平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。
長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。今回のみ大正3年以前の地図も登場。
長井小学校の大正3年以前と大正3年と昭和9年
大正3年以前の地図
長井駅がまだ整備されていない。現中央十字路の西に長井小学校があった。
小出と宮の小学校が統合し「平章小学校」とし校舎が明治15年に新築。これが長井小学校の第1期に当たる。その姿が下記の写真。
明治43年時の写真。正面に小学校校舎、右側に盲学校がある。大正3年に軽便鉄道が長井まで開通することとなり、移転する。
大正3年の地図
長井駅が整備され11月15日に大々的に開通式を行った。小学校は現在の中央十字路西から、東側に移転し、第2期の小学校校舎ができる。着工が大正3年5月、竣工は大正4年5月だった。建設費は3万8千円余、3400坪の敷地。大正4年には記念事業として校章が制定された。
大正3年発行の町勢要覧グラビアに掲載された第2期校舎の建築中のシーン
完成した第2期の長井小学校
ところが、大正6年5月23日に発生した長井大火によって、この校舎が焼失してしまう。11か所で分散授業を3年にわたり行った。同じ場所に第3期の校舎整備を行う。
同場所に第3期の校舎が出来上がる。801坪で、総経費は8万1千円、大正7年から8年にかけて工事が行われた。
昭和9年の地図
32番が長井小学校。現在の場所に。
昭和9年の町勢要覧掲載の写真。ほとんど樹木がない。この校舎は昭和7年から9年にかけて整備。第一校舎は昭和8年8月22日の竣工、第2校舎など、第3期校舎を移築したものもある。第1校舎前やグラウンド廻りのプラタナスなどは昭和15年以降で町民の発起で植えていった。
明治15年に第1期校舎が整備されて以来、50数年で4回の校舎整備を行っていたことになる。驚異的だ。