元中山地区の日影にある念佛供養塔です。
人々が集まって念仏を行う念仏講で建立したと考えられます。
念仏講に対し、米沢藩では「念仏講で大酒をしてはならない」と命令が出ていることから、念仏講に直会はつきもので、村人たちの楽しみだったことが分かります。
風化が進んで表面が剥げ落ち建立元号は分かりません。
画像2の右上に「七」の文字と、左下に「未」の文字が確認できます。
画像3の下にある文字は「天」(年の異字」のようです。
中川地区内で講の石碑が建立されるようになったのは江戸時代中期以降からです。
七年の未年で該当するのは天明七年(1787)丁未(ひのとひつじ)になります。
「ふるさと中川」に「念仏塔と刻まれ年号は文政十二年と見える」と記載されていますが、文政十二(1829)の銘が刻まれているのは、隣にある湯殿山碑です。(画像4)
隣の石碑と近くにある石碑は倒れていて、詳細は分かりませんでした。(画像5)
参考:南陽市史
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