだった。

もう片方は、その後に塗りを施こし個人宅に嫁に行ってしまった。



2016.03.20:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

18年前の獅子舞いの旅

  • 18年前の獅子舞いの旅
1998年長井市の姉妹都市であるバート・ゼッキンゲン市に長井黒獅子研究会で獅子舞交流を

行った時の新聞の写しである。

あれから18年もなる。

改めて見るとドイツで強烈な日本の個性を放っている・・。





「魔法使いのような男が、先に紙が付いた棒を振って獅子に呪文を唱え甦らせる。
漆を塗ったライオンを表した木製の黒い頭。その頭を覆う白い毛は鼻からも出て、波模様が描かれた布に白い着物を着た男達が入っている・・・。笛と大きな音が出る太鼓が奏でられ、角力の様な棒を持った男がそのライオンと戦う。獅子の中の男達は手作り風のサンダルを履いていた。」

新聞の内容は解読不明であるが、

ドイツ人側の視点で表現するとこんな感じだろうか?  

想像してみた。

獅子舞いはワークショップ形式でドイツ語の解説付きで行ったので、ドイツの方々には

何をやっているか理解戴いただろう。




このシーンは拠点となるモーザッハ村メタティアタで行われたワークショップでの獅子舞

初披露だ。会場は我々を招集したドイツ人主催者の演劇場であり住居になっている。

目の前は牧草地と森、ヨーロッパの見慣れない風景が広がっていた。



石畳は獅子舞いには不適当だ。ガラスや鉄くずの危険な落とし物が散乱していた。

バードゼッキンゲンの協会や市役所が立ち並ぶ広場での獅子舞いだった。

始まる前に大勢の観客の前だが皆でゴミ拾いを開始したが、

今考えてみると獅子舞の場所を設定したが結果的に広すぎて体力は持たず散々。

現地の協力者達が応援してくれて目印のトーチを用意して火を灯してくれたが

この時期は日が長く目印には程遠かった。




2016.03.19:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

60年前の念仏踊り

  • 60年前の念仏踊り
戦後から8年・・昭和28年当時の西大塚念仏踊りの貴重な写真である。

川西の詳しいオジサンこと渡部氏に提供戴いた資料だ。

もう消滅解散して復興も検討されたが、難しい情勢。

伝統芸能は一旦途絶えると復興は至難の業だ・・・。

トップの写真は踊りの最中の様だろうか?休憩中か不明である。

左側には着物姿で花笠を被った四つ竹 ? ・・・それにしても大勢だ。

30人は居るだろうか?信じられない人数である。

弓張り提灯を持った取締役(伊佐沢では)が、しゃがんで休憩しているように見える。

その右手に男が何かを報告している・・・視線はその右手の奴だ。

奴の背負っている箱のデカイこと!!

その後ろにしゃがんでこれも休憩中の太鼓と笛の囃子だろう。

右端には纏があるが、伊佐沢の様に纏持ちが持っているのではなく固定しているようだ。

・・・と思ったら下の写真を見ると手持ちの纏がある。

纏には神が宿る重要な場所と聞いている。



なんと念仏踊り関係者百人の記念撮影である。

下の段にはオカメとヒョットコの面を持った若者が居る。

伊佐沢では面スリというヒョットコ面が居るが、オカメは居ない。

よく見ると後ろに女性の関係者がいる。伊佐沢念仏踊りでは今でも女人禁制なんだが・・。

男女混合だと、メリハリといか微妙な緊張感が芽生える。

出会いの場にもなったのだろう。



後ろに看板の文字が見える「大塚村北部青年会?」

戦後青年団の活動として行ったのだろう・・。この後、引き続き秋祭りに向けての獅子舞の

稽古が始まり村には活気が満ちていたのではないか。

五人が揃ったこの写真は大太鼓と締め太鼓、笛の囃子方だ。





九人の若者達は花笠を持っている。

半纏の襟の文字解析が面白い。

大塚と道楽◯  廣居組  ロングラン自轉車◯◯? アカユ西村・・・・・???

花笠の飾りも造花と実物の葉っぱで作られて凝っている。


戦後高度成長期の爆発的なエネルギーが伝わってくるようだ。


2016.03.18:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

昭和和六年の行列

  • 昭和和六年の行列
昭和六年九月に満州事変が起こった年である。

丁度その頃長井市横町総宮神社の例大祭で何百人の祭り行列が行われていた。

以前、総宮神社の社務所の押し入れで発見し、戴いた資料が出てきた。

二枚綴りの「昭和六年九月十八・十九日 縣社総宮神社祭典四町役割」大町建元 という

印刷物だ。

境町(現在栄町)の羽田貞蔵氏は町長を務めた方だ。

カタカナは町名の頭。

一列に合成してみたが少々見憎い。






二つに分けて拡大







詳細な人数は無いが120以上の役割に大町、新町、栄町、十日町の四町から参加者を貼付けて

いる。

現在は六町(横町と高野町が加わる)で毎年縦元が変わる。


この他に青年会が多数と笛太鼓、や獅子舞、神輿、大榊など含めると二百人は下らない数だ。

この時の例祭の映像も残っている。

確か長沼酒造さん所蔵していたものをVHFビデオに残しているが、今ではプレーヤーが無いの

で観れなくなった。

さて、行列を見ると現在の順番とは違っている。

高張提灯から延々と言われある持ち物が続き天狗面を付けた猿田彦。

獅子前後の高張提灯から獅子舞が来る。

しかし不思議な事に、警護(角力)が見当たらない。獅子舞を制御する角力姿の警護である。

我々はこの姿に見慣れているが、成田や草岡、勧進代等では扇子を持った角力(すもう)だ。

考えてみると角力が棒を持つのは不自然な気がする。

これは先払い警護と角力が融合した形ではないかというのが自説。



獅子の後ろに太鼓と笛という順番も今と違って見慣れない。

確かに笛と太鼓が先に行ってしまい獅子舞がソロになる事は無くなる。

これはわが町の清水町の獅子舞いでも改めないといけない。


獅子の前の持ち物で、現在ではない物が多数あるようだ。

塩水? 散水 一万度 花火係 椅子持ち ・・・等

昭和六年当時はアスファルトも無いだろうから散水はホコリを防ぐための水を撒く係だろう

か?

花火係は文字通り爆竹や打ち上げ花火を上げるのだろう。


以前、建元のお手伝いをした時がある。

飯豊町の諏訪神社の行列の資料を参考にしたが、こんな立派な資料があったのではない

か・・・。


昭和六年頃は満州事変などのキナ臭い軍国主義の機運が高まり、国家神道として祭りにも

影響したのだろう。

天下泰平、五穀豊穣、身体堅固、悪霊退散などを祈願する平和を願うのが祭りである。





2016.03.17:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]
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